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根来寺 智積院ではいただけません
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ねごろじ ちしゃくいん|真言宗智山派総本山五百佛山(いおぶさん)

根来寺 智積院
京都府 七条駅

御朱印について
御朱印
あり
限定
-
御朱印帳
あり
パーキング
駐車場
-

巡礼

その他の巡礼の情報

真言宗十八本山第7番
近畿三十六不動尊霊場第20番
京都十三仏霊場第1番
神仏霊場巡拝の道第120番(京都第40番)

おすすめの投稿

穏暖
2023年01月12日(木)
514投稿

東山で三社に詣でたので、こちらにもお参りしました。智山派の総本山智積院です。

多くの観光客が訪れるわけではないようですが、仏教寺院のお勤めを果たしていらっしゃる様子。若い僧職の方々がいろんな作業に努めてらっしゃいました。皆薄着で裸足に素手。凄いです。他とは違った姿があります。

また、長谷川等伯の襖絵は圧巻ですが、今は東京に出張中。春には帰るはずです。他にも布袋さんが子供と戯れる襖絵はつい笑顔になります。

根来寺 智積院の御朱印

大日如来御朱印。前回と重なってしまったので、次回は不動さまにしよう。

根来寺 智積院(京都府)

冠木門。ここから中へ。

根来寺 智積院(京都府)

参道と奥に金堂。

根来寺 智積院(京都府)

参道を左に折れると、講堂、その奥に大書院、庭園拝観になります。

根来寺 智積院(京都府)

庭園。緑が落ちて冬の庭。

根来寺 智積院の建物その他

大書院の襖絵。ここは商業利用でなければ写真OKでしたがSNSはどうなんでしょう?大丈夫だと思うのですが、、、

根来寺 智積院(京都府)
根来寺 智積院(京都府)

金堂と奥に明王殿。

根来寺 智積院の建物その他

大師堂。

根来寺 智積院(京都府)

求聞持堂。

根来寺 智積院の鳥居

三社檀の拝殿。鳥居もあります。この区域は神域。

根来寺 智積院の建物その他

若い僧侶が素手でゴミ拾いされてました。

根来寺 智積院(京都府)

明王殿。この辺りで雨が降り出して急ぎ気味。

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歴史

智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。
智積院は、もともと紀州根来山(ねごろさん、現在の和歌山県岩出市)大伝法院(根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。
近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。
関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」とした。
祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。
この客殿は天和2年(1682年)の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたためと推定されている。
近代に入って1947年にも火災があり、当時国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち16面が焼失した。この時焼けた講堂は1995年に再建された。講堂再建に先だって、1992年に発掘調査が実施されたが、その結果、祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことがあらためて裏付けられた。

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根来寺 智積院の基本情報

住所京都府京都市東山区東瓦町964(東大路七条下る)
行き方

JR京都駅よりバス10分、東山七条下車、市バス206系統、207系統、208系統
京阪七条駅より徒歩約10分

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名称根来寺 智積院
読み方ねごろじ ちしゃくいん
参拝時間

9:00~16:00

参拝にかかる時間

1時間

トイレあり
御朱印あり

限定御朱印なし
御朱印帳あり
電話番号075-541-5361
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttp://www.chisan.or.jp/
お守りあり
SNS

巡礼の詳細情報

京都十三仏霊場

第1番

御本尊:不動明王

御真言:

のうまくさまんだばざらだん せんだま かろしやだそはたや うんたらたかんまん

御詠歌:

つみとがを やきほろぼさん ちかいにて ほのおのなかに たちませるみを

真言宗十八本山

第7番

御本尊:金剛界大日如来

神仏霊場巡拝の道

近畿三十六不動尊霊場

詳細情報

ご本尊金剛界大日如来
山号五百佛山(いおぶさん)
院号智積院
宗旨・宗派真言宗智山派総本山
創建時代南北朝時代
開山・開基真憲坊長盛/玄宥
文化財

大書院障壁画25面、松に草花図屏風、金剛経(国宝)
絹本著色童子経曼荼羅図、絹本著色孔雀明王像、絹本著色阿弥陀浄土図ほか(重要文化財)
庭園(国の名勝)

ご由緒

智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。
智積院は、もともと紀州根来山(ねごろさん、現在の和歌山県岩出市)大伝法院(根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。
近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。
関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」とした。
祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。
この客殿は天和2年(1682年)の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたためと推定されている。
近代に入って1947年にも火災があり、当時国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち16面が焼失した。この時焼けた講堂は1995年に再建された。講堂再建に先だって、1992年に発掘調査が実施されたが、その結果、祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことがあらためて裏付けられた。

体験御朱印国宝花の名所札所・七福神巡り

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