うんりんいん|臨済宗大徳寺派
雲林院京都府 鞍馬口駅
6:30~17:00
御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳 | - | ||
駐車場 | なし |
京都市北区にあるお寺です。
また京都市内散策を始めました。この前と同じく上京区を歩いていたつもりでしたが こちらの雲林院
さんは北区のお寺でした。区の境目が分かりませんでした。
例によって京都市の由緒書の看板があったので これは由緒あるお寺だろうと分かりました。
源氏物語で 光源氏が籠ったとされるお寺でした。紫式部はこちらの雲林院を取材したかも知れませんね。
山門が開いていたので中に入ることもできました。
観音堂があることはネットで調べて知っていたのですが 本堂?と思って撮った写真とネットの写真が違いました。
??他にはお堂がなかったような??
地蔵堂と境内摂社がありました。
由緒については
雲林院は 京都市北区紫野にある臨済宗の寺院。
臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭である。
かつて天台宗の大寺院として知られた 平安時代の史跡でもある。
もとは 淳和天皇の離宮・紫野院として造成された。
紫野一帯は野の広がる狩猟地であったが 桜の名所でもあった。
文人を交えてたびたび行幸したという。
その後仁明天皇の離宮となり やがて皇子常康親王に譲られた。
869年(貞観11年)親王が亡くなった後 僧正遍昭に託し ここを官寺「雲林院」とした。
884年(元慶8年) 遍昭はこれを花山元慶寺の別院とし 年分度者3人を与えられて天台教学を専攻。
その後 鎌倉時代までは天台宗の官寺として栄え 菩提講・桜花・紅葉で有名であった。
雲林院の菩提講は 『今昔物語集』 『大鏡』にも登場する。
雲林院は桜と紅葉の名所として『古今和歌集』以下の歌集の歌枕であり 在原業平が『伊勢物語』の筋を夢で語る謡曲『雲林院』の題材にもなった。
鎌倉時代に入って衰退したものの 1324年(正中元年)に復興され 大徳寺の塔頭となった。
以後は禅寺となったが 応仁の乱(1467年–1477年)の兵火により廃絶した。
現在の雲林院は 1707年(宝永4年)にかつての寺名を踏襲し 再建されたものである。
とありました。
山門
由緒書がありました
源氏物語ゆかりの地でした
山門
本堂でしょうか
手水
境内社の鳥居
本殿
地蔵堂
庫裏かな
京都一日目…オマケ編
お参りは出来なかったので記録として。
ちょっと時間が押していたのでお昼御飯を優先してしまった😅(でも結局食べそびれた)
船岡山辺りを巡って帰り道「(;゜゜)っ!閉門してる」
ショック😱⤵️⤵️
花散里さんの投稿見られて嬉しかったのとショックと記録してなかったのを思い出した😆
閉まってた😢
雲林院200メートル先の木材店の敷地、平安時代の遺構が発掘されました
昔はこの辺りも雲林院の境内でした
不幸にも火災にあって片づけていたら…と京都を巡るテレビで言ってた
オマケ
お目当て「松屋藤兵衛の紫野松風」と三時間に一度の切り落としと織姫という砂糖菓子(絶品!)
雲林院(うんりんいん・うりんいん)は平安時代前期に第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の離宮・紫野院(むらさきのいん)があった場所でした。その後第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)の離宮になり、仁明天皇の第7皇子・常康親王(つねやすしんのう)に譲られました。869年(貞観11年)に常康親王が亡くなると僧正遍昭(そうじょうへんじょう)に託されて官寺・雲林院になり、884年(元慶8年)に僧正遍昭は天台宗(てんだいしゅう)の元慶寺(がんけいじ)の別院とし、鎌倉時代まで天台宗の官寺として栄え、菩提講(ぼだいこう)・桜・紅葉が知られていました。その後鎌倉時代に荒廃し、鎌倉時代後期の1324年(正中元年)に復興されて臨済宗(りんざいしゅう)大徳寺派の大本山・大徳寺(だいとくじ)の塔頭(たちゅう)になり、天台宗から臨済宗に改められました。その後室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年)の兵火で焼失して廃絶しました。江戸時代中期の1707年(宝永4年)に大徳寺291世・江西宗寛(こうざいそうかん)が再興し、かつての寺名を踏襲しました。
雲林院は臨済宗大徳寺の境外塔頭です。
名称 | 雲林院 |
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読み方 | うんりんいん |
参拝時間 | 6:30~17:00 |
参拝料 | なし |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 075-431-1561 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ご本尊 | 十一面千手観世音菩薩 |
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宗旨・宗派 | 臨済宗大徳寺派 |
ご由緒 | 雲林院(うんりんいん・うりんいん)は平安時代前期に第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の離宮・紫野院(むらさきのいん)があった場所でした。その後第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)の離宮になり、仁明天皇の第7皇子・常康親王(つねやすしんのう)に譲られました。869年(貞観11年)に常康親王が亡くなると僧正遍昭(そうじょうへんじょう)に託されて官寺・雲林院になり、884年(元慶8年)に僧正遍昭は天台宗(てんだいしゅう)の元慶寺(がんけいじ)の別院とし、鎌倉時代まで天台宗の官寺として栄え、菩提講(ぼだいこう)・桜・紅葉が知られていました。その後鎌倉時代に荒廃し、鎌倉時代後期の1324年(正中元年)に復興されて臨済宗(りんざいしゅう)大徳寺派の大本山・大徳寺(だいとくじ)の塔頭(たちゅう)になり、天台宗から臨済宗に改められました。その後室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年)の兵火で焼失して廃絶しました。江戸時代中期の1707年(宝永4年)に大徳寺291世・江西宗寛(こうざいそうかん)が再興し、かつての寺名を踏襲しました。
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体験 | 御朱印 |
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