とうだいじ|華厳宗大本山
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楽しみ方東大寺のお参りの記録一覧(7ページ目)

京都、奈良ツアー2日目。
東大寺の大仏殿です。
大仏殿の中は写真が撮り放題とのことで、嬉しかったです。
南大門も写真追加。
運慶・快慶の金剛力士像は迫力があります。
ホトカミではお堂ごとに紹介が分かれていますが、全体としては一日掛けても全て見切れるかどうか。
見どころが多過ぎて、時間がタイトなツアーでは一部しか見られませんでした。
またいつの日か行って見られなかった所を周りたいです。

大仏殿 国宝

八角灯籠 国宝

大仏殿

大仏殿

鴟尾
火災避けの呪いアイテムらしい

盧舎那仏 いわゆる奈良の大仏様

大仏様のお顔が出される扉

盧舎那仏

鴟尾

虚空蔵菩薩

盧舎那仏と虚空蔵菩薩

広目天

大仏の裏

多聞天

如意輪観音

鹿

中門

賓頭盧尊者像

鹿

参道

ドラクエウォーク おみやげ

大仏殿の入場券(表)

大仏殿の入場券(裏)

中門 兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)

兜跋毘沙門天の足元

中門 持国天

中門 持国天の足元

南大門の金剛力士像(阿形)

南大門の金剛力士像(阿形)

南大門の金剛力士像(吽形)

南大門の金剛力士像(吽形)

世界遺産記念碑
書道家 榊莫山

南大門

篠原ともえ がデザインしたという御朱印
2000円で購入しました。

念願の東大寺。紅葉の1番綺麗な時に参拝できたことに感謝。

奈良駅のセント君😆



かわいい鹿がたくさんいました🍁







二月堂。


二月堂からの景色。好きです😊



この景色の美しさ。写真で伝わっているかなぁ🙄


プリン美味しかった🍮

もうおなじみの大仏さまを拝観させていただきました。
お天気のよい土曜日ということで、たいへん多くの観光客、参拝客がこられていましたが、なにせ中も広いので大仏殿に入るのに、そんなに並ばずに入れました。が・・・大仏さまの正面で立ち止まるのが今日は禁止ということで、止まってお参りすることができず残念。
でも改めて、日本人って、1,000年以上も前にこんな建物(たしか世界最大の木像建築物だったとと記憶しています)や仏像を建立するなんて・・・やっぱり世界に誇れる場所ですよね。
でも阿修羅さまはじめ奈良時代の有名な仏像は、作者不明なんですよね・・・想像力すごい!

大仏殿の出口近くで3人の方が一生懸命書かれていました。

参道は人と鹿とで大混雑。鹿のふんを踏まないように気をつけて歩きました。

山門です。「大華厳寺」という看板が・・・

山門横の「阿吽(あうん)」

同じく反対側の「阿吽」

大仏殿。ほんとうに堂々とした建物です。

大仏さまは正面から撮れなかったので、横から撮影しました。

いろいろ知りたくて、ボランティアガイドさんを事前に予約。
ファイルにどっさり資料入れてきたガイドさん
歴史・仏像の話し盛りだくさんでじっくりじっくり鑑賞しました。
南大門から大仏殿入るまで1時間20分かかったのはちょっと時間配分大丈夫か不安だったけど…
仏像大好き、話したいガイドさん。
仏像に興味持ち始めた私、Win-Win。



仏様に会う前に身なりを整えようって意味で池があるらしい

ガイドさん
年齢教えてくれなかったけど子どもは50歳との事で親子だね〜って感じ。
十二神将見てた時に未年と言い、本当にうちの母と同い年と発覚😆
ものすごい知識量と脚力!!
ちなみにガイドは無料。
ガイド団体への寄付金が1000円。交通費かかれば実費。


ど迫力!!!








