とうだいじ|華厳宗大本山
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楽しみ方東大寺のお参りの記録一覧(10ページ目)

高校の修学旅行以来約50年ぶりに大仏殿をお参りしました!

「華厳」と書いてあるそうです。
東大寺は華厳宗のお寺とのこと!

国宝大仏殿(東大寺金堂)です。
とにかくすごい!大きい!

南大門です。
もちろん左右には阿形像、吽形像が睨みを効かせてますよ!

東大寺は、奈良県奈良市にある華厳宗大本山の寺院。正式名称は「金光明四天王護国寺」。南都七大寺の一つ。本尊は廬舎那仏(国宝)。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の構成資産の1つとして登録されている。
創建は8世紀前半で、開基は聖武天皇、開山は良弁。聖武天皇が国力を尽くして建立した寺院で、当寺の全国60余ヵ国に建立させた国分寺の中心、「総国分寺」に位置づけた。奈良時代の当寺の伽藍は南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂、僧坊、食堂(じきどう)のほか、東西2基の七重塔があり、伽藍の完成まで40年近くを要した。
平安時代には、桓武天皇の南都仏教抑圧策により圧迫を受けたが、当から帰国した空海が別当になり寺内に真言院が開かれ、最澄の天台宗を加え「八宗兼学の寺」となり繁栄した。
平安末期、1181年に平重衡による南都焼討で大仏殿など多くの伽藍を焼失したが、その後大勧進職の僧・俊乗房重源が再興にあたり1185年には後白河法皇列席で大仏開眼法要、1195年に源頼朝列席で新大仏殿の落慶法要が行われた。
戦国時代の1567年には三好松永の戦いの兵火で、大仏殿を含む多くの伽藍を再度焼失。その後大仏殿はすぐには再建されず、長らく大仏は露座のままであったが、江戸中期に僧・公慶の尽力や徳川綱吉とその母桂昌院などの寄付により1709年に再建大仏殿が完成した(間口は11間から7間へとダウンサイズされた)。講堂、食堂、東西の七重塔などは、その後再建されることはなかった。
当寺は、JR奈良駅、近鉄奈良駅から市内循環バスで数駅の東大寺大仏殿・春日大社前バス停のすぐ北側が広大な境内地になっている。
参拝時は週末の午後、天気は最悪で土砂降りの雨であったが、その割にはずいぶん多くの参拝者が来ていた。さすが奈良を代表する観光地。
※境内敷地が広すぎて、初心者には分かりにくい。今回の参拝では南大門から大仏殿に行き、その後は東側の鐘楼周辺(鐘楼ヶ丘)と法華堂周辺(上院)を見て廻って終えたため、西側の勧進所・戒壇堂周辺ははまったく廻っていない。要再参拝。

バス停のある十字路から車両進入禁止の参道のようになっている。左側に何軒か飲食店や土産物屋があって、それが終わると吉城川にかかる橋に至る(上写真)。土砂降りの雨の中、数頭の鹿がずぶ濡れで歓迎してくれた。

国宝<南大門>遠景。鎌倉時代の1199年に東大寺中興の祖・俊乗房重慶が中国宋から伝わった大仏様(天竺様)を建築様式として採用し再建。

国宝<南大門>近景。大仏様の建築様式の特徴は、貫(ぬき)と世慣れる柱を貫通する水平材を多用して構造を強化していることや、天井を張らずに構造材をそのまま装飾として見せていることなどとのこと。

国宝<木造金剛力士像>の左側・阿形(あぎょう、口を開いた像)。金剛力士像は高さ8.4mの巨大な木像で、1203年に大仏師・運慶、快慶、湛慶、定覚がわずか69日で造立。阿形は吽形とは作風が異なり、快慶が主となって制作されたと言われる。

国宝<木造金剛力士像>の右側・吽形(うんぎょう、口を閉じた像)。こちらは運慶が主となって制作されたと言われる。なお、一般的な仁王像の安置方法と比べると、阿形・吽形が左右逆になっている。

南大門下で雨宿りしていた鹿の群れの間を抜けて参道を進む。

参道を少し進んでから南大門を振り返る。南大門北面の東西の間には、国指定の重要文化財である<石造獅子像>が安置されている。1196年に中国宋の石工・字六郎が宋の石材を使って製作したもので、異国テイスト満点の珍しい狛犬らしい。自分は鹿ちゃんに気を取られて完全にスルー、見逃し...涙

