のうにんじ|曹洞宗|武陽山
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飯能駅での今回の印活最後
駅から一番離れて徒歩20分強
恐らく飯能駅周辺を代表する寺院
他では参拝客に会いませんでしたが、ここでは数人の参拝客に会いました
御朱印は3種類
本尊の毘盧遮那仏の御朱印を頂きました
仁王門
仁王
仁王
参道
中雀門
本堂
本堂
開山堂
御朱印案内
挟み紙
関東の名刹✨天覧山の麓に鎮座し傾斜を利用して造られた庭園は日本名園百選です😊天覧山は標高197mの低山ですが途中岩場があり、山頂からは富士山やスカイツリーなどが望めます⛰この日は雲のない晴天でしたが、春霞(花粉⤴︎)のためぼんやりの景色でした😄山の岩場に十六羅漢像もあり楽しくお参りしながら山登りを楽しみました🙏良いお参りに感謝です💕
山門✨
山門をくぐると両脇に石灯籠が並ぶ道✨空気感が変わります!
この参道は別名「紅葉坂」だそうです😊
中雀門✨
鐘楼堂✨
広い境内✨
本堂✨
本堂の左手にある開山堂✨
お休み処✨
中雀門の左手へ
不動堂✨
書き手さんがいらっしゃらなかったので書き置き御朱印でした😊お地蔵さんの挟み紙がかわいい💓
駐車場前の🌸
登山口があります😊
御駒繋松(おこまつなぎのまつ)
十六羅漢の石仏は徳川五代将軍 綱吉の生母 桂昌院の寄進によるものと言われ、明治16年(1883)までは「羅漢山」と呼ばれていたそうです✨
山頂⛰
景色は良いです!
気持ちがいい😊
能仁寺は飯能市飯能にある曹洞宗の寺院で武陽山と号します。本尊は蘆遮那仏像。中山家勝が通幻派の名僧、斧屋文達師を招いて文亀年間(1501-1503)に創建したと伝えられ、子の家範が寺院としての寺容を整えたといわれます。天正19年5石の朱印状を拝領、宝永2年(1705)には50石の朱印状を拝領し、末寺20ヶ寺を擁する中本寺格の寺院でした。幕末の飯能戦争時に振武軍の本陣となったため本堂をはじめ悉く焼失しましたが、本堂は昭和11年に再建しています。
飯能戦争
飯能戦争とは戊辰戦争の地域戦の1 つで、渋沢成一郎、尾高惇忠、渋沢平九郎等の渋沢栄一の縁者が中心となって結成した振武軍などが、新政府軍と戦った埼玉県内唯一の戊辰戦争の戦場です。
振武軍ら旧幕府軍が田無から箱根ヶ崎を経て飯能の能仁寺など市内の6つの寺に駐屯してました。
新政府軍は田無に入ります。そこで振武軍らが飯能にいるという情報を得ると、翌日には扇町屋(現在の入間市)へ進軍しました。そして5月23日未明、笹井(現在の狭山市)で双方が遭遇したことにより戦いの火蓋が切られます。ここで旧幕府軍を撃退した新政府軍は、夜明けを待って進撃を開始しました。
戦いはわずか半日で終わり、新政府軍が勝利します。敗れた幕府軍の兵士たちの中には渋沢栄一の縁者たちの姿もありました。そのうち渋沢成一郎と尾高惇忠は伊香保へ逃れることができましたが、二人とは別の道を行った渋沢平九郎は逃げ切ることができず、自刃という最期を迎えました。
能仁寺での参拝後、折角ここまで来たので天覧山へ登頂を決意しました。最初は安易な登山道と思いきや休憩所から先の山頂間際は険しい山道でした。スニーカーでなくウォーキングシューズでよかったと思いました。山頂からの展望は良く、新政府軍の進軍は何の辺を通ったのか辿ってしまいました。
山門
寺号標柱
由緒 説明板
山門(仁王門)
仁王像
仁王像
参道
竹林
冠木門
中雀門参道
中雀門
不動堂
鐘楼
坐禅堂
飯能戦争 説明板
唱義死義碑
開山堂
本堂
本堂
本堂
本堂
本堂
境内
境内
境内
六地蔵像
六地蔵像
参道標柱
御朱印
天覧山 説明板
天覧山登山口
天覧山 忠霊塔
天覧山 登山道
天覧山 山頂
天覧山 展望
天覧山 展望
名称 | 能仁寺 |
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読み方 | のうにんじ |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 042-973-4128 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://noninji.com/index.html |
詳細情報
ご本尊 | 毘蘆遮那仏 |
---|---|
山号 | 武陽山 |
宗旨・宗派 | 曹洞宗 |
Wikipediaからの引用
概要 | 能仁寺(のうにんじ)は、埼玉県飯能市飯能にある曹洞宗の寺院である。山号は武陽山。本尊は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。 |
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歴史 | 歴史[編集] 寺伝によれば、文亀元年(1501年)、武蔵国高麗郡加治(現在の飯能)の豪族中山家勝が、諸国を巡歴していた名僧曹洞宗通幻派の斧屋文達を招聘して創建した。小庵であったが、家勝の没後、天正元年(1573年)、子の中山家範が父の菩提を弔うため本格的な寺とし、中山家勝、家範、照守および、その後の中山家・黒田家の菩提寺となる。 宝永2年(1705年)当時、常陸下館藩の大名であった黒田直邦は13世住職泰州廣基とともに老朽化した寺を改築し、伽藍を完成させた。そして、雲水50人、七堂伽藍を構える禅寺として栄華を誇った。 飯能戦争[編集] →詳細は「飯能戦争」を参照 慶応4年(1868年)5...Wikipediaで続きを読む |
アクセス | 交通アクセス[編集] 西武池袋線飯能駅北口から、国際興業バス西武飯能日高行き乗車し、「OH!!!・天覧山下」バス停下車、徒歩1分。若しくは名栗・中沢・間野黒指方面行き乗車で「市民会館・博物館」バス停下車、徒歩5分。 JR八高線東飯能駅西口から、上記国際興業バス乗車。(西武飯能日高行きは、東飯能駅を通らないので注意) |
引用元情報 | 「能仁寺 (飯能市)」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E8%83%BD%E4%BB%81%E5%AF%BA%20%28%E9%A3%AF%E8%83%BD%E5%B8%82%29&oldid=101674511 |
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