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そんしょういん|天台宗

尊勝院
京都府 蹴上駅

御朱印について御朱印
あり
限定
-
御朱印帳
-
ありません
パーキング
駐車場
なし

なし

その他の巡礼の情報

洛陽四十八願地蔵尊第24番米地蔵

尊勝院について

授与所は平日は空いてないことが多い。また青蓮院で行事がある場合は週末でも不在なことがあるため確認入れたほうが良いです。

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歴史

当院は元三慈恵大師を御本尊とし、保延年間に陽範阿闍梨を開基として比叡山の横川に草創されたものであります。天治元年、陽範阿闍梨は鳥羽法皇の内勅を奉じ横川般若谷の総本尊としておまつりされていた。当本尊元三大師の御宝前にて修法祈念せられ。霊験を得られましたので法皇よりその恩賞として「尊勝」の号を賜わったのであります。これを比叡山の本坊と致します。その後、正和年間に洛東粟田口に御本尊を御遷座ざれまして青蓮院の三條白川坊の後背、裏築地の辺りに本堂が建立されました。そのため裏築地殿と呼ばれ、また脇門跡般若院。般若三昧院を当院住職代々が管領相承してまいりましたので尊勝院を裏築地門跡と称して居りました。
 尊勝院は草創以来勅願所として歴代皇室の御崇信も殊のほかに深く、且つまた青蓮院の宮の院筆頭として代々門室の執事となっており、或いは祇園社・愛宕社および江州多賀大社などの別当職を兼務する等非常に由緒深い寺院であります。殊に歴代住職は日野家の子息が出家し、その法脈を受け継いできた関係もありましてか、代々日野の法界寺の別当職も兼務しております。特にまた多賀大社については慶長12年、時の住職慈性大僧正が徳川家康公の台命を受けて、多賀神社の別当職となり、かの地の別当寺不動院を兼務しまして多賀大社の復興造営を徳川幕府の外護のもとに実施したのであります。それ以来明治維新に至るまで代々連綿として別当職を兼帯しておりました。天明8年京都大火により皇居炎上されました時、後桜町上皇が青蓮院を假御所とされましたので青蓮院の宮尊真親王が尊勝院に入られて当院は門室代となったこともあります。
 現在の尊勝院の本堂(五間四面)は文禄年間に豊臣秀吉公が御本尊を信仰するあまり朝鮮出兵と桃山城安寧を祈願するために本堂を再建されたものと伝えられておりまして、通称「南面大師堂」と呼ばれておりました。堂内の彫刻など極彩色がほどこされ非常に美しく殊に「かへるまた」などは古建築史上からも重要視されているところであります。常行三昧堂様式の建物としては或いは桃山時代よりももっと古く室町時代の建物ではないかとも云われており将来は当然国宝重要文化財に指定されるべきものとの事であります。明治維新までは三條白川橋東南一帯の相当に広い境内には元三大師の御本堂のほかに地蔵堂、庚申堂、弁天堂、多賀社、梅宮社などがありましたが維新後いろいろと変動があり、諸堂社も改廃合併などされまして米地蔵尊も庚申尊等もこの本堂に一堂に御安置申し上げるようになりました。
 戦前までは庚申さんのご縁日に夜店などが出て賑わい、俗に「粟田の庚申堂」と呼ばれて一般に親しまれてきたのであります。その後大正4年には三條白川の旧地から現在の粟田山の京都市内を一望におさめることのできる、この展望絶景の現地に本堂もそのまま移転され庫裏、寺務所等も建築され、寺運も次第に復興されまして御本尊元三大師をはじめ庚申尊、米地蔵尊等それぞれ一般の方々の信仰を深め遠近を問わず参詣し祈願する人があとを絶ちません。

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尊勝院の基本情報

住所

京都府京都市東山区粟田口粟田山北町1

行き方

地下鉄東西線「東山」駅徒歩10分

アクセスを詳しく見る
名称

尊勝院

読み方

そんしょういん

参拝時間

境内自由

参拝料

なし

トイレなし
御朱印あり
限定御朱印なし
電話番号075-541-4574
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

詳細情報

ご本尊元三慈恵大師
院号

尊勝院

宗旨・宗派天台宗
創建時代

1135~41年(保延年間)

開山・開基

陽範阿闍梨

ご由緒

当院は元三慈恵大師を御本尊とし、保延年間に陽範阿闍梨を開基として比叡山の横川に草創されたものであります。天治元年、陽範阿闍梨は鳥羽法皇の内勅を奉じ横川般若谷の総本尊としておまつりされていた。当本尊元三大師の御宝前にて修法祈念せられ。霊験を得られましたので法皇よりその恩賞として「尊勝」の号を賜わったのであります。これを比叡山の本坊と致します。その後、正和年間に洛東粟田口に御本尊を御遷座ざれまして青蓮院の三條白川坊の後背、裏築地の辺りに本堂が建立されました。そのため裏築地殿と呼ばれ、また脇門跡般若院。般若三昧院を当院住職代々が管領相承してまいりましたので尊勝院を裏築地門跡と称して居りました。
 尊勝院は草創以来勅願所として歴代皇室の御崇信も殊のほかに深く、且つまた青蓮院の宮の院筆頭として代々門室の執事となっており、或いは祇園社・愛宕社および江州多賀大社などの別当職を兼務する等非常に由緒深い寺院であります。殊に歴代住職は日野家の子息が出家し、その法脈を受け継いできた関係もありましてか、代々日野の法界寺の別当職も兼務しております。特にまた多賀大社については慶長12年、時の住職慈性大僧正が徳川家康公の台命を受けて、多賀神社の別当職となり、かの地の別当寺不動院を兼務しまして多賀大社の復興造営を徳川幕府の外護のもとに実施したのであります。それ以来明治維新に至るまで代々連綿として別当職を兼帯しておりました。天明8年京都大火により皇居炎上されました時、後桜町上皇が青蓮院を假御所とされましたので青蓮院の宮尊真親王が尊勝院に入られて当院は門室代となったこともあります。
 現在の尊勝院の本堂(五間四面)は文禄年間に豊臣秀吉公が御本尊を信仰するあまり朝鮮出兵と桃山城安寧を祈願するために本堂を再建されたものと伝えられておりまして、通称「南面大師堂」と呼ばれておりました。堂内の彫刻など極彩色がほどこされ非常に美しく殊に「かへるまた」などは古建築史上からも重要視されているところであります。常行三昧堂様式の建物としては或いは桃山時代よりももっと古く室町時代の建物ではないかとも云われており将来は当然国宝重要文化財に指定されるべきものとの事であります。明治維新までは三條白川橋東南一帯の相当に広い境内には元三大師の御本堂のほかに地蔵堂、庚申堂、弁天堂、多賀社、梅宮社などがありましたが維新後いろいろと変動があり、諸堂社も改廃合併などされまして米地蔵尊も庚申尊等もこの本堂に一堂に御安置申し上げるようになりました。
 戦前までは庚申さんのご縁日に夜店などが出て賑わい、俗に「粟田の庚申堂」と呼ばれて一般に親しまれてきたのであります。その後大正4年には三條白川の旧地から現在の粟田山の京都市内を一望におさめることのできる、この展望絶景の現地に本堂もそのまま移転され庫裏、寺務所等も建築され、寺運も次第に復興されまして御本尊元三大師をはじめ庚申尊、米地蔵尊等それぞれ一般の方々の信仰を深め遠近を問わず参詣し祈願する人があとを絶ちません。

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