とうだいじ|華厳宗
東大寺のお参りの記録一覧(6ページ目)
(過去参拝投稿)
華厳宗 東大寺に参拝しました。
世界遺産 古都奈良の文化財の一つとしてはもちろん、1300年にわたる奈良の歴史を象徴するシンボルです。
奈良時代、全国に国分寺を建てて、仏教で争いを鎮める国造りを勧めた聖武天皇が建立した、鎮護国家の中心の寺院です。
現在の大仏殿は江戸時代の再建で、木造建築物としては世界最大規模です。
東大寺は平城宮から見て、東に位置する大きい寺、ということで東大寺となったそうです。
この日も、たくさんの参拝者で賑わっていました。
南大門 国宝
扁額の「大華厳寺」の文字は、聖武天皇の写経から集めたものだそうです。
奈良時代、聖武天皇の発願で全国の国分寺の中心として建立された寺院。
現在の南大門は、鎌倉時代初頭に、中興の租である重源によって建て直されたもの。
金剛力士像 国宝(阿形像) 鎌倉時代
運慶・快慶作
金剛力士像 国宝(吽形像) 鎌倉時代
定覚・湛慶作
金剛力士像は、わずか69日間で作られたとか。😳
古い形式にとらわれない建築様式で建てられた、南大門。
大仏様と言うそうです。
大仏殿(金堂) 国宝
現在の大仏殿は江戸時代の再建で、木造建造物としては世界最大規模です。
大仏殿参道は、中央からインド(青)、中国(赤)、朝鮮(白)、日本の石という4種の敷石でインドから日本に仏教が伝来したことを表現されているそうです。
大仏殿の柱は1本の木ではなく、いろんな木をつなぎ合わせた柱だとか。
長さを4箇所継ぎ、直径も台形の板木を寄せ集めて太くするという寄木造り。
京都の方広寺の大仏殿を建てるのにも、日本全国から大木が集められて、材木が足らなくなり、こういう工夫をせざるを得なかったそうです。
盧舎那(毘盧遮那)仏 国宝 (奈良時代)
☺️🙏🏻
盧舎那仏の足元には、蓮弁が56枚あるそうです。
大仏連弁・華厳蔵世界図 奈良時代 国宝
華厳経の世界観が刻まれています。
盧舎那仏に向かって左側に 虚空蔵菩薩坐像 重要文化財 (江戸時代)
向かって右側に 如意輪観音坐像 重要文化財(江戸時代)
奈良の大仏さまも三尊形式です。
廣目天像
多聞天像
持国天像頭部
持国天像頭部
増長天像頭部
増長天像頭部
賓頭盧さま
先月、奈良の大仏へお参りしてきました。
中学の修学旅行で来た思い出があります😊
像の高さは、14.98m。
ビルの5階相当で見上げる大きさに驚きと迫力あります。
大仏殿の広々とした境内、
奈良にあるお寺の屋根の形、好きです😊
柱の穴くぐりは、休止になっていましたが、無病息災のご利益があるということでくぐれる日が待ち遠しいです。
華厳
屋根にある鴟尾(しび)、大仏殿に展示されてます。火除けのまじないとして用いられてるそうです。
奈良の旅7か所目。
いよいよ東大寺大仏殿です。
中門から境内へ…ウン十年前の記憶を辿りますが、あまり思い出せません。こんな立派な回廊だったっけ?
こんなにも荘厳な建物だったっけ?
圧倒されます…。
1260年にわたって奈良の都を見守ってこられた盧舎那仏様(焼失し再建されてますが)に手を合わせ、御朱印をいただいていると、係の方から『今日はとても人が少ないのでゆっくり見て行ってくださいね』と声をかけられました。
そういえばここまでのお寺も参拝客はまばらだった…
梅雨時、天気予報はバリバリ雨だったのに、蓋を開けてみたら雨傘より日傘が必要だった時間の方が長く、ラッキー🤗な1日目でした♪
中門
回廊
回廊から大仏殿を望む
高校の修学旅行以来約50年ぶりに大仏殿をお参りしました!
「華厳」と書いてあるそうです。
東大寺は華厳宗のお寺とのこと!
国宝大仏殿(東大寺金堂)です。
とにかくすごい!大きい!
南大門です。
もちろん左右には阿形像、吽形像が睨みを効かせてますよ!
