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ちゅうそんじ|天台宗関山

中尊寺のお参りの記録一覧
岩手県 平泉駅

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惣一郎
惣一郎
2022年05月25日(水)1269投稿

【NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』~源義経ゆかりの名所③】
5月22日(日)放送分で源義経の最期が描かれていたため、そのゆかりの名所をご紹介します。

【陸奥国 古刹巡り】
中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の東北大本山の寺院。山号は関山(かんざん)。本尊は釈迦如来。2011年にユネスコの世界遺産に登録されている。金色堂は国宝、金色堂覆堂、経蔵、白山神社能舞台等が国指定の重要文化財。

寺伝によると、平安時代初期850年に円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのが始まりとしている。ただし円仁開山は確実な史料等による裏付けがないため、実質的には平安時代後期の1105年、藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺(別名、最初院)」を建立したのが始まりとされる。現存する金色堂の上棟は、上棟銘から1124年と判明しており、清衡が自分自身の廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡、子の基衡、孫の秀衡の3代のミイラが安置されている。平泉では、奥州藤原氏4代100年に渡り王朝風の文化が栄え、毛通寺(秀衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立)などの寺院が建立されたが、現在でも残っているのは中尊寺金色堂、毛通寺庭園、紺神金銀寺経などわずかのみである。
1189年に奥州藤原氏は滅亡するが、当寺は「鳥羽法皇御願」の寺とされ、源頼朝の庇護を受けて存続した。のち建武新政期の1337年に大きな火災があり、金色堂以外はほぼ全焼した。江戸時代には仙台藩領内となり、伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修・建立が行われた。1654年には仙台・仙岳院が別当寺となり、1665年には江戸・寛永寺の末寺となった。ただ、1689年に『奥の細道』の旅で松尾芭蕉が訪れた時は荒廃ぶりを嘆いたことは有名。明治に入り1909年に本堂を再建、昭和戦後1950年に金色堂須弥壇の学術調査実施、1958年に天台宗東北大本山の称号を許され、天台宗総本山延暦寺より不滅の法灯を分火護持された。1968年に金色堂の解体修理完了。2011年に「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとしてユネスコの世界遺産に登録された。

当寺は、JR東北本線・平泉駅の北北東1.5kmの小高い丘の上にある。また境内南東端入口から境内北西端の白山神社はおよそ1kmあり、細長い境内となっていて、見どころは基本1本の参道の両側にある。主な見どころは、弁慶堂、地蔵堂、薬師堂、中尊寺本堂、峯薬師堂、大日堂、阿弥陀堂、弁才天堂、讃衡蔵、金色堂、経蔵、旧覆殿、白山神社(能舞台)などで、いずれの堂宇でも御朱印(1~2種類)を領布しており、集める場合はなかなか大変。有料拝観は国重文の仏像などを多く収蔵する讃衡蔵と金色堂でもちろん必見。足元は整備され歩きやすいが、多少の傾斜はあり、空気が美味しいので、ちょっとした運動のつもりで参拝するのが良さそう。

今回は、ユネスコの構成資産の一つ、金色堂が国宝、金色堂覆堂、経蔵、白山神社能舞台等が国重文であることから参拝することに。(実は学生時代の修学旅行以来、およそ40年ぶり2回目の参拝...(^_^;))参拝時は休日の午前中、天気は良くなかったが、コロナ明けということでそこそこ多くの観光客、参拝者が訪れていた。(コロナ発生以来、修学旅行生を久しぶりに見たのがビックリ。^^)

中尊寺のその他建物

境内東端入口全景。

中尊寺(岩手県)

境内入口の<寺号標>。参道は徐々に登って行く。

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のぶさん
のぶさん
2022年05月09日(月)1661投稿

