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とうだいじ|華厳宗大本山

東大寺のお参りの記録一覧
奈良県 近鉄奈良駅

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アンナパパ
アンナパパ
2021年06月03日(木)47投稿

高校の修学旅行以来約50年ぶりに大仏殿をお参りしました!

東大寺の御朱印

「華厳」と書いてあるそうです。
東大寺は華厳宗のお寺とのこと!

東大寺のその他建物

国宝大仏殿(東大寺金堂)です。
とにかくすごい!大きい!

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惣一郎
惣一郎
2021年04月23日(金)1269投稿

東大寺は、奈良県奈良市にある華厳宗大本山の寺院。正式名称は「金光明四天王護国寺」。南都七大寺の一つ。本尊は廬舎那仏(国宝)。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の構成資産の1つとして登録されている。

創建は8世紀前半で、開基は聖武天皇、開山は良弁。聖武天皇が国力を尽くして建立した寺院で、当寺の全国60余ヵ国に建立させた国分寺の中心、「総国分寺」に位置づけた。奈良時代の当寺の伽藍は南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂、僧坊、食堂(じきどう)のほか、東西2基の七重塔があり、伽藍の完成まで40年近くを要した。

平安時代には、桓武天皇の南都仏教抑圧策により圧迫を受けたが、当から帰国した空海が別当になり寺内に真言院が開かれ、最澄の天台宗を加え「八宗兼学の寺」となり繁栄した。
平安末期、1181年に平重衡による南都焼討で大仏殿など多くの伽藍を焼失したが、その後大勧進職の僧・俊乗房重源が再興にあたり1185年には後白河法皇列席で大仏開眼法要、1195年に源頼朝列席で新大仏殿の落慶法要が行われた。
戦国時代の1567年には三好松永の戦いの兵火で、大仏殿を含む多くの伽藍を再度焼失。その後大仏殿はすぐには再建されず、長らく大仏は露座のままであったが、江戸中期に僧・公慶の尽力や徳川綱吉とその母桂昌院などの寄付により1709年に再建大仏殿が完成した(間口は11間から7間へとダウンサイズされた)。講堂、食堂、東西の七重塔などは、その後再建されることはなかった。

当寺は、JR奈良駅、近鉄奈良駅から市内循環バスで数駅の東大寺大仏殿・春日大社前バス停のすぐ北側が広大な境内地になっている。

参拝時は週末の午後、天気は最悪で土砂降りの雨であったが、その割にはずいぶん多くの参拝者が来ていた。さすが奈良を代表する観光地。

※境内敷地が広すぎて、初心者には分かりにくい。今回の参拝では南大門から大仏殿に行き、その後は東側の鐘楼周辺(鐘楼ヶ丘)と法華堂周辺(上院)を見て廻って終えたため、西側の勧進所・戒壇堂周辺ははまったく廻っていない。要再参拝。

東大寺のその他建物

バス停のある十字路から車両進入禁止の参道のようになっている。左側に何軒か飲食店や土産物屋があって、それが終わると吉城川にかかる橋に至る(上写真)。土砂降りの雨の中、数頭の鹿がずぶ濡れで歓迎してくれた。

東大寺の山門・神門

国宝<南大門>遠景。鎌倉時代の1199年に東大寺中興の祖・俊乗房重慶が中国宋から伝わった大仏様(天竺様)を建築様式として採用し再建。

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湯守りと妖怪
湯守りと妖怪
2021年03月17日(水)41投稿

東大寺投稿の二回目です。
大仏殿周辺を周ってみました。
一部を除いて華やかさもなく、普通に通り過ぎ、興味を持たれることもなく、悠久の時間に埋もれたところを周ってみました。
東大寺こその歴史の時間に気を留めてもらえる機会になれば。
映えない写真ばかりですが。

東大寺の山門・神門

西面大路に開く三つの門のうち一番北の門です。
東大寺鎮守八幡宮(手向山神社)の転害(碾磑)会の時、ここに神輿を安置した
ことからの名といわれています。
1180年の平氏焼討や1567年の兵火のにも焼け残っています。
鎌倉初期に手が加えられているが、ほぼ天平の姿を留めています。

東大寺の周辺

中御門跡
西面大路に開く中門跡の礎石。
普通に車が通行しており案内もありません。

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湯守りと妖怪
湯守りと妖怪
2021年03月13日(土)41投稿

