ほうこうじ|天台宗山門派
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楽しみ方方広寺のお参りの記録一覧(2ページ目)

豊国神社の隣接していますのでそのまま行かせていただきました。大坂の陣の引き金になった釣鐘があります。

本堂です。

大坂の陣の引き金になった釣鐘です。

国家安康の銘鐘

『国家安康』『君臣豊楽』

天台宗 方広寺
京都国立博物館の北側に位置しています。
天正14年(1586年)に豊臣秀吉公が奈良・東大寺にならって大仏を祀るために発願したお寺です。
当初は東山の東福寺近くにある遣迎院付近が予定されていたそうですが、工事は一旦中止されました。
天正16年(1588年)に敷地を蓮華王院の北側に変更して再開。
天正19年(1591年)に大仏殿の立柱式が行われ、文禄2年(1593年)9月24日に大仏殿が上棟、文禄4年(1595年)に大仏殿が竣工されました。
その境内はとても広く、現在の京都国立博物館やさらに蓮華王院(三十三間堂)まで境内として取り込み、蓮華王院の南にある南大門や太閤塀もこのときに造営されたそうです。
このときの大仏は、奈良・東大寺の大仏よりも大きい像高19mもあったそうです。
しかしここから方広寺の不運が続きます。
不運その①
文禄5年(1596年)、慶長大地震が発生し、大仏の一部が破損。
なんと竣工した翌年です。
不運その②
慶長3年(1598年)、秀吉公は病により伏見城で亡くなられ、その後豊臣秀頼が慶長4年(1599年)に銅造での大仏復興を進めましたが、慶長7年(1602年)に鋳造中の大仏から出火し、大仏殿と大仏は焼失してしまいました。
慶長13年(1608年)、秀頼は徳川家康の勧めにより大仏復興を開始。
家康は豊臣家の財力を弱めるために復興を勧めたと云われています。
そして慶長17年(1612年)に大仏殿と大仏が完成、慶長19年(1614年)には梵鐘が完成。
この梵鐘に刻まれた銘文のうち、「国家安康」と「君臣豊楽」が徳川家康の家と康を分断して豊臣を君主とし、家康を冒瀆する意味が込めらているとされて、大坂の陣に発展し豊臣家の滅亡に繋がります。
不運その③
寛文2年(1662年)に発生した寛文近江・若狭大地震により崩壊。
不運その④
寛文7年(1667年)に木造の大仏で再興されますが、寛政10年(1798年)に落雷により焼失。
不運その⑤
天保年中(1830〜1844年)に、尾張国の有志により旧大仏を模した十分の一の木造半身像(2m)が造立されましたが、昭和48年(1973年)に失火により焼失。
このようにことごとく大仏は失われましたが、現在は本堂内に盧舎那仏坐像が御本尊として安置されているそうです。
慶長19年に作られた梵鐘が残っているだけでも奇跡なのかもしれませんね。

鐘楼
とにかく大きい!
高さ4.2m 外径2.8m 重さ82.7トン

鐘楼の天井画も見事でした。
迦陵嚬伽(かりょうびんが)という下半身が鳥、上半身が人間の画が描かれています。
極楽浄土に住む想像上の生き物だそうですよ。


人の大きさと比べてもらうとその大きさがわかると思います

本堂

本堂の扁額

手水

豊国神社をお参りする前に立ち寄りました。 豊国神社に隣接する豊臣家と縁のあるお寺です。 かの「方広寺鐘銘事件」で有名な“国家安康・君臣豊楽”の銘文が刻まれた梵鐘があります。 家康の名前を分断したとか、“家康”の文字が“豊臣”の下に記されているとか、豊臣家の繁栄を祈念するものだとかと、徳川側からいろいろと言いがかりをつけられて、結果、大阪の陣にて豊臣家は滅ぼされてしまうのですが、そのきっかけとなった歴史上有名な鐘です。 日本三大名鐘の1つに数えられますが、その歴史故に鐘楼の佇まいは、もの悲しさすら感じてしまいます。 本堂、その横の社務所らしきところに人の気配が無く御朱印は戴けませんでした。