東大寺は、奈良県奈良市にある華厳宗大本山の寺院。正式名称は「金光明四天王護国寺」。南都七大寺の一つ。本尊は廬舎那仏(国宝)。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の構成資産の1つとして登録されている。
創建は8世紀前半で、開基は聖武天皇、開山は良弁。聖武天皇が国力を尽くして建立した寺院で、当寺の全国60余ヵ国に建立させた国分寺の中心、「総国分寺」に位置づけた。奈良時代の当寺の伽藍は南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂、僧坊、食堂(じきどう)のほか、東西2基の七重塔があり、伽藍の完成まで40年近くを要した。
平安時代には、桓武天皇の南都仏教抑圧策により圧迫を受けたが、当から帰国した空海が別当になり寺内に真言院が開かれ、最澄の天台宗を加え「八宗兼学の寺」となり繁栄した。
平安末期、1181年に平重衡による南都焼討で大仏殿など多くの伽藍を焼失したが、その後大勧進職の僧・俊乗房重源が再興にあたり1185年には後白河法皇列席で大仏開眼法要、1195年に源頼朝列席で新大仏殿の落慶法要が行われた。
戦国時代の1567年には三好松永の戦いの兵火で、大仏殿を含む多くの伽藍を再度焼失。その後大仏殿はすぐには再建されず、長らく大仏は露座のままであったが、江戸中期に僧・公慶の尽力や徳川綱吉とその母桂昌院などの寄付により1709年に再建大仏殿が完成した(間口は11間から7間へとダウンサイズされた)。講堂、食堂、東西の七重塔などは、その後再建されることはなかった。
当寺は、JR奈良駅、近鉄奈良駅から市内循環バスで数駅の東大寺大仏殿・春日大社前バス停のすぐ北側が広大な境内地になっている。
参拝時は週末の午後、天気は最悪で土砂降りの雨であったが、その割にはずいぶん多くの参拝者が来ていた。さすが奈良を代表する観光地。
※境内敷地が広すぎて、初心者には分かりにくい。今回の参拝では南大門から大仏殿に行き、その後は東側の鐘楼周辺(鐘楼ヶ丘)と法華堂周辺(上院)を見て廻って終えたため、西側の勧進所・戒壇堂周辺ははまったく廻っていない。要再参拝。
バス停のある十字路から車両進入禁止の参道のようになっている。左側に何軒か飲食店や土産物屋があって、それが終わると吉城川にかかる橋に至る(上写真)。土砂降りの雨の中、数頭の鹿がずぶ濡れで歓迎してくれた。
国宝<南大門>遠景。鎌倉時代の1199年に東大寺中興の祖・俊乗房重慶が中国宋から伝わった大仏様(天竺様)を建築様式として採用し再建。
国宝<南大門>近景。大仏様の建築様式の特徴は、貫(ぬき)と世慣れる柱を貫通する水平材を多用して構造を強化していることや、天井を張らずに構造材をそのまま装飾として見せていることなどとのこと。
国宝<木造金剛力士像>の左側・阿形(あぎょう、口を開いた像)。金剛力士像は高さ8.4mの巨大な木像で、1203年に大仏師・運慶、快慶、湛慶、定覚がわずか69日で造立。阿形は吽形とは作風が異なり、快慶が主となって制作されたと言われる。
国宝<木造金剛力士像>の右側・吽形(うんぎょう、口を閉じた像)。こちらは運慶が主となって制作されたと言われる。なお、一般的な仁王像の安置方法と比べると、阿形・吽形が左右逆になっている。
南大門下で雨宿りしていた鹿の群れの間を抜けて参道を進む。
参道を少し進んでから南大門を振り返る。南大門北面の東西の間には、国指定の重要文化財である<石造獅子像>が安置されている。1196年に中国宋の石工・字六郎が宋の石材を使って製作したもので、異国テイスト満点の珍しい狛犬らしい。自分は鹿ちゃんに気を取られて完全にスルー、見逃し...涙
やがて参道左側に現れる<東大寺ミュージアム>。
さらに進むと参道左側に<東大寺本坊>。
参道右側には<鏡池>と、そこに浮かぶ島の上に<厳島神社>。
<中門>遠景。江戸中期1716年ごろの再建。国指定の重要文化財。
<中門>近景。2階建ての入母屋造の楼門。両脇から「コ」の字形に東西回廊が伸び、大仏殿(金堂)の左右に至る。