やがて参道左側に現れる<東大寺ミュージアム>。

さらに進むと参道左側に<東大寺本坊>。

参道右側には<鏡池>と、そこに浮かぶ島の上に<厳島神社>。

<中門>遠景。江戸中期1716年ごろの再建。国指定の重要文化財。

<中門>近景。2階建ての入母屋造の楼門。両脇から「コ」の字形に東西回廊が伸び、大仏殿(金堂)の左右に至る。

中門に向かって左側に立つ<持国天>。東方を守護する武神。1716年の中門、東西廻廊の完成に合わせ、京仏師・山本順慶が持国・多聞の二天像を造立。1719年に開眼供養した。

中門に向かって右側に立つ<毘沙門天>。多聞天とほぼ同義で、北方を守護する武神。この像は特に「兜跋(とばつ)毘沙門天」と言われ、西域の兜跋国(トルファン)に仮現した特殊な異形像で金鎖甲を着け、三面立の冠を被る。確かに見た目はシルクロード的異国風。

中門の左手にある大仏殿入口を入り、順路を進むと<料金所>。

料金所を過ぎてから<大仏殿>を望む。非常に大きな建物でインパクト十分。手前の庭園もきれい。

国宝<大仏殿(金堂)>。1709年再建、寄棟造、本瓦葺。2階建てに見えるが、実は一重裳階付。現在は、間口57m、奥行50.5m、高さ46.8m。奈良時代の創建時は間口85m、奥行、高さは同じなので、もっと横に広かったみたい。

参道左手にある、使われていない<水屋>。そもそも参道の左側にあるため、順路上、大仏拝観後の順路にある。

大仏殿の手前にある、国宝<金銅八角燈籠>。奈良時代創建時の物。扉の4面に雲中を駆ける4頭の獅子を、他の4面に4種の異なる楽器(横笛、尺八、鈸子、笙)を奏する音声菩薩(おんじょうぼさつ)を、鉄格子と唐草文様の透かしの上に浮彫で表現。

国宝<銅造廬舎那仏坐像>。大仏堂に入ってすぐ正面にある。像高14.7m。奈良時代の743年に聖武天皇が大仏造像の発願、749年に完成、752年に開眼供養会開催。のべ260万人が工事に関与、建造費は現在価値で4700億円とのこと。
※大仏殿の中では、嬉しいことに写真撮影OK、ただし三脚使用不可。

大仏の左の脇侍<虚空蔵菩薩坐像>。木造寄木造。国指定の重要文化財。
大仏の右の脇侍<如意輪観音坐像>とともに、江戸中期に京都の仏師・山本順慶一門と大阪の仏師・椿井賢慶一門らが30年かけて制作、1752年完成。

<廬舎那仏>と<虚空蔵菩薩>のツーショット。

大仏の左側下に展示されている、国宝<大仏蓮弁・蓮華蔵世界図>。奈良時代中期制作、大仏が乗る蓮の花弁で、大きさは横2m超、これが28枚あり、反花含めると56枚ある。

連弁の上部には大きな<釈迦如来>が描かれていて、28の蓮弁には同じ絵図が掘られている。つまり28体の釈迦如来の上に廬舎那仏があって、全ての世界を総括するような世界観を表現しているとのことらしい。