世界遺産・東大寺大仏殿に参詣。朝7:30〜開場、朝一番に入ったところ、さすがに平日の朝は他に誰もいない1人で大仏を見ました。
誰もいないのでくぐり放題と思って行ったけど、柱の穴くぐりはコロナの影響で中止になってました。御朱印は「華厳」の文字(※東大寺は華厳宗)直接書き込んでいただきました。

奈良の大仏(盧舎那仏坐像)

大仏殿御朱印「華厳」の文字

大仏殿

東大寺南大門

東大寺中門

鏡池〜東大寺中門前

鹿🦌角を切ったばかり10/8-10鹿の角切り

奈良県の寺院巡りの5寺目は、言わずと知れた東大寺です。
今回の奈良県寺院巡りの最後となります。昨年12月にも訪れており約10ヶ月振りです。
華厳宗で、本尊は盧舎那仏。
わざわざ平日に会社を休んで10月5日に奈良に来たのは、年に1日ー10月5日の転害会の時のみ開帳される東大寺 勧進所に祀られている国宝・僧形八幡神坐像(快慶作)を観るためです。
(併せて、公慶堂安置の公慶上人坐像(重文)と阿弥陀堂安置の五刧思惟阿弥陀坐像(重文)も観れる。)
南大門の辺りは小・中・高の修学旅行生が多数、鹿と戯れています。以前はコロナ禍で全くと言っていい程見掛けませんでしたが。
南大門の運慶一派制作の金剛力士像(国宝)を眺めて、前回と同様に東大寺ミュージアムも大仏殿も前を素通りし、今回目的の勧進所へ(大仏殿の左側)。
昼を過ぎていたためかそれ程混んでいません。門の手前のテントで拝観受付をしていたので拝観料(600円)を支払い、門をくぐって勧進所内へ。
順路が決められていて、公慶堂→八幡殿→阿弥陀堂の順で拝観します。
先ずは公慶堂。こちらに祀られている公慶上人は江戸時代に大仏再興のための勧進した多大な功績を認められた方でその姿を忠実に映した像。高さ約70cm、1706年の作、とんがり頭が印象的。江戸時代の制作の像で重文なのは珍しいと思います。
八幡殿には国宝・僧形八幡神坐像、高さ約87cm、快慶により1202年に制作、東大寺八幡宮に安置されたが、廃仏毀釈により八幡宮から遷されたもの。彩色がよく残り、袈裟の模様など非常に繊細で驚きます。
阿弥陀堂には五劫思惟阿弥陀如来坐像、アフロヘアーの阿弥陀さんです。高さ106cm。鎌倉時代初期に重源が宋より請来したと伝わりますが、桧材のため国内で作られたものと考えられています。目鼻口が小さい顔付きが可愛いです。その四方には四天王像。高さ50cm強。しっかりと作られている印象です。尚、勧進所では御朱印は頂けません。
勧進所を出て、大仏殿の裏側(北側)を通って国宝・鐘楼(大鐘)の前の念仏堂へ。前回見逃しました。この堂内には地蔵菩薩坐像(重文)が祀られています。慶派の仏師康清により1237年に運慶らの冥福を祈る目的で制作、高さ約211cm、堂内に入ると大きさに圧倒。彩色も残りなかなかの像です。無料で拝観出来るのは有難いです。折角なので念仏堂の横にある納経所で地蔵菩薩の御朱印を頂きました。前々から東大寺の御朱印帳を購入したくても忘れてばかりいたので今回は購入しないといけないと思い「大仏殿以外に販売している所はありますか?」とお聞きしたところ「二月堂でも販売しています。」との事で、二月堂へ行って御朱印帳を購入しました。(スタンダードタイプですが大寺院の御朱印帳が1,300円は高くないと思います。)二月堂まで来たのなら隣の三月堂の国宝仏像群を観ようかなと思いましたが、気が変わって四月堂(三昧堂)を観る事にしました。
四月堂は二月堂、三月堂の向い側というか手前(南側)にあります。四月堂は普賢堂と呼ばれていて、本尊は普賢菩薩だったと伝わります。数年前までは千手観音(重文)が本尊でしたが修理完了と伴に東大寺ミュージアムに移されて、現在は収蔵庫に眠っていた十一面観音(重文)を本尊として招き、他にも数躯の仏像が安置されており、右端の厨子の中には小像の普賢菩薩騎象像が安置されています。(元々の本尊と伝わりますがどうでしょう?)こちらのお堂も有難い事に無料で拝観出来ます。
東大寺に来て、南大門の金剛力士像を観て、中門の隙間から大仏殿を眺め、念仏堂と四月堂の堂内拝観しても1銭も掛からないのです。(そんな人はいないでしょうけど。)
いつもは柿の葉寿司を買って帰るのですが、今回は東大寺境内の西側の通りにある千壽庵吉宗奈良総本店でわらび餅を買って帰路に着きました。