中門に向かって左側に立つ<持国天>。東方を守護する武神。1716年の中門、東西廻廊の完成に合わせ、京仏師・山本順慶が持国・多聞の二天像を造立。1719年に開眼供養した。
中門に向かって右側に立つ<毘沙門天>。多聞天とほぼ同義で、北方を守護する武神。この像は特に「兜跋(とばつ)毘沙門天」と言われ、西域の兜跋国(トルファン)に仮現した特殊な異形像で金鎖甲を着け、三面立の冠を被る。確かに見た目はシルクロード的異国風。
中門の左手にある大仏殿入口を入り、順路を進むと<料金所>。
料金所を過ぎてから<大仏殿>を望む。非常に大きな建物でインパクト十分。手前の庭園もきれい。
国宝<大仏殿(金堂)>。1709年再建、寄棟造、本瓦葺。2階建てに見えるが、実は一重裳階付。現在は、間口57m、奥行50.5m、高さ46.8m。奈良時代の創建時は間口85m、奥行、高さは同じなので、もっと横に広かったみたい。
参道左手にある、使われていない<水屋>。そもそも参道の左側にあるため、順路上、大仏拝観後の順路にある。
大仏殿の手前にある、国宝<金銅八角燈籠>。奈良時代創建時の物。扉の4面に雲中を駆ける4頭の獅子を、他の4面に4種の異なる楽器(横笛、尺八、鈸子、笙)を奏する音声菩薩(おんじょうぼさつ)を、鉄格子と唐草文様の透かしの上に浮彫で表現。
国宝<銅造廬舎那仏坐像>。大仏堂に入ってすぐ正面にある。像高14.7m。奈良時代の743年に聖武天皇が大仏造像の発願、749年に完成、752年に開眼供養会開催。のべ260万人が工事に関与、建造費は現在価値で4700億円とのこと。
※大仏殿の中では、嬉しいことに写真撮影OK、ただし三脚使用不可。
大仏の左の脇侍<虚空蔵菩薩坐像>。木造寄木造。国指定の重要文化財。
大仏の右の脇侍<如意輪観音坐像>とともに、江戸中期に京都の仏師・山本順慶一門と大阪の仏師・椿井賢慶一門らが30年かけて制作、1752年完成。
<廬舎那仏>と<虚空蔵菩薩>のツーショット。
大仏の左側下に展示されている、国宝<大仏蓮弁・蓮華蔵世界図>。奈良時代中期制作、大仏が乗る蓮の花弁で、大きさは横2m超、これが28枚あり、反花含めると56枚ある。
連弁の上部には大きな<釈迦如来>が描かれていて、28の蓮弁には同じ絵図が掘られている。つまり28体の釈迦如来の上に廬舎那仏があって、全ての世界を総括するような世界観を表現しているとのことらしい。
虚空蔵菩薩の左側の順路を進むと<広目天像>。
虚空蔵菩薩の裏にある<持国天像・頭部>。
広目天像の右側に展示されている、奈良時代の東大寺伽藍の模型。やはり東西2つの<七重の塔>が目立つ。
大仏の裏側。抜かりなく仕上げられている。
広目天の逆サイドにある<多聞天像>。
大仏の右の脇侍<如意輪観音坐像>。左の脇侍<虚空蔵菩薩坐像>と同じく江戸中期の制作だが、14年早く1738年完成。
<廬舎那仏>と<如意輪観音>のツーショット。
教科書、雑誌などでも出て来る、黄金アングルからの大仏。
この写真を撮った場所から振り返ると授与所。御朱印はそちら。
大仏殿を出ると、右手に<賓頭盧像>。
最後にもう一度、国宝<大仏殿>と国宝<金銅八角燈籠>。
神仏霊場会 奈良1番
関西圏では小学校の遠足や修学旅行で一度は訪れる東大寺。
あまりにも有名過ぎて、あまりにも広大すぎて、ちょっと投稿するには扱い難い東大寺。
一般的な観光ルートを一寸それて廻ってみました。
初回投稿は南大門から大仏殿。
次回投稿は大仏殿周辺部。
三回目は上院から手向山八幡宮。
1200有余年、東大寺の創建以前に金鍾寺・福寿寺などの幾つかの寺院が存在していたようです。741年に統合されて大和国分寺「金光明寺」となっています。
743年大仏建立の詔が聖武天皇により発せられ、廬舎那如来の大仏を本尊とする東大寺建立が始まります。
大仏造営の勧進は行基、開山は良弁です。
中世以降は、平氏による南都焼き討ちにより伽藍のほとんどを焼失、勧進に抜擢された重源により大仏や大仏殿の復興を成し遂げています。
戦国時代には再び大仏殿が焼失、大仏は山田道安により修理されるも120年間雨ざらしのままとなり、公慶により現在に伝わる大仏殿が復興されています。
奈良時代創建時の建物としては、転害門・正倉院宝庫・法華堂正堂と校倉数棟を残すのみです。
