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いきすじんじゃ

息栖神社の御由緒・歴史
茨城県 延方駅

ご祭神《主》久那戸神,《配》天乃鳥船命,住吉三神
創建時代270年頃(応神天皇元年)
ご由緒

◆御由緒

 久那戸大神は古く国史にも見え、鹿島、香取の神々と共に東国三社の一つと称され、上下の信仰の厚い神社であります。
 久那戸神「岐神」は、路の神であり除厄招福の神であり、井戸の神でもあります。天鳥船神は交通守護に、住吉三神は海上守護の神として御神徳が顕著で、神前に祈念する者にその限りない御恩頼を垂れさせられ御守護下さるものであります。

◆創祀沿革

 息栖神社の創祀は応神天皇の御代と伝えられるものの祭神の御神格からして神代時代に鹿島・香取、両神社の御祭神に従って東国に至り、鹿島・香取の両神宮はもともと大地に御鎮座するものの久那斗及び天鳥船神は海辺の港(日川)に姿を留めてやがて応神明に神社として祀られたと思われます。日川に御鎮座当時の御社名に付いては記録がありません。【出雲の大神様より鹿島香取の大神様の道案内を命ぜられた久那斗神は現在出雲大社の近くに出雲大社の摂社・出雲井神社(路神社)として祀られております】
 国史(三代実録)書かれてある「於岐都説神社」が現在の息栖神社です。常陸風土記によれば香島神郡が出来たのは大化五年(今からおよそ約千三百年前)であり、和尚年間の鹿島地方は鹿島丘陵の南は今の鹿嶋市国末で終わり、その後沖州であったものがようやく陸続きとなりいくつかの集落ができて一段と低く南へ伸びていったことがわかる。息栖神社はこのような沖州に鎮座され大同二年四月十三日(807)平城天皇の勅命を受けた藤原内麻呂によって現在地に遷されたと伝えられている。
 三代実録にも、光孝天皇の御代(仁和元年・1120)の記に『正六位於岐都説神従五位下を授く』とあり、於岐都説は於岐都州であり沖州であり、息栖になったものであります。(別説あり)。上下の崇高篤く、弘安の元冠には勅使を報じて国家安泰を祈願し、明治元年には勅使として、(神̪祇判官事正四位右近衛少将源朝臣植松雅言)が参向奉幣され、大正三年日独の国交断絶の際も宣戦報告の供進使が参向される等、又、下三宮(三社詣り)水郷の景を称しながら青葦・真菰の茂る息栖の河岸より一の鳥居をくぐって社前に額ずき、大神の御思頼をいただき、さらに香取・鹿島へ詣でる人達、今では車での三社詣での人達が絶えません。

歴史
歴史[編集] 創建[編集] 社伝では、第15代応神天皇の代に日川の地(にっかわ:現・神栖市日川)に創建されたという[1]。その後大同2年(807年)4月13日、藤原内麻呂によって現在地に移転したと伝える[1]。 当社の名称について『日本三代実録』では「於岐都説神」と記される。また元亨元年(1321年)の古文書で「おきすのやしろ」と記されるように、当社は「おきす」と呼ばれていた[2]。この「おきつせ・おきす = 沖洲」という古称から、香取海に浮かぶ沖洲に祀られた神であると考えられている[3]。祭神が久那戸神(岐神)・天鳥船命であることからも水上交通の神であることが示唆され[3]、鹿島・香...Wikipediaで続きを読む
引用元情報息栖神社」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%81%AF%E6%A0%96%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=97912707

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