にっこうふたらさんじんじゃ
日光二荒山神社
栃木県 東武日光駅
参拝可能時間:8:00~17:00[4月~10月]、9:00~16:00[11月~3月]
社務所:9:00~15:30
にっこうふたらさんじんじゃ
栃木県 東武日光駅
参拝可能時間:8:00~17:00[4月~10月]、9:00~16:00[11月~3月]
社務所:9:00~15:30
日光二荒山神社(にっこう・ふたらさん~)は、栃木県日光市にある神社。式内社(名神大)論社で、下野国一之宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。祭神は、二荒山大神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命(あじすきたかひこね)の総称)。正式名称は「二荒山神社」、古くは「日光三社権現」と称された。当社境内は東照宮、輪王寺の境内とともに「日光山内」として国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されている。本社社殿、神輿舎および神輿、銅燈籠が国指定の重要文化財。
創建は奈良時代の767年、下野国の僧・勝道上人が二荒山(男体山)の神を祀る祠を建てたことに始まる(現在、別宮となっている本宮神社)。782年には二荒山山頂に奥宮を建て、以後、二荒修験の基礎となり、神仏習合の霊場として発展した。また空海が訪れた際、女体山の神を祀る滝尾神社を創建。その後、二荒山の神を本宮神社から少し離れた地に移して社殿を建て、本宮神社には新たに御子神である太郎山の神を祀ったことで、新社殿が現在の本社、元の本宮神社、空海の滝尾神社の3社体制となり、総称して「日光三社」と呼ばれることとなった。
平安時代の『日本三代実録』には、836年に神階奉授、以後869年まで神階昇叙の記載がある。また、927年に編纂された『延喜式神名帳』には「下野国 河内郡 二荒山神社 名神大」と記載され、当社はその論社となっている。もう一つの論社は、栃木県宇都宮市の宇都宮二荒山神社。なお、両社は祭神や社名の由来が全く異なるため、まったく別の神社とされる。
鎌倉時代には、山岳信仰の最盛期を迎えるが、戦国時代には豊臣秀吉に領地を没収され衰微する。江戸時代になって、徳川家康の側近で日光山貫主になっていた天台宗の僧・天海(慈眼大師)により、徳川家康を祀る東照社(日光東照宮)が江戸幕府により創建されると、当社も江戸幕府、朝廷、諸大名、民衆から篤い崇敬を受けることとなった。明治時代に入ると、宇都宮二荒山神社に加えて、国幣中社に追加列格した。
当社は、「日光山内」の最奥部、西奥にあり、最寄りの東武日光線の終点・東武日光駅の西北西2.5kmの山裾にある。社殿から1km離れた、国道122号線沿いの大谷川に架かる<神橋>も当社のもの。<神橋>からは、東照宮と輪王寺の間を通る旧日光街道を歩くと到着する。煌びやかで大きな社殿、周りを覆う高い木々、由緒ある摂末社と、いかにも大社らしい見どころがいっぱい。当社だけでも観光客を惹きつけるが、近隣には東照宮や輪王寺もあるので、寺社仏閣に興味がない人でも存分に楽しむことができる。
今回は、初めての下野國(≒栃木県)の神社参拝といことで、まずは下野国専用御朱印帳を調達するために、下野国一之宮である当社に参拝した。参拝時は、秋の連休中の午前中で、当社に限らず日光山内は観光客でごった返していた。
入口の<大鳥居>と<社号標>。写真外左手には<日光山輪王寺・大猷院>などの伽藍が立ち並ぶ。鳥居の右側の坂道を上がると当社駐車場。
大鳥居には<二荒山神社>と書かれた扁額が掛かる。鳥居をくぐるとなだらかに登る階段。写真で鳥居の右側に見える太い木は<縁結びの御神木>と呼ばれる杉の巨木。
真っ直ぐに天に伸びる木々の間をまっすぐ進むと<神門>がある。
神門をくぐると、いきなり<茅の輪>が現れる。それにしても、境内は人がすごく多い。
茅の輪の先にある<開運ねずみ>。
開運ねずみの左手にある<手水舎>。
<拝殿>全景。当然に大きく立派。
<拝殿>正面。扁額は掛かっていないみたい。拝殿前では見掛けなかった<狛犬>が2組座っている。
拝殿に向かって左手にある<神楽殿>。なぜか<だいこくさま>と<2匹のねずみ>のはりぼてが...
