ねごろじ|新義真言宗|一乗山
根来寺
和歌山県 下井阪駅
9:10〜16:30(4月〜10月)/9:10〜16:00(11月〜3月)
和歌山県寺巡りの2寺目は、先の粉河寺の在る紀の川市の西隣の岩出市に在る一乗山 大伝法院 根來寺です。新義真言宗総本山で、本尊は大日如来。
興教大師 覚鑁(かくばん)上人が1132年に高野山に大伝法院を建立した事を始まりとする。高野山金剛峯寺の座主に就任し名声が上がると高野山衆徒と対立し、山を降りて根来にある末寺の豊福寺へ移り、根来寺が形成された。その後、寺領を拡大し、根来衆と呼ばれる僧兵も擁するようになったが、1585年に秀吉の紀州征伐により大師堂、大塔以外の全山焼失。江戸時代に紀州徳川家の庇護により復興され現在に至ります。(院号は大伝法院、御朱印は興教大師である)
駐車場に停めて奥(北)へ向かうと橋のたもとに入山受付がありますが、先ずは右手の不動堂を参拝します。礼拝所と本堂である八角円堂が合体した造りで建物は重文指定です。参拝してから入山受付にて入山料をお支払し、橋を渡り石段を上がると正面に大伝法堂(一般的には本堂、1826年再建)。堂内には1400年前後に作られた高さ3m超えの本尊の大日如来、右手には金剛薩垂、左手には尊勝仏頂の三尊が祀られています。仏像も建物も重文指定です。
大伝法堂の左には国宝の大塔。高さ40mで国内最大の多宝塔、流石にデカい。1547年建立で紀州征伐の兵火を免れました。円形の内陣には入れませんが、堂内に入って1周出来ます。本尊は大日如来、その他仏像が祀られています。
大塔の左には大師堂。本尊は弘法大師。1391年建立のこの寺院の中で最も古い建物で、重文指定。
以上の3つの建物が並んでいるのは圧巻です。
少し下って橋を渡る手前を右手に上ると奥の院。覚鑁上人の御廟です。高野山の奥の院と同じで、御廟の前まで両側にお墓が並んでいます。
戻って橋を渡ると本坊、寺務所があります。寺務所にて御朱印をお願いしてから、光明殿、名勝庭園等を拝観します。寺院の庭園は観ていると落ち着きます。
尚、山門(大門)は少し離れた所にあります。如何広大な寺領だったかがわかります。二重門で両脇には仁王像、上層階には釈迦如来と十六羅漢が祀られていますが、上層階の拝観は残念ながら出来ません。寺務所から離れていますし、手間が掛かるので仕方無いですね。
御朱印
大門
不動堂
鐘楼
春日堂
大伝法堂(本堂)
大塔
大師堂
奥の院
御廟
本坊
光明殿
鐘楼門
手水
名勝庭園
行者堂
聖天堂
弁天池
蛇を咥えた鷺
空海入定後300年、空海以来の学僧と言われた覚鑁が高野山内に伝法院を建てたことに始まる。
覚鑁は金剛峯寺座主に就任し山内全体を統轄する勢力を持つが、当時堕落していた高野山を立て直そうとするが反対派と対立、焼き討ちにあう。
一門は高野山を下りて豊福寺に拠点を移し円明寺を建て、一山総称して根来寺が形成される。
没後一世紀以上後に大伝法院の学頭であった頼瑜は大伝法院の寺籍を根来寺に移した。
室町末期の最盛期には一大宗教都市を形成、根来衆と呼ばれる大軍事集団を形成、その後秀吉の雑賀攻めを招き、太子堂・大塔など数棟を残し焼け落ちた。
大伝法院は解体して持ち去られたが、部材は大阪中津川沿いに放置された。現在も大阪市此花区に伝法の地名が残る。
関ケ原の戦い後、京都豊国神社の土地建物を根来寺の僧で焼き討ちされた塔頭智積院の住職玄宥に与えられた。
現在、京都東山智積院に至ります。
紅葉台公園 美しい季節を過ぎ残り紅葉
大塔 日本で最も大きな木造多宝塔、真言宗の大塔の形式を伝える大規模な多宝塔
大伝法院 本堂 本尊は大日如来 左脇に金剛薩埵 右脇に尊勝仏頂
名称庭園 本坊の庭園
鐘楼門
常光明真言殿
聖天池
大門 本堂までかなり離れていますので随分大寺だったことがうかがえます。
神仏霊場巡拝でお参りしました。桜が見ごろということもあり、参拝客で賑わっていました。境内撮影禁止のような看板もありましたが、お堂の外についてはそこまで厳しい感じではないのかな。一応控えておきます。
本堂の横に大塔があり、その横に寺務所、寺務所から渡り廊下で行者堂や聖天堂などが繋がっていました。どのお堂も中に入ってお参りが可能です。大塔が非常に素晴らしかったです。
御朱印については寺務所で御本尊の大日如来と開基の興教大師の御朱印を頂きました。その他にも役行者の霊場の御朱印もあるそうです。また、不動堂では愛染明王と、不動明王の紀伊之国十三仏霊場の御朱印を頂きました。不動明王については近畿三十六不動の札所にもなっています。
境内は拝観料が必要ですが、不動堂は拝観受付の外にあるので、そこまでは無料で入れる感じなのかな。
大日如来御朱印
興教大師御朱印
愛染明王御朱印
不動明王御朱印
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