前日参拝した時にどうしても行きたかった場所があったのですが見つけられず、中尊寺を後にしました。その夜生前妻と訪れた中尊寺の夢を見ました。昼間思い出せなかった場所も目覚めた時にハッキリ覚えていて、失念しかけてた妻との中尊寺での思い出や会話も昨日のことのように思い出しました。最近は夢でも逢える機会が減ってきていたので、素直に嬉しかったです。
予定を変更して翌朝中尊寺へ、昨日早い時間に閉まってしまった数箇所の御朱印もいただけました。参拝客が少ないと人件費の問題で
早々と閉めてしまうそうです😅弁慶堂の方が言ってました。
昨日見つけられなかった階段も無事に見つけられて、帰りに不思議な体験もしました。
     以下は中尊寺の案内です
月見坂
 国道4号線より中尊寺坂下へと足をすすめると、月見坂と呼ばれる坂の入り口へとたどり着きます。中尊寺は標高130メートルほどの東西に長い丘陵に位置しているため、この坂が古くから本堂・金色堂へと参拝する人々の表参道として利用されてきました。参道をのぼり始めると、両脇には江戸時代に伊達藩によって植樹された樹齢300年を数えようかという幾本もの老杉が木陰を作り参拝客を迎えます。老杉と山の空気が作り出す荘厳な雰囲気に浸りながら足をすすめると、右手には奥州藤原氏に縁の深い束稲山・北上川・衣川を眺望することができます。古の俳人芭蕉翁をはじめ多くの旅人がここで足を止め眼下に広がるその光景を眺め、在りし日の平泉の栄華に想いを馳せたに違いありません。

本堂
 中尊寺の中心となる堂塔のひとつで、年間を通じて多くの法要・儀式、そして様々な行事が行われています。現在の本堂は明治42年に再建されたもので、本尊の釈迦如来坐像は丈六仏という一丈六尺の大きな仏様です。初代清衡公が中尊寺造営の折「丈六皆金色の釈迦如来」を中尊寺のご本尊様に安置したことにならい、平成25年、現在の仏様を建立・安置いたしました。本尊の両脇には伝教大師最澄様より灯りつづける「不滅の法灯」が本山延暦寺より分燈・護持されております。

金色堂[国宝]
 金色堂は中尊寺創建当初の姿を今に伝える建造物で1124年(天治元年)、奥州藤原氏初代清衡公によって上棟されました。数ある中尊寺の堂塔の中でもとりわけ意匠が凝らされ、極楽浄土の有様を具体的に表現しようとした清衡公の切実な願いによって、往時の工芸技術が集約された御堂です。内外に金箔の押された「皆金色」と称される金色堂の内陣部分は、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってもたらされた夜光貝を用いた螺鈿細工。そして象牙や宝石によって飾られています。須弥壇の中心の阿弥陀如来は両脇に観音勢至菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天を従えておられ、他に例のない仏像構成となっております。この中尊寺を造営された初代清衡公をはじめとして、毛越寺を造営した二代基衡公、源義経を奥州に招きいれた三代秀衡公、そして四代泰衡公の亡骸は金色の棺に納められ、孔雀のあしらわれた須弥壇のなかに今も安置されております。仏教美術の円熟期とも称される平安時代末期、東北地方の二度にわたる大きな戦いで家族をなくし、後にその東北地方を治めた清衡公が、戦いで亡くなってしまった全ての人々、そして故なくして死んでしまったすべての生き物の御魂を極楽浄土に導き、この地方に平和をもたらすべく建立した中尊寺の堂塔が古の栄華を今に伝えます。

金銅華鬘
こんどうけまん
 金色堂にかけられていた銅製鍍金の華鬘。華鬘とは花輪のこと。インドでは生花を編んで輪にし、仏像の首や腕に掛けて供養した。のち、金属や皮、木などで花をかたどった華鬘がつくられ仏堂を飾るようになった。団扇形の内側には極楽に咲くといわれる宝相華(ほうそうげ)を透かし彫りにし、中央に総角結びのかざり紐、左右には極楽に飛ぶ人面鳥・迦陵頻伽(かりょうびんが)を彫り起こし、浄土世界を演出している。
中尊寺金色院 蔵

丈六仏
じょうろくぶつ
 讃衡蔵に入ると正面に3体の丈六仏が安置されています。向かって左が薬師如来(もとは閼伽堂の本尊、金色院蔵)、中央が阿弥陀如来(もとは本堂の本尊、中尊寺蔵)、右が薬師如来(もとは峯薬師堂の本尊、願成就院蔵)です。いずれも平安時代後期の作とみられ、おだやかな表情をしています。
 丈六とは、1尺(30.3cm)の16倍、1丈6尺の意味ですが、坐像なのでその半分強(266~273.3cm)の像高。3体ともに桂材で、重要文化財。