御朱印(念仏堂)

南大門

阿形

吽形

中門

兜跋毘沙門天

持国天

大仏殿

案内看板

勧進所入口の門


鐘楼

公慶堂

公慶上人坐像(重文)
(ネットから転載)

八幡殿

僧形八幡神坐像(国宝)

阿弥陀堂


五刧思惟阿弥陀坐像(重文)

お水取りの松明

阿弥陀堂前から見た大仏殿

大仏殿を裏側から

鐘楼(大鐘)


念仏堂

地蔵菩薩坐像(重文)

二月堂

二月堂からの眺め

四月堂(三昧堂)

十一面観音立像(重文)

普賢菩薩騎象像

購入したスタンダードタイプの御朱印帳


東大寺は聖武天皇の皇太子基親王の菩提を追修するために、神亀5年(728)に建てられた金鍾山寺に源を発し、天平13年(741)に国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格してなった大和国国分寺(金光明寺)を前身とする。天平15年(743)に盧舎那大仏造顕(造立)の詔が発せられ、都が紫香楽(滋賀県甲賀市信楽町)から平城に還ると、大和国金光明寺で盧舎那大仏の造像工事が始まり、天平21年(749)仏身が鋳造。同時に大仏殿の建立も進んで、天平勝宝4年(752)に盛大な開眼供養会が営まれた。その後、西塔や東塔、講堂や三面僧房などが造東大寺司の手によって造営され、東大寺としての七堂伽藍順次整った。
東大寺は国分寺として建立されたので、天下泰平・万民豊楽を祈願する道場であったが、同時に仏教の教理を研究し学僧を養成する役目もあって、華厳をはじめ奈良時代の六宗、さらに平安時代の天台と真言も加えた各研究所(宗所)が設けられ、八宗兼学の学問寺となった。
平安時代に入ると、斉衡2年(855)の大地震によって落下した大仏さまの頭部は真如法親王によって修復されたものの、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊した。しかも治承4年(1180)に平重衡の軍勢により大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼かれた。しかし翌年には俊乗房重源によって復興が着手され、文治元年(1185)に後白河法皇を導師として大仏さまの開眼供養が行なわれた。翌文治2年に周防国が東大寺造営料所に当てられてから復興事業は着々と進み、建久6年(1195)に大仏殿落慶(供養が行なわれた。こうした復興に伴い沈滞気味であった教学活動も活発になり、鎌倉時代には多くの学僧が輩出した。
ところが永禄10年(1567)に至って三好・松永の乱が起こり、二月堂や法華堂、南大門や転害門、正倉院や鐘楼などわずかな建物を残して灰燼に帰した。時まさに戦国時代であったから、東大寺の復興は難渋をきわめ、大仏さまの仏頭も銅板で覆う簡単な修理しか出来なかった。ようやく江戸時代に入って公慶上人が諸国勧進と諸大名の協力を幕府に懇願して復興に取りかかり、その結果、大仏さまの開眼供養が元禄5年(1692)に、さらに大仏殿の落慶供養が宝永6年(1709)に行なわれた。以後、伽藍の整備は歴代の大勧進職によって続行された。
明治時代になって起こった神仏分離令と寺社領没収は東大寺の存立に危機をもたらし、宗制上華厳宗を名乗ることなど寺院改革を迫られたが、それでも明治・昭和時代の大仏殿の大修理をはじめ、諸伽藍の維持に努め、現在に至っている。東大寺はその歴史から貴重な文化遺産を今なお多く蔵しているが、そればかりでなく二月堂修二会をはじめ伝統的な仏教儀礼の宝庫でもあって、毎年日本全国はもとより、世界各地から多くの人々が参詣に訪れている。


























約40年ぶりの奈良観光。興福寺の次は王道の奈良の大仏。日頃見慣れた鎌倉の大仏との大きさの違いに圧倒されました。

社号標は大仏の大きさと異なり、比較的こじんまり。

南大門

大仏殿

調っています。

盧舎那仏像。華厳宗のお寺です。お釈迦様が無限の修業を経て悟りを開き、悟りの世界「蓮華蔵世界」の教主になられた姿ということです。



柱の穴くぐりは時節柄ふさがれていました。残念。
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