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東大寺ではいただけません
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とうだいじ

東大寺のお参りの記録(1回目)
奈良県近鉄奈良駅

投稿日:2021年03月13日(土)
参拝:2021年3月吉日
神仏霊場会 奈良1番
関西圏では小学校の遠足や修学旅行で一度は訪れる東大寺。
あまりにも有名過ぎて、あまりにも広大すぎて、ちょっと投稿するには扱い難い東大寺。
一般的な観光ルートを一寸それて廻ってみました。
初回投稿は南大門から大仏殿。
次回投稿は大仏殿周辺部。
三回目は上院から手向山八幡宮。

1200有余年、東大寺の創建以前に金鍾寺・福寿寺などの幾つかの寺院が存在していたようです。741年に統合されて大和国分寺「金光明寺」となっています。
743年大仏建立の詔が聖武天皇により発せられ、廬舎那如来の大仏を本尊とする東大寺建立が始まります。
大仏造営の勧進は行基、開山は良弁です。
中世以降は、平氏による南都焼き討ちにより伽藍のほとんどを焼失、勧進に抜擢された重源により大仏や大仏殿の復興を成し遂げています。
戦国時代には再び大仏殿が焼失、大仏は山田道安により修理されるも120年間雨ざらしのままとなり、公慶により現在に伝わる大仏殿が復興されています。

奈良時代創建時の建物としては、転害門・正倉院宝庫・法華堂正堂と校倉数棟を残すのみです。
鎌倉時代再建のものとしては、南大門・鐘楼・法華堂礼堂などがあり、江戸元禄時代再建の大仏殿は横幅を7割程度に減じて再建されています。

