うんりんいん|臨済宗大徳寺派
雲林院京都府 鞍馬口駅
6:30~17:00
御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳 | - | ||
駐車場 | なし |
清荒神さんから寺町通りの寺社をお参りしながら北上。
ほんとは下鴨神社などもお参り予定だったのだけど、思いの外じっくりお参りしちゃったのと、霙がすごくて断念💦
市バスに乗り、次の目的地・紫野方面へ向かいました。
こちら雲林院さんは小さなお寺さんだけど、ワタクシには思い入れがございまして…
をとめの姿しばしとどめむ…かの百人一首の中でも大好きな和歌の作者・僧正遍昭が興したお寺さんであり…
あらっ、さりげなく西行法師の歌も書いてあるぢゃないの😳
紫式部が生まれ育ったとされ、名前の由来になったとされる紫野にあり、また源氏物語の中で藤壺さまにツレナクされた光源氏が伯父さんが坊さんしてたこのお寺に来て「もう!ボクちゃん出家しちゃうもんね」っと引きこもったお寺さんでもありますので。
まあ、つまり源氏物語好きにはコタエられないお寺さんなんであります。
閉ざされた扉の中には十一面観世音菩薩。
その横には良いお顔のお賓頭盧さんがおられました。
今日もお目々をナデナデ…
弁天堂
境内、どなたもおりませぬ。
ああ、コレだコレだ!
例の遍昭さんの歌碑。
五節の舞姫を見て詠んだ歌ね。
大河ドラマの中で吉高由里子さんが舞姫に扮してたけど、きれいだったワネ〜🥰
雲林院を出て堀川の大通りを行くと、紫式部のお墓がありました。
事業所だのビルだのに挟まれて気づけず、一度は通り過ぎちゃった💦
閻魔大王の補佐官・小野篁とおんなじ敷地にお墓があるのね。
源氏物語がフテキセツな小説で、作者が地獄行きになるのを心配した当時の人々が、小野篁のお墓を隣に作って紫式部を救ってあげたんだとか。
そういう言い伝えがあるんだそうです、ハイ。
で、これがお墓
小さな塚の上にささやかな五輪塔。
式部様、ありがとうございます。フテキセツだろうがなんだろうが、ワタクシは源氏物語好きよ❤️
父方のおばあちゃんが亡くなる時に、谷崎潤一郎訳の源氏物語全巻をワタクシに遺してくれてから、ずっと😊
京都一日目…オマケ編
お参りは出来なかったので記録として。
ちょっと時間が押していたのでお昼御飯を優先してしまった😅(でも結局食べそびれた)
船岡山辺りを巡って帰り道「(;゜゜)っ!閉門してる」
ショック😱⤵️⤵️
花散里さんの投稿見られて嬉しかったのとショックと記録してなかったのを思い出した😆
閉まってた😢
雲林院200メートル先の木材店の敷地、平安時代の遺構が発掘されました
昔はこの辺りも雲林院の境内でした
不幸にも火災にあって片づけていたら…と京都を巡るテレビで言ってた
オマケ
お目当て「松屋藤兵衛の紫野松風」と三時間に一度の切り落としと織姫という砂糖菓子(絶品!)
雲林院(うんりんいん・うりんいん)は平安時代前期に第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の離宮・紫野院(むらさきのいん)があった場所でした。その後第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)の離宮になり、仁明天皇の第7皇子・常康親王(つねやすしんのう)に譲られました。869年(貞観11年)に常康親王が亡くなると僧正遍昭(そうじょうへんじょう)に託されて官寺・雲林院になり、884年(元慶8年)に僧正遍昭は天台宗(てんだいしゅう)の元慶寺(がんけいじ)の別院とし、鎌倉時代まで天台宗の官寺として栄え、菩提講(ぼだいこう)・桜・紅葉が知られていました。その後鎌倉時代に荒廃し、鎌倉時代後期の1324年(正中元年)に復興されて臨済宗(りんざいしゅう)大徳寺派の大本山・大徳寺(だいとくじ)の塔頭(たちゅう)になり、天台宗から臨済宗に改められました。その後室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年)の兵火で焼失して廃絶しました。江戸時代中期の1707年(宝永4年)に大徳寺291世・江西宗寛(こうざいそうかん)が再興し、かつての寺名を踏襲しました。
雲林院は臨済宗大徳寺の境外塔頭です。
名称 | 雲林院 |
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読み方 | うんりんいん |
参拝時間 | 6:30~17:00 |
参拝料 | なし |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 075-431-1561 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ご本尊 | 十一面千手観世音菩薩 |
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宗旨・宗派 | 臨済宗大徳寺派 |
ご由緒 | 雲林院(うんりんいん・うりんいん)は平安時代前期に第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の離宮・紫野院(むらさきのいん)があった場所でした。その後第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)の離宮になり、仁明天皇の第7皇子・常康親王(つねやすしんのう)に譲られました。869年(貞観11年)に常康親王が亡くなると僧正遍昭(そうじょうへんじょう)に託されて官寺・雲林院になり、884年(元慶8年)に僧正遍昭は天台宗(てんだいしゅう)の元慶寺(がんけいじ)の別院とし、鎌倉時代まで天台宗の官寺として栄え、菩提講(ぼだいこう)・桜・紅葉が知られていました。その後鎌倉時代に荒廃し、鎌倉時代後期の1324年(正中元年)に復興されて臨済宗(りんざいしゅう)大徳寺派の大本山・大徳寺(だいとくじ)の塔頭(たちゅう)になり、天台宗から臨済宗に改められました。その後室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年)の兵火で焼失して廃絶しました。江戸時代中期の1707年(宝永4年)に大徳寺291世・江西宗寛(こうざいそうかん)が再興し、かつての寺名を踏襲しました。
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体験 | 御朱印 |
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