ほうおんじ|浄土宗|堯天山
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報恩寺について
鳴虎(なきとら)報恩寺
報恩寺にある四明陶佾(しめいとういつ)が描いた「水を飲む虎」を豊臣秀吉を持ち帰った際、夜中に虎の鳴き声が一晩中聞こえたという伝説があります。秀吉は安眠できなかったため報恩寺に「水を飲む虎」を返しました。このことから「鳴虎報恩寺」と呼ばれるようになりました。
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鳴虎 報恩寺 通称寺の会

鳴虎 報恩寺 通称寺の会

鳴虎 報恩寺 通称寺の会

鳴虎 報恩寺 通称寺の会

鳴虎 報恩寺 通称寺の会

鳴虎 報恩寺 通称寺の会

京都市上京区にある寺院です。
客殿(方丈)は文政元年(1818年)に再建されたもので 本尊の阿弥陀三尊像は快慶の作と言われています。また 客殿の庭園は枯山水庭園です。
鐘楼の梵鐘は平安時代の作で 「撞かずの鐘」(重要文化財)と呼ばれています。
応仁の乱の際には陣鐘に使われたと伝わります。
庫裏(?)の壁には金剛力士像が置かれていますが これは鎌倉時代のものだそうです。
山門の手前には石橋があるのですが これはもともとこの下を小川が流れていたことによるものだそうです。今では埋め立てられているそうですが 小川通の名の由来になっているそうです。
また空海作と伝わる大黒天像もあるそうです。(国立博物館寄託)
客殿に入ることができませんでしたので 特別拝観かな?を待ちたいと思います。
山号は尭天山 院号は佛牙院 宗旨は浄土宗 ご本尊は阿弥陀三尊 創建年は不詳 中興年は文亀元年(1501年) 中興は慶誉です。
寺伝では 室町時代に一条高倉に天台浄土兼学の寺院・法園寺として創建されたという。
室町時代中期には 八宗兼学の寺となっていたが廃れてしまっていたため 文亀元年(1501年)に後柏原天皇の命により 慶誉によって堀川今出川に浄土宗の寺院として再興され 名称も報恩寺と改められた。
この時 天皇から「虎の図」が拝領されている。
天正13年(1585年)に豊臣秀吉の命により現在地に移転する。
元和9年(1623年)8月4日 福岡藩主黒田長政は京都における黒田家の位牌寺である当寺に宿泊していたところ 客殿にて56歳で亡くなった。
とのことでした。

石柱

由緒書

山門

山門前の石橋

地蔵堂

内陣

客殿(?)と庭園

賓頭盧尊者

庫裏

金剛力士像がこちらにあります

庫裏の瓦が魔除けの瓦(蛇)だそうです

パンフレットが貼ってありました

中庭

梵鐘が平安時代のものだそうで

鐘楼(梵鐘)

重要文化財に指定

古いのかどうか分からず

黒田官兵衛と長政の位牌が安置されているそうです

黒田長政について書かれていました
歴史
「鳴虎」の通称は、この寺の宝である虎の図を、秀吉が聚楽第へ持ち帰ったところ、夜毎に虎が吠えたために寺に返したという伝説に由来する。武将・黒田長政の宿舎と伝えられ、長政が息を引き取った部屋も残っており、黒田官兵衛と長政の位牌が安置されている。
歴史をもっと見る|| 名称 | 報恩寺 |
|---|---|
| 読み方 | ほうおんじ |
| 通称 | 鳴虎(なきとら)の報恩寺 |
| 御朱印 | あり |
| 限定御朱印 | なし |
| 御朱印帳に直書き | あり |
| 御朱印の郵送対応 | なし |
| 御朱印帳 | なし |
| 電話番号 | 075-414-1550 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
詳細情報
| ご本尊 | 阿弥陀如来 |
|---|---|
| 山号 | 堯天山 |
| 院号 | 佛牙院 |
| 宗旨・宗派 | 浄土宗 |
| 文化財 | 梵鐘(重要文化財) |
| ご由緒 | 「鳴虎」の通称は、この寺の宝である虎の図を、秀吉が聚楽第へ持ち帰ったところ、夜毎に虎が吠えたために寺に返したという伝説に由来する。武将・黒田長政の宿舎と伝えられ、長政が息を引き取った部屋も残っており、黒田官兵衛と長政の位牌が安置されている。 |
| 体験 | 武将・サムライ伝説 |
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