くまのじんじゃ
熊野神社のお参りの記録一覧
里之宮湯殿山神社の兼務社です。創建時は山形城内に鎮座しており、元和七年(1621)現在の地に遷座し城の鬼門守護としました。境内の御神木の大きな夫婦欅が一番の見どころですが、夏の青々とした葉も良いのですが、やはり秋が見事な黄葉なので、涼しくなってからの方が良いかも。手水舎後方の池は満面の水で、湧水なのかも?手水も勢いが良い!本務社の綺麗な近代的な神社もいが、個人的には昔ながらの神社が好きです。駐車場が有るらしいんですが見つけられませんでした。御朱印は本務社で戴いているので参拝のみ。
社号標
参道
由緒書
明治十六年奉納の鳥居
神池
狛犬
手水舎
手水鉢
灯篭
拝殿
扁額
拝殿からの参道
本殿
御神木「夫婦欅」
御神木の間の鳥居
しっかりと注連縄が張ってあります
石祠 御神木の神様を祀っているのかな?
境内社鳥居
境内社 稲倉稲荷神社 昭和五十一年(1976)伊勢神宮式年遷宮の古材で改築
灯篭
山形県山形市六日町に鎮座する熊野神社。 2023.4に参拝させて頂きました、どの様な神社か引用を用いて調べて見ました、御祭神は須佐之男命、速玉男命。熊野神社の創建は延文3年(1358)、初代、山形城の城主斯波兼頼(最上家の祖)が行蔵院阿闍梨を紀州熊野に遣わし紀州熊野大権現の分霊を城内に勧請したのが始まりとされます。
以来、山形城の鎮守社として歴代最上家が社領150石を安堵するなど庇護し、祭祀は別当となった行蔵院が司りました。特に山形藩3代藩主最上義俊(最上家13代宗家)が篤く帰依、元和7年(1621)には山形城の鬼門(北東方向)に当たる現在地に遷座し社殿を造営し境内地2300坪を寄進しています。
元和8年(1622)、義俊は御家騒動で山形藩57万石から近江大森藩1万石へと移封となり、その後は幕府から庇護され慶安元年(1648)には3代将軍徳川家光が社領150石の朱印状を発布し歴代将軍もこれを追認しました。
古くから神仏習合し熊野権現と称していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、明治4年(1871)に現在の社号である熊野神社に改称、明治12年(1879)に村社に列し、昭和13年(1938)に神饌幣帛料供進指定神社に指定され同年県社に列しました。
熊野神社拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行5間、梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り板張り。本殿は一間社流造、銅板葺。境内の御神木と思われるケヤキが目を引く存在で、樹高24m、幹周5.7m、信仰の対象になっているようで、根元には小祠が建立されています。歴史
#六日町熊野神社
ご祭神はスサノオの命、ハヤタマノオの命。
#速玉之男命
熊野三山はケツミコの大神を主神とする熊野本宮大社(和歌山県田辺市)、クマノフスミの大神とクマノハヤタマの大神を主神とする熊野速玉大社(新宮市)、クマノフスミの大神を主神とする熊野那智大社(東牟婁郡那智勝浦町)からなる。
若干の異同があるがおおむね、ケツミコの大神はスサノオの命、クマノフスミの大神はイザナミの神、クマノハヤタマの大神はイザナギの神の別名とされる。
それでは六日町熊野神社のハヤタマノオの命は三山におけるクマノハヤタマの大神、すなわちイザナギの神かというと、ちょっと自信が持てない。
日本書紀に、イザナギの尊の御子神としてハヤタマノオ(速玉之男)が出てくるからだ。
”よみ”の国でイザナギの尊がイザナミの尊に対し、「縁を切ろう」、「そなたには負けぬ」と言い、吐いた唾から誕生したとある。この直後、イザナギの尊がその場を掃くと、もう1柱ヨモツコトサカノオという神様も生まれる。
それではクマノハヤタマの大神ならばイザナギの命、ハヤタマノオの命ならば彼の御子神かというと、これにも反例がある。
都びとも気軽に熊野詣でができるようにと、京都市に熊野三山の写し霊場が開かれたのだが、そのうちの1社、新熊野神社(東山区)は、ご祭神のうちハヤタマノオの大神をイザナギの尊としている。
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