ほうこうじ|天台宗三門派
方広寺のお参りの記録一覧
京都市東山区にあります、
方広寺に参拝しました。
豊国神社の隣に隣接する、天台宗の寺院で、
ご本尊は【盧遮那仏】
大坂の陣の引き金の一つになった、方広寺梵鐘事件の【国家安康、君臣豊楽】の梵鐘が有ることで有名。
豊国神社で御朱印を書いて頂く合間に訪れ参拝しました。
日本三大名鐘の一つで、大坂の陣の引き金にもなった【国家安康、君臣豊楽】が刻まれた
梵鐘。
【10】方広寺
京都府京都市東山区茶屋町527-4
関西に住んだら自力で観光しないと京都も奈良も知らないままじゃん!と焦った家族による京都プチ修学旅行、
第2弾のスタートです。まずは方広寺へ参拝いたしました。
「国家安泰」と「君臣豊楽」の文字を絶対に見つけるぞと鼻息荒く向かった子供ですが、
白く強調され枠で囲まれておりすぐに分かってしまい
「いつ誰が白くしちゃったの…いやそうしないと見つけられないけど…えぇ…」とよく分からない表情をしておりました。
「家康の文字を分断し呪詛をはかり豊臣家の繁栄を祈念した」と徳川家康の怒りを買い大阪夏の陣のきっかけにもなった国家安康の銘鐘は、高さ4.2m、82.7tと非常に大きく、
歴史の教科書に載ってるまんま!ここからこの角度で写真撮ったんだ!とスマホをかざして教科書の再現をし満喫するなどしました。
受付お休みの日とのことで、御朱印は頂けず。
また是非、参拝させて頂きたいなと思いました。
本堂
鐘楼
国家安康の銘鐘
「国家安泰」 「君臣豊楽」
豊国神社の隣接していますのでそのまま行かせていただきました。大坂の陣の引き金になった釣鐘があります。
本堂です。
大坂の陣の引き金になった釣鐘です。
国家安康の銘鐘
『国家安康』『君臣豊楽』
天台宗 方広寺
京都国立博物館の北側に位置しています。
天正14年(1586年)に豊臣秀吉公が奈良・東大寺にならって大仏を祀るために発願したお寺です。
当初は東山の東福寺近くにある遣迎院付近が予定されていたそうですが、工事は一旦中止されました。
天正16年(1588年)に敷地を蓮華王院の北側に変更して再開。
天正19年(1591年)に大仏殿の立柱式が行われ、文禄2年(1593年)9月24日に大仏殿が上棟、文禄4年(1595年)に大仏殿が竣工されました。
その境内はとても広く、現在の京都国立博物館やさらに蓮華王院(三十三間堂)まで境内として取り込み、蓮華王院の南にある南大門や太閤塀もこのときに造営されたそうです。
このときの大仏は、奈良・東大寺の大仏よりも大きい像高19mもあったそうです。
しかしここから方広寺の不運が続きます。
不運その①
文禄5年(1596年)、慶長大地震が発生し、大仏の一部が破損。
なんと竣工した翌年です。
不運その②
慶長3年(1598年)、秀吉公は病により伏見城で亡くなられ、その後豊臣秀頼が慶長4年(1599年)に銅造での大仏復興を進めましたが、慶長7年(1602年)に鋳造中の大仏から出火し、大仏殿と大仏は焼失してしまいました。
慶長13年(1608年)、秀頼は徳川家康の勧めにより大仏復興を開始。
家康は豊臣家の財力を弱めるために復興を勧めたと云われています。
そして慶長17年(1612年)に大仏殿と大仏が完成、慶長19年(1614年)には梵鐘が完成。
この梵鐘に刻まれた銘文のうち、「国家安康」と「君臣豊楽」が徳川家康の家と康を分断して豊臣を君主とし、家康を冒瀆する意味が込めらているとされて、大坂の陣に発展し豊臣家の滅亡に繋がります。
不運その③
寛文2年(1662年)に発生した寛文近江・若狭大地震により崩壊。
不運その④
寛文7年(1667年)に木造の大仏で再興されますが、寛政10年(1798年)に落雷により焼失。
不運その⑤
天保年中(1830〜1844年)に、尾張国の有志により旧大仏を模した十分の一の木造半身像(2m)が造立されましたが、昭和48年(1973年)に失火により焼失。
このようにことごとく大仏は失われましたが、現在は本堂内に盧舎那仏坐像が御本尊として安置されているそうです。
慶長19年に作られた梵鐘が残っているだけでも奇跡なのかもしれませんね。
鐘楼
とにかく大きい!
高さ4.2m 外径2.8m 重さ82.7トン
鐘楼の天井画も見事でした。
迦陵嚬伽(かりょうびんが)という下半身が鳥、上半身が人間の画が描かれています。
極楽浄土に住む想像上の生き物だそうですよ。
人の大きさと比べてもらうとその大きさがわかると思います
本堂
本堂の扁額
手水
豊国神社をお参りする前に立ち寄りました。 豊国神社に隣接する豊臣家と縁のあるお寺です。 かの「方広寺鐘銘事件」で有名な“国家安康・君臣豊楽”の銘文が刻まれた梵鐘があります。 家康の名前を分断したとか、“家康”の文字が“豊臣”の下に記されているとか、豊臣家の繁栄を祈念するものだとかと、徳川側からいろいろと言いがかりをつけられて、結果、大阪の陣にて豊臣家は滅ぼされてしまうのですが、そのきっかけとなった歴史上有名な鐘です。 日本三大名鐘の1つに数えられますが、その歴史故に鐘楼の佇まいは、もの悲しさすら感じてしまいます。 本堂、その横の社務所らしきところに人の気配が無く御朱印は戴けませんでした。
方広寺・本堂
方広寺・鐘楼
方広寺・鐘楼
方広寺・梵鐘
「国家安康」「君臣豊楽」の銘文
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