鎌倉時代再建のものとしては、南大門・鐘楼・法華堂礼堂などがあり、江戸元禄時代再建の大仏殿は横幅を7割程度に減じて再建されています。
季節がら映える写真もなく無機質散文的なのはご辛抱を。間違いや記憶違いも有ろうかと思いますので、徐々に追加訂正をしたくおもいます。
ちょっと重たいですが我慢のほどを。
南大門 国宝
天平創立の南大門は、962年・989年に倒れ1161年再建されています。
1180年の南都焼き討ちで焼けたかどうかは不明ですが、現在の門は1199年に上棟されたものです。
南大門と言えば国宝金剛力士像、運慶・快慶ら一門が69日間で完成させたと言われています。この剛健な作風が後世の力士像すべてが追っています。
阿形・吽形の配置は、向かって右が阿形、左を吽形とするのが通例ですが、左右が逆になっています。
また、外を向いた南面せず、面々相対して立ち中央の一点をにらみあう形となっています。
おそらく天平創建時の形を引き継いでいると想われます。
南大門 柱の弾痕
戦国時代 三好・松永の兵により撃ち込まれた鉄砲玉の跡、と言われていますが、節の後や虫食いの穴、弾痕跡なのか❓、ほじって観るわけにもいかず、これかなと想うものをアップしました。
南大門北側の石造獅子像
裏側ですのでほとんど方があまり気にも留めずスルーです。
元大仏殿の中門に置かれていて、重源の東大寺再建をサポートした宋人石工の製作によるものとされ、一対のものでなく何体かあった石造の一部と考えられています。
左右で口の開け方が異なります。
修学院(真言院)
色々な教学の講座が開かれています。どなたでも参加可能なようです。
真言の八祖の一人 善無畏の掘ったという井戸があり、弘法大師空海が当院来住の際、護法善神が現れ、その井戸の所在を教えたと言われる。
護法善神の足跡が残る石があると言われていますが、通常非公開です。
東大寺寺務所(旧東南院)
875年聖宝が建立した薬師堂に端を発し、904年別当道義が大安寺の佐伯院を移築した。
大仏殿・真言院の東南・南大門の東方に位置することから東南院と称し、三論・真言兼学の一院として発足。
白河上皇のの参詣や行幸など、上皇・天皇の御所となったが、1180年12月南都焼き討ちにより炎上、1190年10月復興し大仏殿落慶法要には源頼朝の宿舎に充てられる。
しかし、次第に衰微し松永・三好の兵火で炎上し一部を残し田畑となる。
1702年公慶が再興、だが1762年の大火で類焼したが翌年宸殿などは再建された。
大仏殿に向かう通路右横に明治天皇行在所の石碑が建っておりますが、昨年の大河ドラマで織田信長が正倉院の蘭奢待を切り取った様子がドラマ化されていましたが、明治10年2月御座所にて截香されたと言われています。
五百立山(いおだてやま)神社
大仏殿へ向かう道の左よこにひっそりと目立つことなく鎮座。
大仏殿創建に従事した大工さん達が祀られている神社。
大仏殿の鎌倉再建の際、五百羅漢が鍛冶・大工に身を変え大仏造営に助力した後、この山に姿を消したという伝え。
鏡池
手向山八幡宮の放生池とされています。
中の島には絵師巨勢金岡があまりの美しさに筆を投げたという筆捨松があった言われていますが。
この池には琵琶湖・淀川水系に生息するワタカがおり、馬魚とよばれます。
大正11年、今は廃寺となった内山永久寺の木堂池から移したもの。
永久寺のワタカについては、後醍醐天皇が馬の嘶きによって敵に見つかることを恐れ、馬の首を斬りその馬首が化した魚であるため草を食うという伝説の話し。
大仏殿中門
1716年大仏殿江戸再興時に、門の外でやはり内を向いて立つ左が持国天、右に立つ東側の兜跋毘沙門天の足元に目を向けると。
金剛力士や四天王に踏みつけられる邪気や鬼の姿はよく見かけますが、地天女が毘沙門天の両足を支える姿はあまり見かけませんね。
大極殿の屋根に上がる鴟尾
金色に輝く大屋根の鴟尾(3.3m)は、明治の修理で取り付けた銅板に金箔を張ったもの。明治以前は同じ木製銅板張りであるが形状は鳥衾です。
鎌倉時代や江戸時代の再興時にも鴟尾の取り付けはなっかたようです。
