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よこはま さいほうじ|真言宗補陀洛山

横浜 西方寺
公式神奈川県 新羽駅

〇参拝時間 6:00~17:00
 門は開いていますのでいつでもお参り出来ますが、夜は境内が暗いため、暗い時間帯はお参りをご遠慮ください。

〇御朱印受付時間 9:00~17:00
 住職不在、法要中は書置きのみとなります。ご了承ください。

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巡礼

その他の巡礼の情報

横浜七福神(恵比寿)
武相二十八不動尊霊場(第9番)
旧小机領三十三観音霊場(第15番)

横浜 西方寺について

補陀洛山 西方寺について
茅葺きの本堂と緑あふれる境内
西方寺はおよそ800年前に鎌倉に創建され、その後およそ500年まえにこの新羽の地に移ってきたお寺です。山号の補陀洛山(ふだらくざん)はサンスクリット語のポータラカが語源で、観音信仰の霊地という意味です。西方寺がこの地に移る前、この地には観音様がお祀りされ、観音信仰の山として村の方々に信仰されていました。

「ふだらくや まだごくらくと 西方寺 みだかんのんの ぢょうどなりけり」という西方寺に御詠歌にあるように観音さまのお山に西方寺の本尊である阿弥陀様が移って来たということです。

 長い参道を歩くと石段、茅葺きの山門が見えてきます。

石段をあがり山門をくぐると横浜とは思えない別の場所のような雰囲気に包まれ、緑深い山を背に約300年前に建立された大きな茅葺きの本堂の本堂が迎えてくれます。
境内には季節の花々が咲き冬の蠟梅、春のサクラ、秋の彼岸花の時期には多くの参拝者がいらっしゃいます。また、国・県・市の重要文化財を保有し、本堂や黒本尊の阿弥陀様、堂内杉戸絵等を拝観することが出来ます。毎月、写経会や御詠歌教室、阿字観瞑想会を開いており、どなた様でもご参加いただけます。

「身近にこんなお寺があるんですね。」とのお声をちょうだい致します。是非一度ご参拝下さい。

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ぱん吉🍀
ぱん吉🍀
2025年02月05日(水) 19時12分18秒
1144投稿

如月の旅①『西方寺』朔日参り🌼
蝋梅(ロウバイ)が満開!はじめて見る美しさと漂う香りに感激 (⁠ ⁠ꈍ⁠ᴗ⁠ꈍ⁠) 梅に椿に水仙、千両と万両など季節の花々が彩る境内には参拝客もたくさん〜立派なカメラで蝋梅を撮影している方も多かったです。

寺務所で御朱印を書いていただきながら彼岸花のお話しをお聞きして、やはり次は満開の彼岸花の季節に伺いたいと思いました。

横浜 西方寺(神奈川県)

はじめての蝋梅(ロウバイ)
蝋のような花弁は鮮やかな黄色で綺麗✨

横浜 西方寺(神奈川県)

みごとに満開!

横浜 西方寺(神奈川県)

茅葺き屋根が素晴らしい本堂🙏
創建は江戸時代(享保六年)
当時の姿が復元されているのが嬉しい🍀

横浜 西方寺(神奈川県)

御本尊《阿弥陀如来》
別名《黒本尊》その謂れも興味深い
御朱印を書いていただきました🎵

横浜 西方寺(神奈川県)

さぁ参拝へ!
彼岸花の季節に歩きたい参道
山門も風情があり素敵😌

横浜 西方寺(神奈川県)

椿の種類も多く探すのも楽しい

横浜 西方寺(神奈川県)

手水舎

横浜 西方寺(神奈川県)

横浜 西方寺(神奈川県)

水仙

横浜 西方寺(神奈川県)

千両

横浜 西方寺(神奈川県)
横浜 西方寺(神奈川県)

こちらは万両

横浜 西方寺(神奈川県)
横浜 西方寺(神奈川県)

本堂横の大きな蝋梅の木が素晴らしい!
このサイズはなかなか珍しいそうです😊

横浜 西方寺(神奈川県)

青空に映える🎵

横浜 西方寺(神奈川県)

鐘楼

横浜 西方寺(神奈川県)

こちらも椿

横浜 西方寺(神奈川県)
横浜 西方寺(神奈川県)

トイレも立派😄

横浜 西方寺(神奈川県)