金光明最勝王経 金字宝塔曼荼羅
こんこうみょうさいしょうおうきょう きんじほうとうまんだら
 紺紙に金泥で金光明最勝王経を塔の形に細字で写経し、一巻で一塔、計十塔からなる。塔は各部が精密にあらわされ、初層では釈迦如来が説法をおこなっている。塔の前には浄土の園池が広がり、仏法を聴聞する者が集う。塔の周囲には大和絵(やまとえ)風の彩色画によって経の意味が色彩豊かに展開している。宝塔曼荼羅は、写経・造塔造仏・経典解説の三功徳を一度に成就する善行として平安から鎌倉時代にかけてしばしば描かれたが、本図はその中でも代表作である。
中尊寺大長寿院 蔵

紺紙金銀字交書一切経
こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう
 紺紙に銀泥で界線を引き、金字と銀字で1行ごとに経文を書いている。初代清衡公の発願になるもので、永久五年(1117)から8ヵ年を費やして完成した。表紙は宝相華唐草文様、見返し絵には釈迦説法図や経の内容を表す絵など多彩な図様が示されている。本来5300巻ほどあったものであるが、桃山時代に山外に移動し、国宝指定のものでは十五巻が中尊寺に伝わっている。
中尊寺大長寿院 蔵

金色堂で素敵な御朱印帳とも出会え、これから妻と巡った思い出の場所の御朱印だけをこの御朱印帳に記録していこうと思います🙏生きていたらまた12年後に中尊寺と毛越寺を訪れてみようと思います。

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のぶさん
のぶさん
2022年05月01日(日)1661投稿

中尊寺というのはこの山全体の総称であり、本寺である「中尊寺」と山内17ヶ院の支院(大寺の中にある小院)で構成される一山寺院です。本堂は一山の中心となる建物で、明治42年(1909)に再建されました。古くから伝わる法要儀式の多くはこの本堂で勤められます。
本尊は丈六の釈迦如来。像高約2.7m、台座・光背を含めた総高は5mに及ぶ尊像です。中尊寺の大壇主藤原清衡公が「丈六皆金色釈迦」像を鎮護国家大伽藍の本尊として安置したことにならい平成25年(2013)に造顕・開眼供養されました。
中尊寺は天台宗の天本山であり、本尊の両脇にある灯籠には、宗祖伝教大師最澄以来灯り続ける「不滅の法灯」が護持されています。中尊寺の寺格は別格大寺、天台宗東北大本山です。

中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって開かれました。その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔の造営が行われました。
 清衡公の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の決意でもありました。
 清衡公は長治2年(1105)より中尊寺の造立に着手します。まず東北地方の中心にあたる関山に一基の塔を建て、境内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立します。この伽藍(がらん)建立は『法華経』の中に説かれる有名な一場面を具体的に表現したものでした。
 娑婆世界で法華経を説く釈迦如来のもとに七宝で美しく荘厳された巨大な多宝塔が現れた。釈迦如来は神通力をもって十方世界で法華経を説く自らの分身の諸仏を一ヶ所に集めると塔の扉を開いた。すると塔中に多宝如来が現れ、釈迦の説く「あまねく平等に開かれる仏への道(三乗即一乗)」をたたえてその真実性を証明した。多宝は座を分かって釈迦に勧め、塔中に二仏が並座した。釈迦は自らの滅後、法華経を永くたもち守るべきことを聴衆に説くのであった。

 清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした。清衡公は『中尊寺建立供養願文』の中で、この寺は「諸仏摩頂の場」であると述べています。この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに頭を撫でていただくことができる。諸仏の功徳を直に受けることができる、という意味です。
 法華経の教えに浄土教や密教を加え大成された天台宗の教えに基づく伽藍が境内に建ち並び、その規模は鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡』によると、寺塔が四十、禅坊(僧の宿舎)が三百におよんだといいます。
 二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立しました。三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもありました。

 平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」でした。しかし、平氏政権を倒した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびて間もなく、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みます。その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年(1189)奥州藤原氏は滅亡したのです。
 鎌倉時代以降、大きな庇護者をうしなった中尊寺は次第に衰退し、建武4年(1337)の火災で惜しいことに多くの堂塔、宝物を焼失しました。しかし国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、建築、絵画、書跡、工芸、彫刻、考古、民俗の各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられ、東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称されています。
 平成23年(2011)に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登載されました。

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