いきすじんじゃ
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楽しみ方息栖神社のお参りの記録一覧(2ページ目)

東国三社 息栖神社
御朱印
二の鳥居
稲荷神社⛩️
手水舎
神門
緑の桜(御衣黄)
御神木🌲
鶴をいただきました
パワー受けとりました
1円玉 裏の木
拝殿
拝殿
パワースポット 説明
境内案内
一の鳥居
忍潮井 女瓶
忍潮井 男瓶
2025年に拠点施設完成

おきすの津と呼ばれ賑やかな港だった地に鎮座…
ホツマツタエにも鹿島、香取とのつながりを記す件りがあるそうで、いにしえより三社が特別な崇敬の対象として大切に守られ東国三社として今に伝わっている事がとても素敵です🙏
社号標
ニノ鳥居入ってすぐ、左手に稲荷神社
雰囲気がとても良い…
大国様と恵比寿様…じゃありません🐒
参道に並ぶ燈篭と奥に神門
境内社
茅の輪
扁額
女甕…🙏
御神木
おきすの津…社号の由来にもなるのかな?
御由緒
やっと忍潮井へ…
完成🙌
記念品の御守りを拝受

東国三社のひとつ、息栖神社さんにお参りさせていただきました。御衣黄や一円玉のデザインとなっている招霊の木など見所が満載でした。
念願の息栖神社さんに到着。
社務所の方も感じが良く、色々お話ししてくださいました。
直書きしていただけます。

茨城県神栖市息栖に鎮座する息栖神社(いきすじんじゃ)東国三社 の一つに数えられる息栖神社 に2024.1に参拝致しました、どの様な神社か引用を用いて調べて見ました、主祭神は久那戸神(岐神)社格等は国史見在社、旧県社、創建は(伝)第15代応神天皇年間、本殿の様式は入母屋造、例祭は4月13日、社伝では、第15代応神天皇の代に日川の地(にっかわ:現・神栖市日川)に創建されたという、その後大同2年(807年)4月13日、藤原内麻呂によって現在地に移転したと伝える、
当社の名称について『日本三代実録』では「於岐都説神」と記される。また元亨元年(1321年)の古文書で「おきすのやしろ」と記されるように、当社は「おきす」と呼ばれていた[4]。この「おきつせ・おきす = 沖洲」という古称から、香取海に浮かぶ沖洲に祀られた神であると考えられている、祭神が久那戸神(岐神)・天鳥船命であることからも水上交通の神であることが示唆され、鹿島・香取同様に東国開発の一拠点であったという見方もある、国史では、『日本三代実録』において仁和元年(885年)に「於岐都説神」が正六位上から従五位下に叙されたという記事が見える。この「於岐都説神」は当社を指すものとされるが、『延喜式神名帳』には記載がないため、いわゆる国史見在社にあたる。
当社は古くから香取神宮・鹿島神宮と並んで「東国三社」と称されたといわれる。ただし地理的な関係から鹿島神宮の影響が強く、当社は同宮の摂社とみなされていた。鎌倉時代の『鹿島社例伝記』や室町時代の『鹿島宮年中行事』から、鹿島神宮と当社の密接な関係性が指摘される、また当社は朝廷からの崇敬を受け、元寇の際にも国家安泰を祈願するために勅使が派遣されたという。
江戸時代には徳川家の崇敬が篤く、慶長9年(1604年)に鹿島神宮領から14石が給された、またこの時代には、「下三宮参り」と称して関東以北の人々が伊勢神宮参拝後に東国三社を巡拝する慣習があったという、参拝客が利用する息栖の河岸は利根川水運の拠点として江戸時代から大正時代まで栄えたという。
明治維新直後の明治元年(1868年)と明治4年(1871年)には当社に勅使が派遣された。明治10年(1877年)、独立した神社として近代社格制度において県社に列した、
2024.1参拝、茨城県神栖市、息栖神社(いきすじんじゃ)東国三社 の一つ、西陣織御朱印帳です。
2024.1参拝、茨城県神栖市、息栖神社(いきすじんじゃ)東国三社 の一つ、御朱印です。

道を挟んで大きな駐車場がありますが、鳥居近くにもあります。
東国三社のなかでは一番こじんまりされてますが、十分立派です。
(御朱印第606号)
直書き 待ち時間短いです
朱肉がしっかり付いていて乾くまで時間がかかるのでご注意
一の鳥居
御神木
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