にょいりんじ|浄土宗|塔尾山
如意輪寺奈良県 吉野駅
9:00~16:00
8:30〜17:00(観桜期)
御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳 | |||
駐車場 | 無料駐車場あり(200台) |
【塔尾山(とうのおさん)椿花院 (ちんかいん) 如意輪寺(にょいりんじ)】
本尊: 如意輪観音
宗派:浄土宗
開基:日蔵
如意輪寺は、延喜年間(901-922)に日蔵上人によって開かれたと伝わる。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際、勅願所とされた。天皇は京にもどれぬまま崩御して本堂の裏山に葬られた。以来寺運は衰えたが、1650(慶安3)年、文誉鉄牛上人によって本堂が再興され、その際に真言宗から浄土宗に改宗された。
~吉野を巡る(6/7)~
上千本から右に下り、如意輪寺に向かいました。メインから少し離れるこの路は静かです。多宝塔の周辺では、八重咲の枝垂れ桜を楽しむことができました。
【山門】
【本堂】
【鐘楼】
【不動堂】
【幽香楼】
【庫裡】
【御霊殿】
南朝歴代天皇の御尊牌が祀られている。
【御霊殿】
【権現堂】
【二河白道庭園】
【多宝塔】
【多宝塔】
【楠桜園(なんおうえん)】
【楠桜園】
【報国殿】
【報国殿(お花見座敷)】
【報国殿(お花見座敷)】
【楠桜園】
【楠木公父子の像】
楠木正成と楠木正行の像。
【後醍醐天皇陵】
通常は天皇陵は南向きに造られているが、この陵は京都がある方角である北向きに造られている。
【猫不動】
【山門】
上千本から下りてくると、この山門が入口。駐車場からの入口。
【御朱印】
勝手神社跡の向かい「静亭」さんでお昼の腹拵え。 冷たい葛うどんに柿の葉寿司、それにビールを1本頂いて次は如意輪寺(にょいりんじ)を目指します。 金峯山寺や吉水神社などからは谷ひとつ挟んだ山の中腹に位置しますが、距離にして僅か2kmほどと軽く考え徒歩で向いました。 途中少しでも近道かと舗装された県道を逸れ山道に入りましたがこれが結構難儀でした。 如意輪寺山門に辿り着いた時にはビールはすべて汗に替わっていました(´-`;)トホホ。 如意輪寺は延喜年間(901年~923年)、日蔵道賢(にちぞうどうけん)によって開山と伝えられ、南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に行宮を構えた際には南朝(吉野朝)の勅願寺に指定されたそうです。 本堂背後の林には還京叶わぬまま崩御された後醍醐天皇の陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)があります。 また、正平2年(1346年)、楠木正成(くすのきまさしげ)の嫡男・正行(まさつら)は実弟・正時(まさとき)ら一族郎党と共に足利の武将・高師直(こうのもろなお)との戦で四條畷(しじょうなわて)に出陣するに際し、後醍醐帝の御廟を参拝し、「かへらじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」との辞世の歌を詠み、本堂の扉を過去帖の代わりとして鏃(やじり)でこの歌を刻み自らの遺髪を献じたとされ、その扉とされるものが宝物殿に展示されていました。 宝物殿をはじめ多宝塔のあるエリアに入るには、別途拝観料500円が必要ですが必見です。 桜の時期ではなかったので人も少なくゆっくりと拝観させていただきました。
如意輪寺・山門
如意輪寺・本堂
如意輪寺・不動堂
如意輪寺・鐘楼
如意輪寺・後醍醐天皇腰掛け石と楠正行公お手植えの木斛
如意輪寺・庫裏
御朱印
お御籤・招き猫(白)
お御籤・招き猫(金)
専横の北条幕府を倒し、建武中興を成し遂げた後醍醐天皇は、足利氏との争いのため京都を逃れ、吉野山へ行幸以来四年間、吉野の行宮に過ごされました。延元四年(1239)病床に就かれ「身は仮へ南山の苔に埋まるとも魂魄は常に北闕(京都)の天を望まん」と都にあこがれ、遂に崩御されました。天皇の遺骸をそのまま北向きに葬ったのが、塔尾陵です。
名称 | 如意輪寺 |
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読み方 | にょいりんじ |
参拝時間 | 9:00~16:00
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参拝料 | 大人500円、中高生200円、小学生100円 |
トイレ | あり |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | あり |
電話番号 | 0746-32-3008 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://www.nyoirinji.com/ |
おみくじ | あり |
絵馬 | あり |
SNS |
役行者霊蹟札所 第2番 | |
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近畿三十六不動尊霊場 |
ご本尊 | 如意輪観世音菩薩 |
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山号 | 塔尾山 |
院号 | 椿花院 |
宗旨・宗派 | 浄土宗 |
創建時代 | 延喜年間(901〜923) |
開山・開基 | 日蔵道賢上人 |
文化財 | 金剛蔵王権現現木像(重要文化財)
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ご由緒 | 専横の北条幕府を倒し、建武中興を成し遂げた後醍醐天皇は、足利氏との争いのため京都を逃れ、吉野山へ行幸以来四年間、吉野の行宮に過ごされました。延元四年(1239)病床に就かれ「身は仮へ南山の苔に埋まるとも魂魄は常に北闕(京都)の天を望まん」と都にあこがれ、遂に崩御されました。天皇の遺骸をそのまま北向きに葬ったのが、塔尾陵です。 |
体験 | 仏像御朱印博物館重要文化財武将・サムライ有名人のお墓札所・七福神巡り |
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