よしわらじんじゃ
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御朱印
吉原神社では、1種類の御朱印と、吉原弁財天本宮の御朱印がいただけます。
吉原神社御朱印
中央に「吉原神社」の文字、稲穂の丸い印、四角い神社印、右上に「奉拝」の文字と重ねて「開運」の赤い印、その下に青い「江戸新吉原仲之町鎮座」の文字、左に赤い「令和二年」の印と日付が書かれています。
江戸時代、点在していた遊女屋が統合されて「江戸元吉原」ができ、その後千束村(現在の吉原神社周辺)に新しく造られたのが「新吉原」です。「仲之町」は新吉原中央の大通りの名前です。御祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)で、五穀豊穣・家内安全・商売繁盛の神様でお稲荷さんとも呼ばれ、遊廓の鎮守の神様として敬われてきました。
巡礼
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雨の東京寺社めぐり⑦『吉原神社』参拝
吉原遊郭とともに歩んできた神社~ コンパクトな境内には吉原遊郭の守護神だった五つの稲荷神社と遊郭に隣接する吉原弁財天が合祀~ お参りして御朱印をいただきました🍀(東本願寺→矢先稲荷神社→秋葉神社→吉原神社)
七福神の弁天様~吉原弁財天元宮が側 (徒歩1分?飛び境内地?) にあるはずなのですがわからなくて… 綺麗なお社みたいですが見られなくて残念 (ノД`)・゜・。
☆吉原遊郭は元和3年に江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町の東隣 (現在の日本橋人形町周辺) に集めたのが始まり。この地には葦が生い茂っており『葦原』→『吉原』と命名。次第に吉原が江戸の中心地になってしまったため、明暦3年に現在地である千束村へ移転。以後~日本橋葺屋町付近にあった頃の吉原を『元吉原』、移転後の吉原を『新吉原』と呼ぶそう。
この『新吉原』には廓の守護神として五つの稲荷社が存在。吉原の入口である大門の手前に《玄徳稲荷社~吉徳稲荷社》、さらに廓内の四隅には《榎本稲荷社》《明石稲荷社》《開運稲荷社》《九郎助稲荷社》がお祀りされていましたが、その五つの稲荷社を合祀して《吉原神社》と名付けかのが当社。当初は玄徳稲荷社旧地にお祀りされていたが関東大震災にて焼失。昭和9年に現在地へ新社殿を造営した際、新吉原隣接の花園池に鎮座する吉原弁財天も合祀。
本殿は雨でボケてしまい残念、、
強そうな守護神?
境内社『お穴様』
『この里に おぼろふたたび 濃きならむ 万』
浅草出身で大正から昭和にかけて活躍した俳人・作家の久保田万太郎の句碑~吉原の賑わいの風景が懐かしく詠まれる
『逢初桜』
咲いているときに来たかっか。゚(゚´Д`゚)゚。
江戸時代より遊客の出逢いを叶える桜として新吉原入口の玄徳稲荷社脇に植えられ、稲荷社脇にあった「駒止松」、新吉原入口の「見返り柳」と合わせて「廓の三雅木」と呼ばれていたそう。現在の逢初桜は平成24年植樹の枝垂れ桜。
筋肉隆々の狛犬さん
歴史
当社は吉原遊郭とともに歩んできた神社です。吉原遊郭は元和3年(1617)、幕府の許可を得て庄司甚右衛門が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東隣(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことにはじまります。この地には葦(よし)が生い茂っており、そこから「葦原」、転じて「吉原」と命名されました。しかし次第に吉原が江戸の中心地になってしまったため、明暦3年(1655)に現在地である千束村へ移転となりました。以後、日本橋葺屋町付近にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」といいます。
この「新吉原」には廓の守護神として五つの稲荷社が存在しました。吉原の入口である大門(おおもん)の手前に「玄徳(よしとく)稲荷社(吉徳稲荷社)」、さらに廓内の四隅には「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九郎助稲荷社」がお祀りされていました。
その後明治5年に、これら五つの稲荷社が合祀され、総称して吉原神社と名付けられました。当初は玄徳稲荷社旧地にお祀りされていましたが、関東大震災にて焼失。震災後は水道尻付近の仮社殿にてお祀りしていましたが、昭和9年に現在地へ新社殿を造営、そのさい新吉原隣接の花園池に鎮座する吉原弁財天も合祀しました。その後昭和20年の東京大空襲で惜しくも焼失しますが、昭和43年に現社殿が造営されて現在に至ります。
名称 | 吉原神社 |
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読み方 | よしわらじんじゃ |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | あり |
ホームページ | http://yoshiwarajinja.tokyo-jinjacho.or.jp/ |
お守り | あり |
絵馬 | あり |
巡礼の詳細情報
浅草名所七福神 |
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詳細情報
ご祭神 | 倉稲魂神、市杵嶋姫命 |
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創建時代 | 明治八年(1875) |
ご由緒 | 当社は吉原遊郭とともに歩んできた神社です。吉原遊郭は元和3年(1617)、幕府の許可を得て庄司甚右衛門が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東隣(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことにはじまります。この地には葦(よし)が生い茂っており、そこから「葦原」、転じて「吉原」と命名されました。しかし次第に吉原が江戸の中心地になってしまったため、明暦3年(1655)に現在地である千束村へ移転となりました。以後、日本橋葺屋町付近にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」といいます。
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