虚空蔵菩薩の左側の順路を進むと<広目天像>。

虚空蔵菩薩の裏にある<持国天像・頭部>。

広目天像の右側に展示されている、奈良時代の東大寺伽藍の模型。やはり東西2つの<七重の塔>が目立つ。

大仏の裏側。抜かりなく仕上げられている。

広目天の逆サイドにある<多聞天像>。

大仏の右の脇侍<如意輪観音坐像>。左の脇侍<虚空蔵菩薩坐像>と同じく江戸中期の制作だが、14年早く1738年完成。

<廬舎那仏>と<如意輪観音>のツーショット。

教科書、雑誌などでも出て来る、黄金アングルからの大仏。
この写真を撮った場所から振り返ると授与所。御朱印はそちら。

大仏殿を出ると、右手に<賓頭盧像>。

最後にもう一度、国宝<大仏殿>と国宝<金銅八角燈籠>。

神仏霊場会 奈良1番
関西圏では小学校の遠足や修学旅行で一度は訪れる東大寺。
あまりにも有名過ぎて、あまりにも広大すぎて、ちょっと投稿するには扱い難い東大寺。
一般的な観光ルートを一寸それて廻ってみました。
初回投稿は南大門から大仏殿。
次回投稿は大仏殿周辺部。
三回目は上院から手向山八幡宮。
1200有余年、東大寺の創建以前に金鍾寺・福寿寺などの幾つかの寺院が存在していたようです。741年に統合されて大和国分寺「金光明寺」となっています。
743年大仏建立の詔が聖武天皇により発せられ、廬舎那如来の大仏を本尊とする東大寺建立が始まります。
大仏造営の勧進は行基、開山は良弁です。
中世以降は、平氏による南都焼き討ちにより伽藍のほとんどを焼失、勧進に抜擢された重源により大仏や大仏殿の復興を成し遂げています。
戦国時代には再び大仏殿が焼失、大仏は山田道安により修理されるも120年間雨ざらしのままとなり、公慶により現在に伝わる大仏殿が復興されています。
奈良時代創建時の建物としては、転害門・正倉院宝庫・法華堂正堂と校倉数棟を残すのみです。
鎌倉時代再建のものとしては、南大門・鐘楼・法華堂礼堂などがあり、江戸元禄時代再建の大仏殿は横幅を7割程度に減じて再建されています。
季節がら映える写真もなく無機質散文的なのはご辛抱を。間違いや記憶違いも有ろうかと思いますので、徐々に追加訂正をしたくおもいます。
ちょっと重たいですが我慢のほどを。

南大門 国宝
天平創立の南大門は、962年・989年に倒れ1161年再建されています。
1180年の南都焼き討ちで焼けたかどうかは不明ですが、現在の門は1199年に上棟されたものです。
南大門と言えば国宝金剛力士像、運慶・快慶ら一門が69日間で完成させたと言われています。この剛健な作風が後世の力士像すべてが追っています。
阿形・吽形の配置は、向かって右が阿形、左を吽形とするのが通例ですが、左右が逆になっています。
また、外を向いた南面せず、面々相対して立ち中央の一点をにらみあう形となっています。
おそらく天平創建時の形を引き継いでいると想われます。

南大門 柱の弾痕
戦国時代 三好・松永の兵により撃ち込まれた鉄砲玉の跡、と言われていますが、節の後や虫食いの穴、弾痕跡なのか❓、ほじって観るわけにもいかず、これかなと想うものをアップしました。

南大門北側の石造獅子像
裏側ですのでほとんど方があまり気にも留めずスルーです。
元大仏殿の中門に置かれていて、重源の東大寺再建をサポートした宋人石工の製作によるものとされ、一対のものでなく何体かあった石造の一部と考えられています。
左右で口の開け方が異なります。

修学院(真言院)
色々な教学の講座が開かれています。どなたでも参加可能なようです。
真言の八祖の一人 善無畏の掘ったという井戸があり、弘法大師空海が当院来住の際、護法善神が現れ、その井戸の所在を教えたと言われる。
護法善神の足跡が残る石があると言われていますが、通常非公開です。

東大寺寺務所(旧東南院)
875年聖宝が建立した薬師堂に端を発し、904年別当道義が大安寺の佐伯院を移築した。
大仏殿・真言院の東南・南大門の東方に位置することから東南院と称し、三論・真言兼学の一院として発足。
白河上皇のの参詣や行幸など、上皇・天皇の御所となったが、1180年12月南都焼き討ちにより炎上、1190年10月復興し大仏殿落慶法要には源頼朝の宿舎に充てられる。
しかし、次第に衰微し松永・三好の兵火で炎上し一部を残し田畑となる。
1702年公慶が再興、だが1762年の大火で類焼したが翌年宸殿などは再建された。
大仏殿に向かう通路右横に明治天皇行在所の石碑が建っておりますが、昨年の大河ドラマで織田信長が正倉院の蘭奢待を切り取った様子がドラマ化されていましたが、明治10年2月御座所にて截香されたと言われています。

五百立山(いおだてやま)神社
大仏殿へ向かう道の左よこにひっそりと目立つことなく鎮座。
大仏殿創建に従事した大工さん達が祀られている神社。
大仏殿の鎌倉再建の際、五百羅漢が鍛冶・大工に身を変え大仏造営に助力した後、この山に姿を消したという伝え。

鏡池
手向山八幡宮の放生池とされています。
中の島には絵師巨勢金岡があまりの美しさに筆を投げたという筆捨松があった言われていますが。
この池には琵琶湖・淀川水系に生息するワタカがおり、馬魚とよばれます。
大正11年、今は廃寺となった内山永久寺の木堂池から移したもの。
永久寺のワタカについては、後醍醐天皇が馬の嘶きによって敵に見つかることを恐れ、馬の首を斬りその馬首が化した魚であるため草を食うという伝説の話し。

