うんりんいん|臨済宗大徳寺派
雲林院京都府 鞍馬口駅
6:30~17:00
御朱印・神社お寺の検索サイト
楽しみ方
大徳寺から玄武神社へ向かう途中でお見掛け。一度素通りしたのですが、ん?お詣りしたことあったっけ?と思い引き返したらやはり初めてでしたので改めてお参り。山門正面に手水舎があり左に観音堂。どうやら本堂のよう。手水舎の奥に鳥居があり、紫雲弁財天の提灯があるお堂がありました。お詣りしてから庫裏へ。年配の女性の方が御対応くださり、「住職が本山に出ているので、昔は御朱印を書いていたんだけど今は書けなくなったので印だけでも良ければ・・・」とのこと印だけでもいいですよ、とお願いすると奥に戻られ、しばらくして「雲林院の菩提講と桜」と題した紙をお持ちくださり、これでも読んでいてくださいとのことでありがたく頂戴し、読んでおりました。それによると雲林院は「大鏡」の冒頭にも登場するほどの有名な寺院で淳和天皇の離宮であった紫野院が前身。桓武天皇の孫である遍昭が別当になるなど栄華を極めた由緒寺院でしたが鎌倉時代には大徳寺の塔頭となり、応仁の乱で廃絶。宝永四年(1707)ふたたび大徳寺の塔頭として建立されたそうです。またかつての雲林院は桜の名所としても名高かったようです。私の見た限り現在の雲林院には桜は一本だけかな?その代わりに白の侘助と蝋梅が早くも綺麗に咲いておりました。
おばあさんが戻ってこられ、手には書置きの御朱印と御守り。そして先程いただいた紙が・・・。御朱印と御守りはありがたくいただくと「ちゃんと書かないといけないのにごめんなさいね」と謝られたので本山でも書置きでしたし最近は書置き多いので気になさらないで大丈夫ですよ。とお代をお支払いするとおつり持ってきますねと再び奥へ。戻られた手にはおつりと御守りと先程の紙がもう一枚・・・😥いただいてますよ~とお伝えするも「ごめんなさいね・・・すぐ忘れて・・・もう留守番も一人ではちゃんとできないし・・・」と涙目で話されてました😢大丈夫ですよ、ありがとうございますとお伝えはしたもののこんな特になんて言葉を返したらいいのかわからず己の無力さを感じざるおえませんでした・・・😥ご住職早く帰ってきてあげてーと思いながらお礼を述べて後にしました。
この御守り見るたびにおばあさん元気なんだろうか・・・と思いだすんでしょうねぇ・・・元気で長生きしてもらいたいです・・・。
山門
由緒
源氏物語ゆかりの地案内
書院、庫裏
観音堂。本堂のよう。
地蔵堂
手水舎
賓頭盧さん
千手観音
歌碑
辨天堂。紫雲辨財天。
侘助
蘇秦蝋梅も
御守り

