ほうせんじ|曹洞宗|桐生山
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太田金山城の由良家(横瀬家)菩提寺
群馬県のおすすめ2選🎌
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前述の通り、この日は日限地蔵尊で寺用御朱印帳を使い切ってしまったのでもうお寺には寄らず神社だけ行くつもりだったんですが、三寳大荒神社や日枝神社に向かう途中、妙に印象に残るこちらのお寺のローソク形の看板を2回も目撃。
一度はスルーしたものの、日枝神社で宮司さんの本務社を間違えるというアクシデントで、このお寺より手前にある三寳大荒神社にもう一度戻るハメになり、やっぱこれ呼ばれてね?(-ω-;) 昨日行ったアート寺と同じ名前というのも奇縁を感じるし・・・ということで、急遽予定変更して参拝することにしましたw
全然知らなかったのですが、なんと太田金山城の由良成繁公の墓所があるお寺だった!Σ( ̄□ ̄;)
佐野生まれで佐野家贔屓の私としては太田由良家はどちらかっつーと敵認識なんですがw なぜか導いてもらえた様子。勝者の余裕か(^^;
地元の大名家ということもありますが、佐野家と由良家の関係を調べてると本当面白いんすよね。
まず佐野家は藤原秀郷の後裔で平安時代からの名族なのに対して、由良家は主家の岩松家を乗っ取ったバイタリティあふれる下剋上大名と出自からして対称的。
戦国時代は佐野家分家の桐生家が由良家に滅ぼされたり、佐野宗綱公が由良家分家の足利長尾家に討ち取られたり、どちらかというと由良家が優勢。
ところが由良家は北条方に付いちゃったばかりに、中央に出てちゃっかり豊臣秀吉配下になってた佐野房綱公のおかげで小田原征伐で立場逆転。
しかし江戸時代に入ると今度は徳川家康に因縁付けられて佐野家が没落、3500石の寄合旗本に。
一方、由良家は牛久に5400石の領地を与えられ最終的には高家旗本に上り詰める。
・・・とまぁシーソーゲームのように浮き沈みが激しいw
まぁどちらも上杉家、北条家、豊臣家、徳川家など戦国の大物達に翻弄され続けた、地方の小大名の悲哀を体現した一族ということで纏めたいと思います。
迫力の御朱印!
由良公のお導きに従い行って良かったですw
ご当地七福神巡りはキリがないのでやらない主義ですが、単発ではちゃっかり受印w
道路沿いで写真撮れなかったのでGoogleストリートビューからスクショ
まず三寳大荒神社より手前で1つ目のローソクを目撃
次に三寳大荒神社と日枝神社の間に2本目のローソクと寺の入口発見
一度はスルーしたものの、一旦戻るハメになったため都合3回この前を通ることになり、仏の顔も三度までということで、なら行ったれ!と左にハンドルを切るw
到着
この山門よりさらに登った所にお寺があるのですが、幸いここは車でお寺横まで行けます
山門付近のお地蔵さんと如意輪観音
駐車場近くにあったお宮と鳥居
まだ新しいお宮 祭神不明
この山上にお寺の鎮守社があるようなのですが、どのくらい上にあるのかわからなかったのと、獣道だったので登拝は辞退w
再び車に乗りお寺横の駐車場に移動
えっ!?ここに太田金山城の由良成繁公のお墓があんの!(*゜∀゜)=3
郷土史ファンとしては大興奮♪
駐車場から少し下って正面から入り直します
ちなみにこれ全て紅葉なので秋がベスト参拝シーズンかと
看板の後ろの山に立つ石塔や祠
鳥居と山挟んで裏側にあたる、こちらから鎮守三社に行けないかと道を探しましたがちょっとわかりませんでした(^^;
凄いでかい楼門が建ってたΣ(; ゚Д゚)
寄り道して良かったわぁ♪
参道左にあった窓の形が面白い石祠
鐘楼の前には白い花が咲き誇ってました
インスタ映えだねw
楼門前にある経蔵
ほう・・・原稿用紙にこんな由来があったとは(・・;)
楼門前には左右にお地蔵さんが二体
こちらは一願一言のお地蔵さん
反対側は疣痔像
肉体的・精神的なデキモノが何でも取れるらしい
楼門
四天王が祀られてます
こちらは持国天
反対側は増長天
じゃあ反対側は・・・あれ?
多聞天と広目天は??(゜Д゜)ポカーン
反対側はまさかの仁王の板絵でしたw
本堂もすごく大きい・・・こんな大伽藍だったとは(゜゜;)
鐘楼
登れるようでしたが・・・一応TPOわきまえて止めときました(^^;
曹洞宗別格地
なんと山号はそのものズバリ桐生山! 偶然入ったものの神社でいうとまさに桐生総鎮守のようなお寺だった・・・(゜゜;)
ちょっと距離がありましたが、仏足石に乗ってマニ車回しましたw
由良公のお墓は・・・むぅ、山の上か(;´∀`)
後で奥様に聞いて行ってみたところ、大した距離ではなかったですw
重文イパーイ
左側のいろんなお堂が合祀された常磐殿から拝んでみました
常磐殿
常磐殿脇から由良公のお墓に行けそうでしたが、奥様に聞いたところ駐車場からの方が近いということで引き返す
そういえば三寳大荒神社の願主も長沢姓の人だった・・・長沢八郎兵衛と長沢曼水翁って同一人物か?('_'?)