神仏霊場会 奈良1番
関西圏では小学校の遠足や修学旅行で一度は訪れる東大寺。
あまりにも有名過ぎて、あまりにも広大すぎて、ちょっと投稿するには扱い難い東大寺。
一般的な観光ルートを一寸それて廻ってみました。
初回投稿は南大門から大仏殿。
次回投稿は大仏殿周辺部。
三回目は上院から手向山八幡宮。

1200有余年、東大寺の創建以前に金鍾寺・福寿寺などの幾つかの寺院が存在していたようです。741年に統合されて大和国分寺「金光明寺」となっています。
743年大仏建立の詔が聖武天皇により発せられ、廬舎那如来の大仏を本尊とする東大寺建立が始まります。
大仏造営の勧進は行基、開山は良弁です。
中世以降は、平氏による南都焼き討ちにより伽藍のほとんどを焼失、勧進に抜擢された重源により大仏や大仏殿の復興を成し遂げています。
戦国時代には再び大仏殿が焼失、大仏は山田道安により修理されるも120年間雨ざらしのままとなり、公慶により現在に伝わる大仏殿が復興されています。

奈良時代創建時の建物としては、転害門・正倉院宝庫・法華堂正堂と校倉数棟を残すのみです。
鎌倉時代再建のものとしては、南大門・鐘楼・法華堂礼堂などがあり、江戸元禄時代再建の大仏殿は横幅を7割程度に減じて再建されています。

季節がら映える写真もなく無機質散文的なのはご辛抱を。間違いや記憶違いも有ろうかと思いますので、徐々に追加訂正をしたくおもいます。
ちょっと重たいですが我慢のほどを。

東大寺の山門・神門

南大門 国宝
天平創立の南大門は、962年・989年に倒れ1161年再建されています。
1180年の南都焼き討ちで焼けたかどうかは不明ですが、現在の門は1199年に上棟されたものです。
南大門と言えば国宝金剛力士像、運慶・快慶ら一門が69日間で完成させたと言われています。この剛健な作風が後世の力士像すべてが追っています。
阿形・吽形の配置は、向かって右が阿形、左を吽形とするのが通例ですが、左右が逆になっています。
また、外を向いた南面せず、面々相対して立ち中央の一点をにらみあう形となっています。
おそらく天平創建時の形を引き継いでいると想われます。

東大寺のその他建物

南大門 柱の弾痕
戦国時代 三好・松永の兵により撃ち込まれた鉄砲玉の跡、と言われていますが、節の後や虫食いの穴、弾痕跡なのか❓、ほじって観るわけにもいかず、これかなと想うものをアップしました。

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湯守りと妖怪
湯守りと妖怪
2021年03月20日(土)41投稿

東大寺の投稿三回目で上院を周ってみました。
明治維新の廃仏毀釈は深刻な影響を与え、廃藩置県による寺領の消滅や境内地の上地は大仏殿などの巨大な堂宇を持つ東大寺には、大変な苦労があったと思います。
明治八年には北林院など八ケ寺を取り壊し、十一年には物持院の建物や建具を売却。
先人たちの苦労に感謝します。

東大寺の末社・摂社

辛国神社
辛国氏は渡来系の氏族で鍛冶を職として天皇に仕えたとされます。
東大寺の気比神社の東南に辛国堂が現存し、東大寺創建事業における功績を評価し現在まで大事にされています。
金鷲行者時代の良弁と法力比べをした辛国行者(役行者の弟子、韓国連広足とも)を祀ると言われています。
法力比べで辛国行者の投げた剣が納められた所が勧進所にある剣塚だとされています。
辛国氏に対する金鷲業者(良弁)の優位は動かず、金鷲業者が住んで修行を重ね聖武天皇の目に留まって得度が許されたゆかりの金鐘寺が、法華堂として東大寺の主要な伽藍の一つとなり国宝になっている現状が金鷲優位を示しています。

東大寺のその他建物

俊乗堂
治承4年東大寺大仏を焼いた平重衡の軍勢の先陣をつとめた阿波民部重能(田口成良)の贖罪救済のために俊乗坊重源上人が建てたという浄土堂の旧地で、重源五百年忌として1704年公慶上人が、その跡に大仏殿の余材で建立したとされます。
堂の中央には国宝「重源上人座像」が安置されています。俊乗忌や良弁忌に参拝できると思いますが。

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