寺務所の彼岸花(笑)
次は実際に見てみたいなぁ🥰

横浜 西方寺(神奈川県)
横浜 西方寺(神奈川県)

最後に一枚✨

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歴史

西方寺に伝わる江戸時代の霊簿(過去帳)の題辞に西方寺は源頼朝卿の頃、建久年間(1190)に鎌倉の笹目と言う所に「補陀洛山、安養院、西方寺」として創建され、開山は大納言通憲公の息、醍醐覚洞院座主、東大寺の別当であった勝賢僧正であると記しています。

頼朝公は勝賢僧正に帰依し、東大寺の復興にも努力し、勝賢僧正を度々鎌倉に招いている亊が色々な文献に出ています。金沢文庫の古文書にも笹目に西方寺があったことが明記されています。後に北条重時が忍性菩薩を招き鎌倉に極楽寺という広大なお寺を創設します。その全盛期を示す極楽寺古絵図の右下に「西方寺」の寺名があり、付近の笹目にあった西方寺を極楽寺の一山に移したとされています。また、同寺中古図には「西方寺屋敷今無シ」と記しています。このことは、西方寺が更に他に移されたこと物語っています。
笹目谷にあった西方寺の遺址は明瞭でありませんが、極楽寺の一院として存在した西方寺は、極楽寺坂切り通しの北側崖上にあり、その付近が古図に示す西方寺の所在と一致し、歴代住侶の墓石十基ほどを残し今も存在し、西方寺跡とされています。そして、新羽町西方寺檀徒の古老の間に「西方寺は極楽寺から船で鶴見川を遡り、新羽の勝地をトして建てられた」という言い伝えが残されており、また本尊の阿弥陀如来は「黒本尊」として親しまれてきたとのことであります。
ここで西方寺は最初笹目に創建され、後に極楽寺に移建され、更に新羽に移転されたわけです。極楽寺は、古図に見るように多くの堂塔をもつ大伽藍でありましたが、特に施薬院、老病院、ライ病の病棟、馬の病棟などを持ち社会事業もする総合的なお寺でございました。ところが、新田義貞が海から鎌倉に討ち入りし戦場となり、北条氏は滅亡し、お寺も戦禍を被り衰微し、中古図に見られるように堂塔がなくなり、西方寺も新羽に移建され「西方寺屋敷今無シ」と記されている訳です。
鎌倉に幕府がありましたので、各地方から鎌倉に通じる道が出来て、これをかまくら街道と言っていますが、特に新羽は鶴見川を通じて鎌倉との交流が繁くあったものと思われます。極楽寺にあった西方寺が新羽に移される理由として、当時新羽の地は上杉家の領地で、現在西方寺跡に残る墓石群の中に関東管領上杉憲方の逆修塔があることからしても頷けられ、西方寺の霊簿には新羽の地を賞賛して「武蔵國光明耀々黄金峰彌陀観音浄土日域無双在霊地」と記され、阿弥陀如来の境内として優れていると記され、鶴見川は特に上げ潮の時は新羽の「大まがり」あたりまで逆流して船の上りを助け、船の通運に便利であり、鎌倉との文化の交流にも役だっていたことと、新羽の地は鶴見川の恩恵で米もよく取れ、西方寺を受け入れる程に豊かであったと思われます。要するに西方寺は、笹目、極楽寺、新羽、へと三転し、極楽寺より西方寺が移転されたのは、明応年間(1492)で今から五百年ほど前のことです。それ以前から、現在の境内の処は山の中腹であって裾の平地に保安寺があり、西南の現在観音屋敷と呼称されている所に観音院があり、北東の現在墓地山際に明月院桜池庵がありました。

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横浜 西方寺の基本情報

住所

神奈川県横浜市港北区新羽町2586

行き方

横浜市営地下鉄ブルーライン 新羽駅より徒歩5分
市営バス41系統 新羽停留場より徒歩3分

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名称

横浜 西方寺

読み方

よこはま さいほうじ

通称

花の寺 西方寺

参拝時間

〇参拝時間 6:00~17:00
 門は開いていますのでいつでもお参り出来ますが、夜は境内が暗いため、暗い時間帯はお参りをご遠慮ください。

〇御朱印受付時間 9:00~17:00
 住職不在、法要中は書置きのみとなります。ご了承ください。

参拝にかかる時間

10分

参拝料

なし

トイレあり 「寺務所前」
御朱印あり

9月のみ限定御朱印あり

限定御朱印あり
御朱印帳に直書きあり

基本、直書き致しますが法要中や住職が留守の場合は書き置きのみの対応となります。

御朱印の郵送対応なし
御朱印帳あり
電話番号045-531-2370
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttps://saihouji-yokohama.com/
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あり

