とうだいじ しゅんじょうどう|華厳宗大本山東大寺境内御堂
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楽しみ方東大寺 俊乗堂のお参りの記録一覧
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俊乗堂は東大寺大仏殿から東に上がった 「上院」と呼ばれる地区にあります。
この「上院」には 中央に大きな鐘楼があり そのまわりに念仏堂と行基堂と俊乗堂と辛国神社が配置されています。
念仏堂横でご朱印がいただけます。
こちらは残念ながら内陣を見ることはできません。
ネット情報です。
東大寺俊乗堂は 江戸時代中期の元禄年間(1688年~1703年)に公慶上人が伽藍の再建に尽力した中興の祖・俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)の遺徳を称える為に建立しました。
俊乗堂には重源上人坐像(国宝)・快慶作の阿弥陀如来立像などを安置しています。
重源上人坐像は鎌倉時代に造仏され リアリズムの傑作として知られています。
重源上人坐像は運慶作とも言われています。
俊乗房重源は平安時代後期の1121年(保安2年)に紀季重の子・刑部左衛門尉重定として京都で生まれ 13歳で真言宗醍醐派総本山・醍醐寺で密教を学び その後浄土宗の開祖・法然上人に浄土教を学び 大峯・熊野・御嶽・葛城などで修行(遊行)しました。
1167年~1176年に3回中国・宋に留学したとも言われ 「入唐三度聖人」と称しました。
入宋中に浄土教の知識を得たり 阿育王山の舎利殿を建立する建築法を体得したりしたと言われています。
ちなみに俊乗房重源が大仏殿を再建する際に宋から取り入れた建築様式は大仏様(だいぶつよう)と言われています。
1180年(治承4年)に平重衡による南都焼討によって東大寺の伽藍や大仏が焼失し 俊乗房重源は1181年(養和元年)に被害状況を視察に来た後白河法皇の使者・藤原行隆に東大寺の再建を進言し 藤原行隆の推挙により 61歳で東大寺大勧進職に就きました。
俊乗房重源は後白河法皇や太政大臣・九条兼実 そして鎌倉幕府初代将軍・源頼朝などに浄財の寄付を依頼し 1185年(文治元年)に大仏の開眼供養が行われ 1195年(建久6年)に大仏殿が再建され 1203年(建仁3年)に総供養が行われ 10数年の歳月を掛けて東大寺を再興しました。
なお俊乗房重源は東大寺再興の功によって号・大和尚を賜り 1206年(健永元年)に86歳で亡くなりました。


東大寺大仏殿から東へ、二月堂参道の途中で鐘楼と御堂がいくつか並ぶエリアに。鐘楼の丘と呼ばれるらしく、鐘楼と俊乗堂、行基堂、念仏堂があります。三堂のメインはこちらの俊乗堂で東大寺中興の俊乗坊重源上人ゆかりの場所。もとは重源上人によって建てられた浄土堂があった場所で、松永久秀による東大寺焼き討ちで類焼。元禄17年に公慶上人が重源上人像を本尊としたお堂を建立したそうです。重源上人は浄土教にも造詣が深く法然上人に師事した縁で指図堂が法然上人の霊場となっている。また入宋時代には臨済宗の栄西と天台山に登るなど交流があり、東大寺大勧進職は重源上人のあとに栄西が継いでいる。また東大寺の復興のため西行に奥州の砂金勧進を依頼するなど調べれば調べるほど当時のビックネームとのつながりの広さに驚かされる。
そんな重源上人が祀られる俊乗堂ですが公開は俊乗上人のご命日「俊乗忌」である7月5日と、開山良弁僧正のご命日「良弁忌」である12月16日の年2回のみ。タイミングが難しい・・・7月5日は・・・土曜日か😭


東大寺・俊乗堂を参拝。 治承4年(1180年)、平氏による「南都焼討」によって東大寺の大仏や大仏殿を初めとする多くの堂塔は焼失しますが、翌、治承5年(1181年)後白河法皇の命により大勧進職に就いた俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が10数年の歳月をかけて東大寺を復興をします。 俊乗堂はその中興の祖・重源を讃え、同じく江戸時代に大仏殿再興に尽くした大勧進公慶上人(こうけいしょうにん)が宝永元年(1704年)に建立したお堂です。 本尊の俊乗上人坐像は国宝で、毎年俊乗上人の命日である7月5日と、東大寺開山の祖・良弁僧正(りょうべんそうじょう)の命日12月16日の2日間のみ堂内が特別公開されます。
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