大仏殿中門
1716年大仏殿江戸再興時に、門の外でやはり内を向いて立つ左が持国天、右に立つ東側の兜跋毘沙門天の足元に目を向けると。
金剛力士や四天王に踏みつけられる邪気や鬼の姿はよく見かけますが、地天女が毘沙門天の両足を支える姿はあまり見かけませんね。

大極殿の屋根に上がる鴟尾
金色に輝く大屋根の鴟尾(3.3m)は、明治の修理で取り付けた銅板に金箔を張ったもの。明治以前は同じ木製銅板張りであるが形状は鳥衾です。
鎌倉時代や江戸時代の再興時にも鴟尾の取り付けはなっかたようです。
奈良時代の創建時には何らかのものがついていたようですが、はっきりとしません。

大極殿前の石畳
石の産地が、中央が印度、その外が中国、次が朝鮮半島、一番外側が日本産となっているとのこと。
仏教伝来の道を表しているのでしょうか。

大仏殿の唐破風屋根
元旦と8月15日の夜に開かれる観相窓、その上には唐破風屋根、江戸時代の再建であることがわかります。興福寺南円堂にも観られます。

金銅八角燈籠(国宝)
大仏殿前に大仏への献灯を目的に752年の開眼供養に近い年代に製作されたとみられています。
火袋の四方の観音開き扉には宝相華・雲気文・獅子が、間の羽目板には音声菩薩が浮彫で表されています。

大仏殿の柱
直径が最大五尺(約1.5m)もあり、江戸時代には長さ十丈(約30m)もの大きな木材が調達できず、大仏殿の柱は帯金具で補強する集成材になっており、多くの楔が打ち込まれています。

大仏殿内の広目天
左奥に四天王の広目天立像、その足元に踏みつけられる邪鬼。
子供たちはカエルと答える子が多いとか。

大仏殿内の多聞天立像
右隅には多聞天、踏みつけられている邪鬼が解放されることはないのでしょうか。

大仏殿の柱抜け
今も昔も人気ですが、柱の穴は鎌倉再建時の大仏殿にあったと言われています。
現在はコロナ感染防止のため封鎖されています。
柱の強度の事を考えるともちろん無い方が良いのですが、何のためにあいているのか、鬼門の方角だとか種々の説があるようですが。

花瓶の蝶
百足は別ですが、普通は蝶の足は6本なのに8本❔、八に仏教的な意味を持たせているのでしょうか。

広目天と多聞天は立派な立像ですが、持国天と増長天は生首だけ。
資金的な理由で造れなかったのか、何か意味があって造らなかったのか、解りません。

賓頭盧様
コロナ感染防止のため触れません。
自分の体の痛い所を取ってもらうために本堂前には必ずありますね。
あまりにも大きすぎて手の届くのは膝まで、とても頭までは届きません。

久しぶりに見ました。
靴にビニル袋を被せて歩くカップル。その気持ちよ~く解ります。
最初は避けるのですが、足元ばかりで観る事が出来ないのでそのうち気にしなくなります。
奈良公園では仕方ないですね。

東大寺投稿の二回目です。
大仏殿周辺を周ってみました。
一部を除いて華やかさもなく、普通に通り過ぎ、興味を持たれることもなく、悠久の時間に埋もれたところを周ってみました。
東大寺こその歴史の時間に気を留めてもらえる機会になれば。
映えない写真ばかりですが。

西面大路に開く三つの門のうち一番北の門です。
東大寺鎮守八幡宮(手向山神社)の転害(碾磑)会の時、ここに神輿を安置した
ことからの名といわれています。
1180年の平氏焼討や1567年の兵火のにも焼け残っています。
鎌倉初期に手が加えられているが、ほぼ天平の姿を留めています。

中御門跡
西面大路に開く中門跡の礎石。
普通に車が通行しており案内もありません。

西大門跡
創建当時は平城京の二条大路に向かって開いた西大門の方が、正門としての機能を持ち規模も大きかった。
治承の兵火後も再建されたが、1583年の大風で倒壊して以来再建されず。
石碑も立っていますが、やや北東が本来の門跡とみられています。
西大門に掲げられていた寺号勑額は、聖武天皇の自筆から10文字「金光明四天王護国之寺」を2行に彫り込んだとされています。
現物を東大寺ミュージアムで観ることができます。