絵馬

あり

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巡礼の詳細情報

【公式】横浜御朱印めぐり

旧小机領三十三所観音霊場

第15番

仏さま:十一面観世音菩薩

武相不動尊二十八所

第9番

詳細情報

ご本尊阿弥陀如来
山号

補陀洛山

院号

安養院

宗旨・宗派真言宗
本堂

茅葺き

文化財

本尊阿弥陀如来坐像(県重文)
注大般涅槃経第十九巻(国重文)
本堂(市指定文化財)
山門(市指定文化財)
鐘楼堂(市指定文化財)
本堂内杉戸絵(市指定文化財)
十一面観音立像(市指定文化財)

ご由緒

西方寺に伝わる江戸時代の霊簿(過去帳)の題辞に西方寺は源頼朝卿の頃、建久年間(1190)に鎌倉の笹目と言う所に「補陀洛山、安養院、西方寺」として創建され、開山は大納言通憲公の息、醍醐覚洞院座主、東大寺の別当であった勝賢僧正であると記しています。

頼朝公は勝賢僧正に帰依し、東大寺の復興にも努力し、勝賢僧正を度々鎌倉に招いている亊が色々な文献に出ています。金沢文庫の古文書にも笹目に西方寺があったことが明記されています。後に北条重時が忍性菩薩を招き鎌倉に極楽寺という広大なお寺を創設します。その全盛期を示す極楽寺古絵図の右下に「西方寺」の寺名があり、付近の笹目にあった西方寺を極楽寺の一山に移したとされています。また、同寺中古図には「西方寺屋敷今無シ」と記しています。このことは、西方寺が更に他に移されたこと物語っています。
笹目谷にあった西方寺の遺址は明瞭でありませんが、極楽寺の一院として存在した西方寺は、極楽寺坂切り通しの北側崖上にあり、その付近が古図に示す西方寺の所在と一致し、歴代住侶の墓石十基ほどを残し今も存在し、西方寺跡とされています。そして、新羽町西方寺檀徒の古老の間に「西方寺は極楽寺から船で鶴見川を遡り、新羽の勝地をトして建てられた」という言い伝えが残されており、また本尊の阿弥陀如来は「黒本尊」として親しまれてきたとのことであります。
ここで西方寺は最初笹目に創建され、後に極楽寺に移建され、更に新羽に移転されたわけです。極楽寺は、古図に見るように多くの堂塔をもつ大伽藍でありましたが、特に施薬院、老病院、ライ病の病棟、馬の病棟などを持ち社会事業もする総合的なお寺でございました。ところが、新田義貞が海から鎌倉に討ち入りし戦場となり、北条氏は滅亡し、お寺も戦禍を被り衰微し、中古図に見られるように堂塔がなくなり、西方寺も新羽に移建され「西方寺屋敷今無シ」と記されている訳です。
鎌倉に幕府がありましたので、各地方から鎌倉に通じる道が出来て、これをかまくら街道と言っていますが、特に新羽は鶴見川を通じて鎌倉との交流が繁くあったものと思われます。極楽寺にあった西方寺が新羽に移される理由として、当時新羽の地は上杉家の領地で、現在西方寺跡に残る墓石群の中に関東管領上杉憲方の逆修塔があることからしても頷けられ、西方寺の霊簿には新羽の地を賞賛して「武蔵國光明耀々黄金峰彌陀観音浄土日域無双在霊地」と記され、阿弥陀如来の境内として優れていると記され、鶴見川は特に上げ潮の時は新羽の「大まがり」あたりまで逆流して船の上りを助け、船の通運に便利であり、鎌倉との文化の交流にも役だっていたことと、新羽の地は鶴見川の恩恵で米もよく取れ、西方寺を受け入れる程に豊かであったと思われます。要するに西方寺は、笹目、極楽寺、新羽、へと三転し、極楽寺より西方寺が移転されたのは、明応年間(1492)で今から五百年ほど前のことです。それ以前から、現在の境内の処は山の中腹であって裾の平地に保安寺があり、西南の現在観音屋敷と呼称されている所に観音院があり、北東の現在墓地山際に明月院桜池庵がありました。

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