方広寺・本堂

方広寺・鐘楼

方広寺・鐘楼

方広寺・梵鐘
「国家安康」「君臣豊楽」の銘文

京の冬の旅・非公開文化財特別公開にあわせて拝観。
豊臣秀吉が大仏を祀るために創建した。東大寺の3倍の規模の大仏殿で、東大寺の大仏より大きな19mの盧舎那仏が安置されたが、地震で倒壊した。
その後、豊臣秀頼が2度にわたり再建したが焼失、徳川幕府が建立したものも地震で倒壊している。
現在本堂に安置されている本尊盧舎那仏は、かつての大仏を1/10の大きさで再現されたものとされる。
本堂東側の大黒堂には、伝教大師最澄作と伝わる大黒天像(豊臣秀吉念持仏)を祀る。
豊臣家滅亡のきっかけとなった「国家安康 君臣豊楽」の銘が刻まれた梵鐘は重文指定されている。重さは82.7トンある。


本堂

大黒堂




方広寺の特別公開を狙って訪問しました🎫
方広寺は豊臣秀吉が奈良の東大寺にならって大仏(盧舎那仏)を祀るために創建しました⛏
1595年には東大寺の3倍規模という大仏殿が完成し、高さが約19mの大仏が安置されました✨
しかし、翌年の地震により倒壊し、その後も大仏と大仏殿は焼失と再建を繰り返し、1973(昭和48)年の焼失後は再建されていません😢
方広寺と言えば、鐘楼の梵鐘が有名です✋
1614年に鋳造された梵鐘で重要文化財に指定されています✨
高さ4.2m、外径2.8m、厚さ0.27m、重さ82.7tの巨大な鐘で、「日本三大名鐘」のひとつに数えられています🔔
鐘に彫られた銘文「国家安康 君臣豊楽」が豊臣家を討つ口実に利用され、豊臣家滅亡のきっかけになったことで歴史上有名な鐘です🖌
徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康と徳川家を冒とくするものとみなされたそうです😨
有名な話ですので、歴史上貴重な物を見ている感じを受けますよ😃

鐘楼✨

梵鐘🔔

梵鐘🔔

梵鐘(銘文「国家安康 君臣豊楽」)🖌

鐘楼✨

第55回京の冬の旅👣

本堂と大黒堂❗️

京の冬の旅。豊臣滅亡のきっかけとなった、例の鐘があります。


白い部分が例の文言です。国家安康、君臣豊楽。ひどい言い掛りですよね。
豊国神社のお隣、豊臣秀吉ゆかりのお寺です。
東大寺のような大仏殿としたかったようですが、地震や火災など度重なるアクシデントによりなかなか実現しませんでした。
江戸時代に入ってからようやく、息子の秀頼により大仏殿が完成しましたが、梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」が家康の名前を分断し、豊臣を君主とするものだと徳川家康から難癖がつけられてしまいました。これが大坂冬の陣のきっかけになったと言われています。
この逸話に出てくる鐘が今でも境内に残されていました。とても大きく立派な鐘でした。
入れ替わりで1、2組の参拝者が常にお参りしている状態でしたが、皆さん静かにお参りしており落ち着いた雰囲気でした。

本堂

本堂と大黒天堂

鐘楼

梵鐘
件の銘文はこの鐘の反対側にあります
うまく写真に残せなかった💦
天井画は元伏見城の女性用化粧室の天井画であったそうです

国家安康の銘鐘について

御朱印
豊国のお隣、方広寺さん。
豊国参りのついでにお立ち寄り。

現在の方広寺本堂。

方広寺鐘。実は2代目。

下に転がってるのが初代方広寺鐘。の一部。

屋根にはちゃんと豊臣紋。
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