大仏池より大仏殿を望む
大仏池が自然にあったものか人工的に造られたものかは判らないそうです。

戒壇院千手堂
千手堂は1998年(平成10)に全焼し2002年(平成14)に再建されています。
戒壇堂は耐震工事中のため拝観できません。
代わって千手堂が2013年4月以来の特別公開されています。

戒壇院戒壇堂 耐震工事のため閉門中です。
鑑真和上は天平勝宝六年四月・大仏殿の前庭に戒壇を築き聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇及び沙弥ら四百四十余人に授戒をほどこした。
この戒壇の土を大仏殿の西に移して造営されたのが戒壇院の戒壇です。
戒壇の四隅に安置されている塑像の四天王像は、江戸復興期・公慶上人が指図堂に安置されていたものを戒壇堂に移されたものですが、それ以前の所在は法華堂でないかと言われています。
四天王は耐震工事中の間は、東大寺ミュージアムで観賞することができます。、

勧進所 阿弥陀堂
1686年、露座のままだった大仏の修理・大仏殿の再建のため、公慶上人は東大寺勧進所内に龍松院を創建、ここを拠点にして京都・江戸へと勧進向かう。
勧進所には同年建立の阿弥陀堂のほか、八幡殿や公慶上人を祀る公慶堂があります。
八幡殿には、元は手向山八幡宮に祀られていたが、神仏分離により勧進所に移されて僧形八幡神像(国宝)が、八幡神の祭礼転害会の日(10月5日)に特別開扉されますがご確認を。通常一般公開されていません。

指図堂
現在指図堂の立っている地は平安時代に創建された中門堂の跡地で、三好・松永の兵火で焼失したあとは空地となっていた。
100年余り経た江戸初期、大仏殿復興のため勧進所の建物が立ち並んだ。
その折、中門堂跡地には大仏殿の設計図面を掲げるお堂が建てられ、指図堂という名はこのことに由来しています。1791年このお堂は大風のために倒壊したが、その後浄土宗関係者から「この地は法然上人ゆかりの霊場であるから、上人の画像を本尊とするお堂を再建したい」との願出が東大寺に出され浄土宗徒の喜捨を受けて1852年頃に完成。
お堂の前に「圓光大師二十五霊場」の石標が立っています。
堂内より興福寺の五重塔の相輪が見えます。平日や閑散期には閉まっていることが多いので御朱印を希望される方はご確認を。

子安神社
大仏殿と指図堂の間に白壁の土塀に囲まれた子安宮・子安明神とよばれる小社。
説明文には、東大寺古図には「富貴社」の記載があり享保年間の略録によると良弁僧正の母を祭祀したといい、「相模の国からこられた母がここに住し良弁は孝養を尽くした旨の説明がなされ「孝養社」と言ったと記されている。
安産と子孫繁栄を願う社として「富貴社」より改称されたものらしい。

西塔院跡
奈良時代に創建され平安時代の中期承平4年(934)落雷に伴う火災で一度焼失、再建が試みられるが長保元年(1000年)に再建途中で再度焼失、その後は再建されず
塔の高さは東塔と共に70mとも100mとも言われています。。史跡保存のため一見小高い土山、詳しい説明文もありません。
西塔跡に隣接して「一乗院宮墓地」が設けられていますが、宮内庁管轄であり立ち入りはできません。
東塔とちがい一般民家が隣接していますので、再建は困難かも。
塔や回廊の抜き取られた礎石の一部が、依水園後園の池の護岸石に残されており、南大門と春日山の借景が見られる庭園ですが、入園料が1200円ちょっと遠慮しました。
残りの部分は大阪へ運ばれたと言われています。

講堂跡
大仏殿の北側に有り、平氏の焼き討ちにより焼失、以降再建されていません。
礎石跡より観ると立派な講堂があったことが想像できます。

食堂跡の礎石
道路の中央にポツンとあります。多くの礎石にみられるような持ち出そうとしたのみの跡が残ります。

知足院
春日山ドライブウェイ入口に近い東大寺子院の一つですが、ほとんど手が入っておらず、ちょっと残念です。

猫段
大仏殿の東側、この階段で転ぶと来世は猫に生まれ変わると伝わる石段。
凸凹があり、階段の蹴り上げのリズムも独特なので、こういった話で足元注意を促したものとされていますが。
特に歩き難くは感じませんが、猫好きの方一度転んでみては。