神楽殿の左側に立つ<御神木三本杉>。
神門をくぐって左側に立つ<親子杉>。
神門をくぐって右側に建つ<夫婦杉>。
夫婦杉の左手にある<授与所>。御朱印はこちら。
授与所から見た<拝殿>周辺。このあと、有料参観エリアである<神苑>に進む。写真だと左の神楽殿と右の拝殿の間に入口がある。
神苑に入ってすぐ左手にある<日枝神社>。
日枝神社の左奥にある<神話の絆杉>。宮崎県の高千穂神社から献木になった杉で、樹齢800年の御神木の枝を挿し木にしたもの。
神話の絆杉の奥にある<高天原>。
日枝神社まで戻って、本社本殿の方向を望む。
<神様に一番近い参拝所>から本殿を望む。
その手前には<化け燈籠>という変わった名前の燈籠が大事に囲われている。
化け燈籠の参道を挟んで反対側に建つ<神輿舎>。
化け燈籠と神輿舎の間に立つ<大国開運桜>。
神輿舎の背後に建つ<大国殿>。
<大国殿>の内部。
大国殿の脇では、<運試し輪投げ>をやっていて、子供連れを中心に人が群がっていた。
本社本殿の左側に立つ<御神木>。当社で見た中では、最も太い杉。
<御神木>を、少し離れたところから見るとこんな感じ。
御神木の根元にある<子授け・安産の石>。
御神木と本殿の対比構図。
御神木の脇にある<朋友神社>。
朋友神社の左隣にある、<二荒霊泉>の扁額が掛かる鳥居。
鳥居の先にあるこちらが<二荒霊泉>。
二荒霊泉の左奥には小さな鳥居が立っていて、<日光連山遙拝所>の看板が立っている。
小さな鳥居の先には、岩で作られた日光連山のミニチュアが。
日光連山遙拝所から見た、<神苑>全景。
神苑を出て、最後に<拝殿>。
ここから東照宮に向かうため、別の出入口からでる。こちらは<銅鳥居>。
銅鳥居をくぐって進むと、<神門>が建っている。
その先には<社号標>がある。東照宮から二荒山神社に向かうと、この鳥居と社号標が最初に目に入る。
東照宮近くから、二荒山神社に向かう参道の眺め。
当社駐車場は、銅鳥居の南側の少し低い場所にある。
下野國の神社初参拝といことで、マイルールに基づき、まずは下野国神社専用御朱印帳を下野国一宮である当社で購入~♪ (^▽^)/
二荒山神社は大変歴史が古く、第十代崇神天皇の御代に遡ります。当社は何度も火災にあい、近世に入ってからも天正13 年、安永2 年、天保3 年、更に明治維新の戊辰の役と4度もあって古い記録のほとんどが焼失しています。現在残っている社記には、第16 代仁徳天皇の御代に毛野国が上下の二国に分けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王が下毛野国の国造に任ぜられます。この時、祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀ったのが始まりで、その後承和5 年(838)に現在の地、臼ケ峰に遷座されたと伝えられています。
延長5 年(927)に政治のよりどころとして完成した延喜式・神名帳には「下野國河内郡一座大 二荒山神社 名神大」と記載があります。栃木県内唯一の名神大社として「お明神さま」「ふたあらさん」の名で広く親しまれ、篤く崇められてきました。平安から鎌倉時代には各々の国で最も格式が高いとされる神社を一之宮としました。二荒山神社もまた「下野国一之宮」とよばれ、宇都宮という地名はこのイチノミヤが訛ってウツノミヤになったという一説があります。
宇都宮はこの二荒山神社を中心に、平安・鎌倉時代には神社の門前町として発展し、江戸時代には城下町として繁栄しました。 北関東の経済・文化の中心都市として発展した現在でも、 お正月や七五三など暮らしの節目にたくさんの市民が参拝に訪れます。
【世界遺産・日光の社寺3 日光二荒山神社】
日光東照宮に隣接して二荒山(ふたらさん)神社があります。宇都宮市にも同名の二荒山神社がありますので、区別するためか神社の公式サイトでも「日光二荒山神社」と表記しています。
徳川家康をまつる東照宮ができたのは17世紀のことですが、二荒山神社は8世紀に日光を修行の場として開いた勝道上人に起源をさかのぼる古社。しかし、境内は東照宮に比べればはるかに混雑は少なく、ゆったりとしていました。巨大な大黒様やライオンの狛犬などもあります。帰りの電車の時間が迫っており、じっくりと境内を見て回れなかったのが残念でした。
別宮や末社が多く、御朱印も授与所にはサンプルが11種類も掲示。今回は本社だけを書き置きでいただきました。
この本社のほかに、ご神体の中禅寺湖畔・男体山の山頂には奥宮、その麓には中宮祠があります。5年前には中宮祠まで行きました。中禅寺湖の遊覧船から見る男体山の山容に、古くからの修行の地らしいおごそかな雰囲気を感じました。
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