季節がら映える写真もなく無機質散文的なのはご辛抱を。間違いや記憶違いも有ろうかと思いますので、徐々に追加訂正をしたくおもいます。
ちょっと重たいですが我慢のほどを。
東大寺の山門
南大門 国宝
天平創立の南大門は、962年・989年に倒れ1161年再建されています。
1180年の南都焼き討ちで焼けたかどうかは不明ですが、現在の門は1199年に上棟されたものです。
南大門と言えば国宝金剛力士像、運慶・快慶ら一門が69日間で完成させたと言われています。この剛健な作風が後世の力士像すべてが追っています。
阿形・吽形の配置は、向かって右が阿形、左を吽形とするのが通例ですが、左右が逆になっています。
また、外を向いた南面せず、面々相対して立ち中央の一点をにらみあう形となっています。
おそらく天平創建時の形を引き継いでいると想われます。
東大寺の建物その他
南大門 柱の弾痕
戦国時代 三好・松永の兵により撃ち込まれた鉄砲玉の跡、と言われていますが、節の後や虫食いの穴、弾痕跡なのか❓、ほじって観るわけにもいかず、これかなと想うものをアップしました。
東大寺の狛犬
南大門北側の石造獅子像
裏側ですのでほとんど方があまり気にも留めずスルーです。
元大仏殿の中門に置かれていて、重源の東大寺再建をサポートした宋人石工の製作によるものとされ、一対のものでなく何体かあった石造の一部と考えられています。
左右で口の開け方が異なります。
東大寺の山門
修学院(真言院)
色々な教学の講座が開かれています。どなたでも参加可能なようです。
真言の八祖の一人 善無畏の掘ったという井戸があり、弘法大師空海が当院来住の際、護法善神が現れ、その井戸の所在を教えたと言われる。
護法善神の足跡が残る石があると言われていますが、通常非公開です。
東大寺の山門
東大寺寺務所(旧東南院)
875年聖宝が建立した薬師堂に端を発し、904年別当道義が大安寺の佐伯院を移築した。
大仏殿・真言院の東南・南大門の東方に位置することから東南院と称し、三論・真言兼学の一院として発足。
白河上皇のの参詣や行幸など、上皇・天皇の御所となったが、1180年12月南都焼き討ちにより炎上、1190年10月復興し大仏殿落慶法要には源頼朝の宿舎に充てられる。
しかし、次第に衰微し松永・三好の兵火で炎上し一部を残し田畑となる。
1702年公慶が再興、だが1762年の大火で類焼したが翌年宸殿などは再建された。
大仏殿に向かう通路右横に明治天皇行在所の石碑が建っておりますが、昨年の大河ドラマで織田信長が正倉院の蘭奢待を切り取った様子がドラマ化されていましたが、明治10年2月御座所にて截香されたと言われています。
東大寺の末社
五百立山(いおだてやま)神社
大仏殿へ向かう道の左よこにひっそりと目立つことなく鎮座。
大仏殿創建に従事した大工さん達が祀られている神社。
大仏殿の鎌倉再建の際、五百羅漢が鍛冶・大工に身を変え大仏造営に助力した後、この山に姿を消したという伝え。
東大寺の庭園
鏡池
手向山八幡宮の放生池とされています。
中の島には絵師巨勢金岡があまりの美しさに筆を投げたという筆捨松があった言われていますが。
この池には琵琶湖・淀川水系に生息するワタカがおり、馬魚とよばれます。
大正11年、今は廃寺となった内山永久寺の木堂池から移したもの。
永久寺のワタカについては、後醍醐天皇が馬の嘶きによって敵に見つかることを恐れ、馬の首を斬りその馬首が化した魚であるため草を食うという伝説の話し。
東大寺の仏像
大仏殿中門
1716年大仏殿江戸再興時に、門の外でやはり内を向いて立つ左が持国天、右に立つ東側の兜跋毘沙門天の足元に目を向けると。
金剛力士や四天王に踏みつけられる邪気や鬼の姿はよく見かけますが、地天女が毘沙門天の両足を支える姿はあまり見かけませんね。
東大寺の建物その他
大極殿の屋根に上がる鴟尾
金色に輝く大屋根の鴟尾(3.3m)は、明治の修理で取り付けた銅板に金箔を張ったもの。明治以前は同じ木製銅板張りであるが形状は鳥衾です。
鎌倉時代や江戸時代の再興時にも鴟尾の取り付けはなっかたようです。
奈良時代の創建時には何らかのものがついていたようですが、はっきりとしません。
東大寺の建物その他
大極殿前の石畳
石の産地が、中央が印度、その外が中国、次が朝鮮半島、一番外側が日本産となっているとのこと。
仏教伝来の道を表しているのでしょうか。
東大寺の建物その他
大仏殿の唐破風屋根
元旦と8月15日の夜に開かれる観相窓、その上には唐破風屋根、江戸時代の再建であることがわかります。興福寺南円堂にも観られます。
東大寺の狛犬
金銅八角燈籠(国宝)
大仏殿前に大仏への献灯を目的に752年の開眼供養に近い年代に製作されたとみられています。
火袋の四方の観音開き扉には宝相華・雲気文・獅子が、間の羽目板には音声菩薩が浮彫で表されています。
東大寺の建物その他
大仏殿の柱
直径が最大五尺(約1.5m)もあり、江戸時代には長さ十丈(約30m)もの大きな木材が調達できず、大仏殿の柱は帯金具で補強する集成材になっており、多くの楔が打ち込まれています。
東大寺の芸術
大仏殿内の広目天
左奥に四天王の広目天立像、その足元に踏みつけられる邪鬼。
子供たちはカエルと答える子が多いとか。
東大寺の建物その他
大仏殿内の多聞天立像
右隅には多聞天、踏みつけられている邪鬼が解放されることはないのでしょうか。
東大寺の建物その他
大仏殿の柱抜け
今も昔も人気ですが、柱の穴は鎌倉再建時の大仏殿にあったと言われています。
現在はコロナ感染防止のため封鎖されています。
柱の強度の事を考えるともちろん無い方が良いのですが、何のためにあいているのか、鬼門の方角だとか種々の説があるようですが。
東大寺の建物その他
花瓶の蝶
百足は別ですが、普通は蝶の足は6本なのに8本❔、八に仏教的な意味を持たせているのでしょうか。
東大寺の像
広目天と多聞天は立派な立像ですが、持国天と増長天は生首だけ。
資金的な理由で造れなかったのか、何か意味があって造らなかったのか、解りません。
東大寺の像
賓頭盧様
コロナ感染防止のため触れません。
自分の体の痛い所を取ってもらうために本堂前には必ずありますね。
あまりにも大きすぎて手の届くのは膝まで、とても頭までは届きません。
東大寺(奈良県)
久しぶりに見ました。
靴にビニル袋を被せて歩くカップル。その気持ちよ~く解ります。
最初は避けるのですが、足元ばかりで観る事が出来ないのでそのうち気にしなくなります。
奈良公園では仕方ないですね。

すてき

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