京都市北区にあるお寺です。
また京都市内散策を始めました。この前と同じく上京区を歩いていたつもりでしたが こちらの雲林院
さんは北区のお寺でした。区の境目が分かりませんでした。
例によって京都市の由緒書の看板があったので これは由緒あるお寺だろうと分かりました。
源氏物語で 光源氏が籠ったとされるお寺でした。紫式部はこちらの雲林院を取材したかも知れませんね。
山門が開いていたので中に入ることもできました。
観音堂があることはネットで調べて知っていたのですが 本堂?と思って撮った写真とネットの写真が違いました。
??他にはお堂がなかったような??
地蔵堂と境内摂社がありました。
由緒については
雲林院は 京都市北区紫野にある臨済宗の寺院。
臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭である。
かつて天台宗の大寺院として知られた 平安時代の史跡でもある。
もとは 淳和天皇の離宮・紫野院として造成された。
紫野一帯は野の広がる狩猟地であったが 桜の名所でもあった。
文人を交えてたびたび行幸したという。
その後仁明天皇の離宮となり やがて皇子常康親王に譲られた。
869年(貞観11年)親王が亡くなった後 僧正遍昭に託し ここを官寺「雲林院」とした。
884年(元慶8年) 遍昭はこれを花山元慶寺の別院とし 年分度者3人を与えられて天台教学を専攻。
その後 鎌倉時代までは天台宗の官寺として栄え 菩提講・桜花・紅葉で有名であった。
雲林院の菩提講は 『今昔物語集』 『大鏡』にも登場する。
雲林院は桜と紅葉の名所として『古今和歌集』以下の歌集の歌枕であり 在原業平が『伊勢物語』の筋を夢で語る謡曲『雲林院』の題材にもなった。
鎌倉時代に入って衰退したものの 1324年(正中元年)に復興され 大徳寺の塔頭となった。
以後は禅寺となったが 応仁の乱(1467年–1477年)の兵火により廃絶した。
現在の雲林院は 1707年(宝永4年)にかつての寺名を踏襲し 再建されたものである。
とありました。
山門
由緒書がありました
源氏物語ゆかりの地でした
山門
本堂でしょうか
手水
境内社の鳥居
本殿
地蔵堂
庫裏かな
雲林院(うんりんいん・うりんいん)は平安時代前期に第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の離宮・紫野院(むらさきのいん)があった場所でした。その後第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)の離宮になり、仁明天皇の第7皇子・常康親王(つねやすしんのう)に譲られました。869年(貞観11年)に常康親王が亡くなると僧正遍昭(そうじょうへんじょう)に託されて官寺・雲林院になり、884年(元慶8年)に僧正遍昭は天台宗(てんだいしゅう)の元慶寺(がんけいじ)の別院とし、鎌倉時代まで天台宗の官寺として栄え、菩提講(ぼだいこう)・桜・紅葉が知られていました。その後鎌倉時代に荒廃し、鎌倉時代後期の1324年(正中元年)に復興されて臨済宗(りんざいしゅう)大徳寺派の大本山・大徳寺(だいとくじ)の塔頭(たちゅう)になり、天台宗から臨済宗に改められました。その後室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年)の兵火で焼失して廃絶しました。江戸時代中期の1707年(宝永4年)に大徳寺291世・江西宗寛(こうざいそうかん)が再興し、かつての寺名を踏襲しました。
雲林院は臨済宗大徳寺の境外塔頭です。
| 名称 | 雲林院 |
|---|---|
| 読み方 | うんりんいん |
| 参拝時間 | 6:30~17:00 |
| 参拝料 | なし |
| 御朱印 | あり |
| 限定御朱印 | なし |
| 電話番号 | 075-431-1561 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
| ご本尊 | 十一面千手観世音菩薩 |
|---|---|
| 宗旨・宗派 | 臨済宗大徳寺派 |
| ご由緒 | 雲林院(うんりんいん・うりんいん)は平安時代前期に第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の離宮・紫野院(むらさきのいん)があった場所でした。その後第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)の離宮になり、仁明天皇の第7皇子・常康親王(つねやすしんのう)に譲られました。869年(貞観11年)に常康親王が亡くなると僧正遍昭(そうじょうへんじょう)に託されて官寺・雲林院になり、884年(元慶8年)に僧正遍昭は天台宗(てんだいしゅう)の元慶寺(がんけいじ)の別院とし、鎌倉時代まで天台宗の官寺として栄え、菩提講(ぼだいこう)・桜・紅葉が知られていました。その後鎌倉時代に荒廃し、鎌倉時代後期の1324年(正中元年)に復興されて臨済宗(りんざいしゅう)大徳寺派の大本山・大徳寺(だいとくじ)の塔頭(たちゅう)になり、天台宗から臨済宗に改められました。その後室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年)の兵火で焼失して廃絶しました。江戸時代中期の1707年(宝永4年)に大徳寺291世・江西宗寛(こうざいそうかん)が再興し、かつての寺名を踏襲しました。
|
| 体験 | 御朱印 |
ホトカミには、日本最大となる全国15万8千件の神社お寺の情報や、2万件以上の御朱印のオリジナルデータがあります。
ご利用になりたい法人様やメディア関係の方々は、こちらよりお気軽にご相談ください。
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。

ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ

























16
0