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ほうこうじ|天台宗三門派

方広寺のお参りの記録一覧
京都府 七条駅

御朱印ハンター
2021年12月25日(土)
111投稿

豊国神社の隣接していますのでそのまま行かせていただきました。大坂の陣の引き金になった釣鐘があります。

方広寺の本殿

本堂です。

方広寺の建物その他

大坂の陣の引き金になった釣鐘です。

方広寺(京都府)

国家安康の銘鐘

方広寺の建物その他

『国家安康』『君臣豊楽』

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きどっち
2021年11月03日(水)
1156投稿

天台宗 方広寺

京都国立博物館の北側に位置しています。
天正14年(1586年)に豊臣秀吉公が奈良・東大寺にならって大仏を祀るために発願したお寺です。
当初は東山の東福寺近くにある遣迎院付近が予定されていたそうですが、工事は一旦中止されました。
天正16年(1588年)に敷地を蓮華王院の北側に変更して再開。
天正19年(1591年)に大仏殿の立柱式が行われ、文禄2年(1593年)9月24日に大仏殿が上棟、文禄4年(1595年)に大仏殿が竣工されました。
その境内はとても広く、現在の京都国立博物館やさらに蓮華王院(三十三間堂)まで境内として取り込み、蓮華王院の南にある南大門や太閤塀もこのときに造営されたそうです。
このときの大仏は、奈良・東大寺の大仏よりも大きい像高19mもあったそうです。

しかしここから方広寺の不運が続きます。

不運その①
文禄5年(1596年)、慶長大地震が発生し、大仏の一部が破損。
なんと竣工した翌年です。

不運その②
慶長3年(1598年)、秀吉公は病により伏見城で亡くなられ、その後豊臣秀頼が慶長4年(1599年)に銅造での大仏復興を進めましたが、慶長7年(1602年)に鋳造中の大仏から出火し、大仏殿と大仏は焼失してしまいました。

慶長13年(1608年)、秀頼は徳川家康の勧めにより大仏復興を開始。
家康は豊臣家の財力を弱めるために復興を勧めたと云われています。
そして慶長17年(1612年)に大仏殿と大仏が完成、慶長19年(1614年)には梵鐘が完成。
この梵鐘に刻まれた銘文のうち、「国家安康」と「君臣豊楽」が徳川家康の家と康を分断して豊臣を君主とし、家康を冒瀆する意味が込めらているとされて、大坂の陣に発展し豊臣家の滅亡に繋がります。

不運その③
寛文2年(1662年)に発生した寛文近江・若狭大地震により崩壊。

不運その④
寛文7年(1667年)に木造の大仏で再興されますが、寛政10年(1798年)に落雷により焼失。

不運その⑤
天保年中(1830〜1844年)に、尾張国の有志により旧大仏を模した十分の一の木造半身像(2m)が造立されましたが、昭和48年(1973年)に失火により焼失。

このようにことごとく大仏は失われましたが、現在は本堂内に盧舎那仏坐像が御本尊として安置されているそうです。
慶長19年に作られた梵鐘が残っているだけでも奇跡なのかもしれませんね。

方広寺の建物その他

鐘楼
とにかく大きい!
高さ4.2m 外径2.8m 重さ82.7トン

方広寺の芸術

鐘楼の天井画も見事でした。
迦陵嚬伽(かりょうびんが)という下半身が鳥、上半身が人間の画が描かれています。
極楽浄土に住む想像上の生き物だそうですよ。

方広寺の歴史
方広寺の建物その他

人の大きさと比べてもらうとその大きさがわかると思います

方広寺の本殿

本堂

方広寺の建物その他

本堂の扁額

方広寺の手水

手水

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