東塔院跡
平成28年より発掘調査が行われ復興再建に向けた計画が進んでいます。現在は再び土が被さられ保護されています。
治承の兵火で焼失した東塔も13世紀前半に完成、1362年雷火で焼失後再建されていないと。
1970年の万博、古河パビリオンで高さ約70mの七重塔が鉄骨造で再建され、エレベーターで展望台へ昇れたそうですが、その時の相輪が大仏殿東南角に残されています。
やはり礎石類は抜き取られてありませんでした。
どのような形で再建されるのかは今後の計画となると思いますが、再建はいつの頃か、残念ながら私はちょっと観れそうにありません。

東大寺の投稿三回目で上院を周ってみました。
明治維新の廃仏毀釈は深刻な影響を与え、廃藩置県による寺領の消滅や境内地の上地は大仏殿などの巨大な堂宇を持つ東大寺には、大変な苦労があったと思います。
明治八年には北林院など八ケ寺を取り壊し、十一年には物持院の建物や建具を売却。
先人たちの苦労に感謝します。

辛国神社
辛国氏は渡来系の氏族で鍛冶を職として天皇に仕えたとされます。
東大寺の気比神社の東南に辛国堂が現存し、東大寺創建事業における功績を評価し現在まで大事にされています。
金鷲行者時代の良弁と法力比べをした辛国行者(役行者の弟子、韓国連広足とも)を祀ると言われています。
法力比べで辛国行者の投げた剣が納められた所が勧進所にある剣塚だとされています。
辛国氏に対する金鷲業者(良弁)の優位は動かず、金鷲業者が住んで修行を重ね聖武天皇の目に留まって得度が許されたゆかりの金鐘寺が、法華堂として東大寺の主要な伽藍の一つとなり国宝になっている現状が金鷲優位を示しています。

俊乗堂
治承4年東大寺大仏を焼いた平重衡の軍勢の先陣をつとめた阿波民部重能(田口成良)の贖罪救済のために俊乗坊重源上人が建てたという浄土堂の旧地で、重源五百年忌として1704年公慶上人が、その跡に大仏殿の余材で建立したとされます。
堂の中央には国宝「重源上人座像」が安置されています。俊乗忌や良弁忌に参拝できると思いますが。

行基堂
江戸初期の建築と想われます。
内部は寄棟造り・唐様の厨子を安置し、行基菩薩坐像を祀ります。

念仏堂
鎌倉時代の建築。本尊は俊乗坊重源上人あるいは宋人陳和卿の作と伝えられる地蔵菩薩であり、地蔵堂と呼ばれていました。
江戸時代初期に、1567年の兵火で失われた浄土堂にあった聖武天皇護持という冠の舎利や、重源上人の遺品等がこの堂に移され念仏堂と呼ばれるようになる。
伝説では、摂津の遊女屋藤本権守の建立といわれます。重源上人が藤本宅にあった「夜泣きの地蔵」を胎内に納めたといわれます。

鐘楼
現存の鐘(国宝)は鐘楼建立時(752)の物と想われます。鐘楼は1180年の兵火では焼け残ったが栄西の建立と想われます。
鐘の音は十里四方に響くとされ、剛力で知られた鎌倉武士の朝比奈三郎が力まかせに撞き、その大音響で奈良中の鍋釜が割れたとスケールの大きな逸話も。

鐘
日本の三大鐘「奈良太郎」の名を持つ大鐘、重量2.6トン、・高野次郎・吉野三郎。
普通の鐘が撞座(丸く浮き彫りの部分)を撞くのに対して、東大寺の大鐘はそれより下の位置を突くようになっていますが、音を抑えるためそれともより大きくするため、どちらなんでしょうね❔。

大湯屋
五十人風呂・千人風呂とも呼ばれ、毎月晦日に焚かれたという。
堂内にある鉄湯船には建久11(1197)年の重源上人の寄進銘があり、二十八石入りの大釜(直径2m・深さ72cm)として知られています。
底に栓があり現存最古の鉄製湯槽とされます。湯屋は蒸し風呂でなく、取り湯・湯浴み施設と考えられています。

閼伽井屋 あかいや
修二会に際し3月12日(13日午前1時過ぎ)に屋内にある井戸より、本尊十一面観世音菩薩にお供えする御香水(閼伽水)を汲む儀式を行う所。
752年実忠和尚が二月堂で初めて修二会を行い、諸神を勧請した際若狭国の遠敷明神が献じたものであることから「若狭井」とも呼ばれる。
現在の建物は十三世紀初期の再建と想われます。