奈良時代の創建時には何らかのものがついていたようですが、はっきりとしません。
大極殿前の石畳
石の産地が、中央が印度、その外が中国、次が朝鮮半島、一番外側が日本産となっているとのこと。
仏教伝来の道を表しているのでしょうか。
大仏殿の唐破風屋根
元旦と8月15日の夜に開かれる観相窓、その上には唐破風屋根、江戸時代の再建であることがわかります。興福寺南円堂にも観られます。
金銅八角燈籠(国宝)
大仏殿前に大仏への献灯を目的に752年の開眼供養に近い年代に製作されたとみられています。
火袋の四方の観音開き扉には宝相華・雲気文・獅子が、間の羽目板には音声菩薩が浮彫で表されています。
大仏殿の柱
直径が最大五尺(約1.5m)もあり、江戸時代には長さ十丈(約30m)もの大きな木材が調達できず、大仏殿の柱は帯金具で補強する集成材になっており、多くの楔が打ち込まれています。
大仏殿内の広目天
左奥に四天王の広目天立像、その足元に踏みつけられる邪鬼。
子供たちはカエルと答える子が多いとか。
大仏殿内の多聞天立像
右隅には多聞天、踏みつけられている邪鬼が解放されることはないのでしょうか。
大仏殿の柱抜け
今も昔も人気ですが、柱の穴は鎌倉再建時の大仏殿にあったと言われています。
現在はコロナ感染防止のため封鎖されています。
柱の強度の事を考えるともちろん無い方が良いのですが、何のためにあいているのか、鬼門の方角だとか種々の説があるようですが。
花瓶の蝶
百足は別ですが、普通は蝶の足は6本なのに8本❔、八に仏教的な意味を持たせているのでしょうか。
広目天と多聞天は立派な立像ですが、持国天と増長天は生首だけ。
資金的な理由で造れなかったのか、何か意味があって造らなかったのか、解りません。
賓頭盧様
コロナ感染防止のため触れません。
自分の体の痛い所を取ってもらうために本堂前には必ずありますね。
あまりにも大きすぎて手の届くのは膝まで、とても頭までは届きません。
久しぶりに見ました。
靴にビニル袋を被せて歩くカップル。その気持ちよ~く解ります。
最初は避けるのですが、足元ばかりで観る事が出来ないのでそのうち気にしなくなります。
奈良公園では仕方ないですね。
東大寺投稿の二回目です。
大仏殿周辺を周ってみました。
一部を除いて華やかさもなく、普通に通り過ぎ、興味を持たれることもなく、悠久の時間に埋もれたところを周ってみました。
東大寺こその歴史の時間に気を留めてもらえる機会になれば。
映えない写真ばかりですが。
西面大路に開く三つの門のうち一番北の門です。
東大寺鎮守八幡宮(手向山神社)の転害(碾磑)会の時、ここに神輿を安置した
ことからの名といわれています。
1180年の平氏焼討や1567年の兵火のにも焼け残っています。
鎌倉初期に手が加えられているが、ほぼ天平の姿を留めています。
中御門跡
西面大路に開く中門跡の礎石。
普通に車が通行しており案内もありません。
西大門跡
創建当時は平城京の二条大路に向かって開いた西大門の方が、正門としての機能を持ち規模も大きかった。
治承の兵火後も再建されたが、1583年の大風で倒壊して以来再建されず。
石碑も立っていますが、やや北東が本来の門跡とみられています。
西大門に掲げられていた寺号勑額は、聖武天皇の自筆から10文字「金光明四天王護国之寺」を2行に彫り込んだとされています。
現物を東大寺ミュージアムで観ることができます。
大仏池より大仏殿を望む
大仏池が自然にあったものか人工的に造られたものかは判らないそうです。
戒壇院千手堂
千手堂は1998年(平成10)に全焼し2002年(平成14)に再建されています。
戒壇堂は耐震工事中のため拝観できません。
代わって千手堂が2013年4月以来の特別公開されています。
戒壇院戒壇堂 耐震工事のため閉門中です。
鑑真和上は天平勝宝六年四月・大仏殿の前庭に戒壇を築き聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇及び沙弥ら四百四十余人に授戒をほどこした。
この戒壇の土を大仏殿の西に移して造営されたのが戒壇院の戒壇です。
