ほうおんじ|浄土宗|堯天山
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楽しみ方報恩寺のお参りの記録一覧
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京都市上京区にあるお寺です。
日蓮宗八本山の 妙顕寺・本法寺のあるエリアにやってきました。
ゆっくりお参りしたらお話も伺えますのですが 今日は未参拝寺社を優先しています。
次なる目的地は こちら報恩寺のお隣の寺院です。
なのでその前に 報恩寺にお参りです。こちらにはお参りしたことがあります。
報恩時は 黒田長政とゆかりのあるお寺です。
また 「虎の図」でも有名です。
残念ながら通常公開されておらず 正月三が日だけ特別拝観があるようです。
鐘楼には悲しい言い伝えが残っており 朝夕には撞くことがありません。
除夜の鐘は一般人でも撞くことができるそうです。
ネット情報です。
山号は尭天山 院号は佛牙院 宗旨は浄土宗 ご本尊は阿弥陀三尊 創建年は不詳 中興年は文亀元年(1501年) 中興は慶誉です。
詳しい創建年は不明であるが 寺伝では室町時代に一条高倉に天台浄土兼学の寺院・法園寺(または法音寺)として創建されたという。
室町時代中期には八宗兼学の寺となっていたが廃れてしまっていたため 文亀元年(1501年)に後柏原天皇の命により 慶誉によって堀川今出川に浄土宗の寺院として再興され 名称も報恩寺と改められた。
この時 天皇から「虎の図」が拝領されている。
天正13年(1585年)に豊臣秀吉の命により現在地に移転する。
この頃であろうか 秀吉は当寺に来た際に後柏原天皇から頂いた「虎の図」を目にして気に入ると それを借りて聚楽第に持ち帰って飾ってみたところ 「虎の図」は一晩中うるさく吠えて秀吉は眠ることができず すぐに当寺に「虎の図」を返却したという。
それ以来 この「虎の図」は「鳴虎」と呼ばれるようになり 当寺の通称ともなった。
元和9年(1623年)8月4日 福岡藩主黒田長政は京都における黒田家の位牌寺である当寺に宿泊していたところ 客殿にて56歳で亡くなった。
徳川家光の将軍宣下の先遣として病を押して先に上洛していたところであった。
享保15年(1730年)に享保の大火(西陣焼け) 次いで天明8年(1788年)1月30日の天明の大火で全焼したが その後再建されている。
江戸時代 寺にほど近い織屋に 仲が悪い丁稚と織女がいた。
ある時 報恩寺の夕方の鐘が何度撞かれるかで口論になった。
織女の方が正しかったが 丁稚が寺で雑用をしている男に頼んで 丁稚が答えた数だけ撞いてもらった。
丁稚に負けた織女は悔しさのあまり 鐘楼に首をつってしまった。
それ以来 寺では朝夕の鐘を撞くのを辞め 鐘は「撞かずの鐘」と呼ばれるようになった。

私達が歩いてきた道は突き当たると永寿院様の
前の道を含めてロータリーのようになっていて
そのまま報恩寺様の前に出ました。
報恩寺様は浄土宗のお寺様です。
報恩寺様は室町時代に天台宗と浄土宗の兼学の
道場として創建されました。
室町の中期には八宗兼学の寺院となりましたが
その後 荒廃していきます。
1501年に後柏原天皇の勅命で再建されました。
この時に報恩寺様の通称の元となる「虎の図」を
拝領されます。
この「虎の図」を気に入った豊臣秀吉が聚楽第に
持ち帰ると夜な夜な図の中の虎が吠えて眠れない…
即返却したという話が伝わっていて報恩寺様の
通称である「鳴虎」は ここからきているそうです。
また客殿には黒田長政が息を引き取った部屋があり
長政や長政の父である黒田孝高(如水)の位牌が
安置されています。
この日は法要を営まれていてお忙しい
ご様子でしたので御朱印は断念しました。



京都市上京区にある寺院です。
客殿(方丈)は文政元年(1818年)に再建されたもので 本尊の阿弥陀三尊像は快慶の作と言われています。また 客殿の庭園は枯山水庭園です。
鐘楼の梵鐘は平安時代の作で 「撞かずの鐘」(重要文化財)と呼ばれています。
応仁の乱の際には陣鐘に使われたと伝わります。
庫裏(?)の壁には金剛力士像が置かれていますが これは鎌倉時代のものだそうです。
山門の手前には石橋があるのですが これはもともとこの下を小川が流れていたことによるものだそうです。今では埋め立てられているそうですが 小川通の名の由来になっているそうです。
また空海作と伝わる大黒天像もあるそうです。(国立博物館寄託)
客殿に入ることができませんでしたので 特別拝観かな?を待ちたいと思います。
山号は尭天山 院号は佛牙院 宗旨は浄土宗 ご本尊は阿弥陀三尊 創建年は不詳 中興年は文亀元年(1501年) 中興は慶誉です。
寺伝では 室町時代に一条高倉に天台浄土兼学の寺院・法園寺として創建されたという。
室町時代中期には 八宗兼学の寺となっていたが廃れてしまっていたため 文亀元年(1501年)に後柏原天皇の命により 慶誉によって堀川今出川に浄土宗の寺院として再興され 名称も報恩寺と改められた。
この時 天皇から「虎の図」が拝領されている。
天正13年(1585年)に豊臣秀吉の命により現在地に移転する。
元和9年(1623年)8月4日 福岡藩主黒田長政は京都における黒田家の位牌寺である当寺に宿泊していたところ 客殿にて56歳で亡くなった。
とのことでした。






上京区にある報恩寺です 元和9(1623)年、入洛し宿泊していた黒田長政公が死去された客殿があります この石橋は慶長7年に秀吉の侍尼から寄進され、当時のものの擬宝珠が寺内に保存されています
境内は参拝自由とのことですが 客殿は通常非公開です
今回ご縁があり、客殿の黒田如水・長政父子ご位牌、また沢山の寺宝である文化財を拝見させて頂きました
寅年のみ実物公開となる通称鳴虎の図は、精密な複製で。慶長年間作の信長公肖像画は実物を間近で…マスクしてて良かった…
ご住職に参拝お願いをした折、正直に(…)黒田家ゆかりの御寺と聞いて、と伝えた所 お寺の略縁起と一緒に、大河ドラマの頃に地元有志の方が発行された「黒官京都」というミニコミのバックナンバーを用意して頂きました
ご位牌と並んで写真撮りましょう、と住職が仰られて !(◎_◎;) そそそそんな! 畏れ多いですよ! でも宜しいですか…と手を合わせ、記念に、ということで1枚撮って頂きました (そんなわけで絵図書画の展示室以外は、撮影禁止というわけではありませんでしたが掲載は控えさせて頂きます)
重ねてとなりますが観光客を受け入れる形を取っていない町の御寺ですので、こちらの予定と住職の寺務のご都合が合えば、という限定的な拝観になります 不定期ですが、主に冬に公開があるそうです 御承知の上どうぞ



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