閼伽井屋の屋根の鵜
東大寺の閼伽井屋の井戸は遥か遠くの若狭遠敷川の鵜の瀬まで通じていると言われ、実忠が修二会を修し全国の神々を招いた時、若狭の遠敷明神が漁に没頭して遅参したため、お詫びとして若狭の聖水を二月堂の観音に捧げる約束をした。
明神が二匹の鵜を遣わしたところ、東大寺の二月堂下の岩から鵜が飛び出し、その跡から香水が湧き出したと伝えられる。
この萌えの伝説にちなんで閼伽井屋の屋根には鵜の焼き物が据えられています。

開山堂
良弁の像(国宝)を祀り良弁堂とも呼ばれる。良弁の命日・12月16日のみ開扉。
前庭に奈良三名椿のひとつ「糊こぼしの椿」があります。他は白豪寺五色椿、殿香寺武士椿。

興成神社 コウジョウ
修二会行法を守護する三社のひとつ。遠敷明神が若狭より送水したおり、黒・白二羽の鵜が岩盤を打ち破って飛び出し、その後から甘水湧出したのが若狭井で鵜を祀ったのがこの興成神社。
平安期には既に現在地に鎮座していたと想われています。

飯道神社 ハンドウ・イイミチ
大仏初建の地である紫香楽しがらきに関係しています。

四月堂
三味堂・普賢堂とも称されます。もとは普賢菩薩を本尊としていたために普賢堂とも呼ばれ、法華三昧会がこの堂で四月に行われたため三昧堂・四月堂と呼ばれます。

良弁杉
幼児、良弁が大鷲」にさらわれてきて置かれて杉とされています。
現在の杉は昭和42年に植えたもの。先代の杉は樹齢450年、昭和36年の第二室戸台風で倒壊。

二月堂
東大寺で最も身近なのがお水取りの二月堂。
修二会 本来は2月1日から14日までの行事だったが、新暦の採用に伴って1873(明治六年)からはひと月遅れの3月1日から行うことに改められ今日に至っています。
大仏開眼した752年、開山良弁の高弟である実忠が始めたもので、以来一度も途切れる事無く続けられています。
行法に参加する11名の僧侶は東大寺とその末寺から選ばれる練行衆と呼ばれ、まず2月20から末日まで戒壇院の別火坊で精進潔斎の生活を送ります。
3月1日から二月堂で本行が始まる。大松明は童子という役割の人が道明かりとして松明をかかげて練行衆を堂内に送り込んだあと、その松明を舞台に持ち出して火を振り回す。
特に12日夜は籠松明と呼ばれる巨大な松明を用い、火の粉が雨のように舞台から降り注ぎます。
13日午前2時頃、練行衆が本尊に供える香水を二月堂下にある閼伽井に汲みに行くのが「お水取り」。
この行法が修二会の代名詞のようになっており、修二会は3月14日深夜におわります。
1667年行法中に堂内から出火焼失し、現在の建物はその2年後に再建されています。

遠敷神社 おにゅうじんじゃ
二月堂の北東にあるが、様式から見ると十九世紀の再建とも。
遠敷明神が閼伽水を献じたとの伝承は「東大寺要録」に載っており、平安時代には二月堂付近に勧請されたものと想われます。

観音堂
西国三十三所のお礼参りに参拝される方もおられます。

法華堂(三月堂)
東大寺の建築の中では最も古く、寺伝では東大寺建立以前にあった金鐘寺の遺構とされています。
752年の図には「羂索堂」とあり不空羂索観音を本尊と祀るお堂である。旧暦3月に法華会が行われるようになり、法華堂または三月堂と呼ばれるようになったようです。
もとは数寄屋造りの正堂と礼堂が軒を接して建つ配置であったが、、鎌倉時代に礼堂を入母屋造りに改築して二棟を繋いでいます。
正堂は天平初期の建築ですが礼堂は鎌倉時代の建築で、床下や屋根の部分を観ると二棟を繋いだことが解ります。
執金剛神像の特別開扉は12月16日の良弁僧正の忌日です。
堂前の法華堂燈籠は鎌倉時代で重文、形の整った六角石灯篭の優品ですが一部が欠けています。

法華堂経庫
もと正倉院の西にあった庫院・地蔵院校倉で1696年にこの地へ移建。平安前期のものとされています。
地蔵院にあったもう一棟は1687年に勧進所に移建され経庫となっています。
校倉の組み方がまじかで観られます。