戒壇の四隅に安置されている塑像の四天王像は、江戸復興期・公慶上人が指図堂に安置されていたものを戒壇堂に移されたものですが、それ以前の所在は法華堂でないかと言われています。
四天王は耐震工事中の間は、東大寺ミュージアムで観賞することができます。、
勧進所 阿弥陀堂
1686年、露座のままだった大仏の修理・大仏殿の再建のため、公慶上人は東大寺勧進所内に龍松院を創建、ここを拠点にして京都・江戸へと勧進向かう。
勧進所には同年建立の阿弥陀堂のほか、八幡殿や公慶上人を祀る公慶堂があります。
八幡殿には、元は手向山八幡宮に祀られていたが、神仏分離により勧進所に移されて僧形八幡神像(国宝)が、八幡神の祭礼転害会の日(10月5日)に特別開扉されますがご確認を。通常一般公開されていません。
指図堂
現在指図堂の立っている地は平安時代に創建された中門堂の跡地で、三好・松永の兵火で焼失したあとは空地となっていた。
100年余り経た江戸初期、大仏殿復興のため勧進所の建物が立ち並んだ。
その折、中門堂跡地には大仏殿の設計図面を掲げるお堂が建てられ、指図堂という名はこのことに由来しています。1791年このお堂は大風のために倒壊したが、その後浄土宗関係者から「この地は法然上人ゆかりの霊場であるから、上人の画像を本尊とするお堂を再建したい」との願出が東大寺に出され浄土宗徒の喜捨を受けて1852年頃に完成。
お堂の前に「圓光大師二十五霊場」の石標が立っています。
堂内より興福寺の五重塔の相輪が見えます。平日や閑散期には閉まっていることが多いので御朱印を希望される方はご確認を。
子安神社
大仏殿と指図堂の間に白壁の土塀に囲まれた子安宮・子安明神とよばれる小社。
説明文には、東大寺古図には「富貴社」の記載があり享保年間の略録によると良弁僧正の母を祭祀したといい、「相模の国からこられた母がここに住し良弁は孝養を尽くした旨の説明がなされ「孝養社」と言ったと記されている。
安産と子孫繁栄を願う社として「富貴社」より改称されたものらしい。
西塔院跡
奈良時代に創建され平安時代の中期承平4年(934)落雷に伴う火災で一度焼失、再建が試みられるが長保元年(1000年)に再建途中で再度焼失、その後は再建されず
塔の高さは東塔と共に70mとも100mとも言われています。。史跡保存のため一見小高い土山、詳しい説明文もありません。
西塔跡に隣接して「一乗院宮墓地」が設けられていますが、宮内庁管轄であり立ち入りはできません。
東塔とちがい一般民家が隣接していますので、再建は困難かも。
塔や回廊の抜き取られた礎石の一部が、依水園後園の池の護岸石に残されており、南大門と春日山の借景が見られる庭園ですが、入園料が1200円ちょっと遠慮しました。
残りの部分は大阪へ運ばれたと言われています。
講堂跡
大仏殿の北側に有り、平氏の焼き討ちにより焼失、以降再建されていません。
礎石跡より観ると立派な講堂があったことが想像できます。
食堂跡の礎石
道路の中央にポツンとあります。多くの礎石にみられるような持ち出そうとしたのみの跡が残ります。
知足院
春日山ドライブウェイ入口に近い東大寺子院の一つですが、ほとんど手が入っておらず、ちょっと残念です。
猫段
大仏殿の東側、この階段で転ぶと来世は猫に生まれ変わると伝わる石段。
凸凹があり、階段の蹴り上げのリズムも独特なので、こういった話で足元注意を促したものとされていますが。
特に歩き難くは感じませんが、猫好きの方一度転んでみては。
東塔院跡
平成28年より発掘調査が行われ復興再建に向けた計画が進んでいます。現在は再び土が被さられ保護されています。
治承の兵火で焼失した東塔も13世紀前半に完成、1362年雷火で焼失後再建されていないと。
1970年の万博、古河パビリオンで高さ約70mの七重塔が鉄骨造で再建され、エレベーターで展望台へ昇れたそうですが、その時の相輪が大仏殿東南角に残されています。
やはり礎石類は抜き取られてありませんでした。
どのような形で再建されるのかは今後の計画となると思いますが、再建はいつの頃か、残念ながら私はちょっと観れそうにありません。
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