不動堂
御朱印を頂けますが、閉まる時間が早いので気をつけてください。

手向山八幡宮本殿
奈良時代聖武天皇が大仏を造営時に、これに協力のため749年に宇佐から八幡宮を迎え大仏殿の近く鏡池の東側に鎮座し東大寺を鎮守。
鎌倉時代の1250年に北条時頼によって現在地へ遷座。
祭礼は転害会と呼ばれ十月五日、これは宇佐から遷宮の時に東大寺転害門から入られたことに起因すると伝えられ、転害門を御旅所として神輿がでます。
東大寺側や若草山よりの鳥居には手向山神社とあり、法華堂よりの鳥居は手向山八幡宮となっています。

手向山八幡宮 石燈籠
古い石燈籠が多く見られますが、あまり手入れや補強は為されていないようです。八幡宮のロゴマークの向き合う鳩は、古くから使われていたようです。

手向山八幡宮 大国殿の御鈴
叶緒の鈴束、なんだか願いを聞きとどけてくれそう。

手向山八幡宮 宝庫
転害会の国宝馬具・宝輦等が収まっていた。奈良時代の校倉造の蔵。屋根に鴟尾が乗っているのが珍しいです。大きなネズミ返し等をまじかで確認できます。
もと東大寺持宝院の北にあった油倉で(奈良時代)で、1816年にこの地へ移建。

東大寺 参拝日 令和2年11月8日
東大寺大仏殿「華厳」の御朱印を頂きました

大仏殿

大仏殿

大仏殿

盧舎那仏

八角燈籠



南大門

吽形像

阿形像

東大寺大仏殿「華厳」の御朱印

このお寺の最大の特長は、朝早くから参拝ができることです。開門は7時半です。寺院にしては珍しく早起きです。
いつもはいっぱいで、停めるところすらない駐車場も、早朝なら停め放題。前日夕方に訪問したのですが、人は多い、車は多い、駐車場を探すだけで時間がかかり、結局、参拝を諦め翌日に回しました。
新薬師寺など手軽に参拝できる寺社にいったのですが、これが正解‼️東大寺は朝訪問しましょう。
自分は春日大社の駐車場に停めて参拝に行きました。東大寺は拝観に時間がかかるので、時間制よりは定額停め放題の駐車場が便利です。後で春日大社にも参拝することを考えてそちらに停めました。緩やかな下り坂なので、苦もなく南大門に到着します。(帰りはバスを使いました。)
お土産物屋さんもまだ開いてないので、とても静かです。人もまばらで、特に修学旅行などの団体が行動を起こす前というのが、良かったです。
境内はとても広いです。スニーカーを履いてください。
拝観料は少し高めですけど、国宝館も是非見てください。
自分の時は、法華堂の日光月光菩薩さまが展示されてました。とても大好きな仏像なので、見られて良かったです。本当は、法華堂で見たかったですが…。
まぁ不空牽索観音の脇侍では?なので、まぁ宝物館でもいいのかな?
久しぶりに見る大仏はやっぱり大迫力です。子供の頃に修学旅行で見たときはただただ大きさに圧倒されましたが、今見ると聖武天皇の権威の力の強さを感じます。仏教で国家の統一を目指すには、このような大仏は必須だったのですね。
いろいろな災害にあっても、必ず再構築される大仏は、権力の象徴でもあり、また信仰の中心でもあるんだなぁ、と実感しました。
そういえば、マグマ大使の中でも、東大寺が襲われて、大仏が野ざらしになる場面があったのを思い出しました。
なんと罰当たりなことか。
ここでは運慶快慶作の大迫力の仁王像からゆっくり見て回ってください。宝物館はmustですが、開館時間が9時半と少し時間があるので、開館まで法華堂、手向山神社、奈良公園等ゆっくり廻りましょう。
早朝は人が少ないので、写真も取り放題ですよ。
因みに宝物館開館時には、あちらこちらに修学旅行生があふれてました。

大仏殿遠景

中門越しに見る大仏殿

南大門

金剛力士像あ形

金剛力士像ん形

大仏と脇侍の如意輪観音

逆さ大仏殿

大仏と脇侍の虚空蔵菩薩

大仏殿も大仏様も鐘楼もみんな大きい。
学生の時とは違った感覚でした。
ずーっと大仏を眺めていられる素敵な空間です。







2025年10月

想像よりインバウンドの方が多かった。
ヨーロッパ系の方が多いかな?
そして修学旅行生がたくさん😆
平日だから空いてると思ってたのにー笑



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