池には宝船に乗る弁天様・・・
・・・じゃなくて一葉観音様でした(^^;
ん? もしかしてこのデフォルメ像が御朱印対象になってる毘沙門天?( ̄▽ ̄;)
まぁご当地七福神の巡礼対象って意外とこういうのも多いのでw
本堂内
いろいろな如来の垂れ幕あり
右の方に何種類ものお守りが見えたのですが本堂が閉まってて入れず
ありゃ?留守かな( ´・ω・`)と思ったのですが、庫裏に回ったらとても親切な奥様と若奥様がいて無事に受印できました♪
若奥様に道順を聞いて、右手の駐車場から由良公の墓所へ
お寺の裏にあった茶室のような建物
由良家も足利長尾家もなかなかの文化人だったんすね。
まぁこの辺の武将は足利学校の影響で、坂東の猪武者にしては珍しくインテリも多いからなw
ここが由良成繁公の墓所のあるお山
この竹林が目印と奥様に伺いました
大野八右衛門? 誰??
調べてみたところ大久保長安の配下で桐生陣屋の創設者
桐生天満宮を今の場所に移したり、まさに桐生の街の原型を作った人
頂上が歴代住職及び由良家墓所でした
由良家墓所
まぁ私、太田由良家や足利長尾家と激しく敵対した佐野家の領民なんで、やはり由良成繁公や国繁公はどちらかというと敵認識なんすけどねw
信長の野望やっててもだいたい佐野家で始めて最初に太田金山城落としにいきますしwww
・・・で、小競り合いしてるウチにどちらも北条か上杉か武田相手の無理ゲーに突入 orz
桐生城(柄杓山城)はもともと佐野家の分家の桐生家の城だったのですが、戦に負けて由良家に取られますた(ノ∀`)
まぁ北斗の拳でも強敵と書いて「とも」と読みますし、こんな素敵なお寺に導いてくれた成繁公には懇ろに手を合わせてきましたw
由良家墓所から鳳仙寺を望む
いや~来て良かった(* ̄∇ ̄*)
寺社で買った御朱印帳は、デザイン的なものや大抵は寺社名が入ってることから、基本的に神社で買ったものは神社用、寺で買ったものは寺用で使いたいのですが、ストックが尽きたためやむなく白山神社御朱印帳を寺用に下ろす(-ω-)
役小角が入ってるので修験道≒仏教でギリギリいけるかとw
山裾にある静かなお寺でした。
正面には山門、右手から駐車場にいけます。
御朱印には桐生発祥の地の印がありますが、詳細はわかりません。
木造の山門、本堂などから、歴史あるお寺さんだとわかりますが、桐生発祥の地と言われる程とはしりませんでした。
桐生七福神巡り、毘沙門天
本堂内部
本堂に参禅道場の看板もあります。
大勢の人が禅を組むには十分な広さです。
本堂
保護樹
本堂前には保護樹のカヤの木が存在感たっぷりで立っています。
威徳の瀧
舟に乗った観音様
鐘楼
山門
木造のなかなか味のある門でした。
木が放射状に見えて、見上げるとクラクラする。
山門の内側には風神雷神の絵が描かれています。
外側の持国天
増長天
山門前
一願一言のお地蔵様
こちらは疣地蔵様
本堂後にも大きな駐車場があり、そちらには聴松庵があります。
永平寺から頂いた名前だそうです。
お茶室のようです。
お茶会が開かれるのでしょうか?
歴史
由良成繁は、天正元年(1573年)に、柄杓山城を攻略し桐生氏を滅ぼした。天正2年(1574年)に、桐生に入部し鳳仙寺を建立した。天正二年(1574年)桐生城主由良成繁公は、名田百石余と共に、勅使門の備わった伽藍を創建し、自らの菩提所として「桐生山鳳仙寺」が開山した。
朝廷より賜わった勅賜号・禅師号を冠する高僧であり、二世黙之宗草禅師は、後年「室中の法宝」と驚嘆される「夢中問答」や能筆な墨蹟で知られる学徳兼備の傑僧であり、三世大円門鶴大和尚は、学僧として高名で永平寺二十世の住持に晋山した。この頃の鳳仙寺では、常に四十人余りの雲水が参禅修学し教導を受ける一大道場だった。十六世乙堂喚丑禅師は、鳳仙寺版正法眼蔵を始め、宗門史上貴重な教義を数多く残し宗学の師として仰がれた。二十五世穆山瑾英禅師は、大本山総持寺独往三世に晋性されるなど、多くの名僧を輩出している。
(Wikipediaより)
名称 | 鳳仙寺 |
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読み方 | ほうせんじ |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 0277-32-1177 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://www.hosenji.or.jp/ |
絵馬 | あり |
詳細情報
ご本尊 | 《本尊》釈迦牟尼仏 《霊場本尊》毘沙門天 《堂宇》常磐殿(開山堂・薬師堂・秋葉堂) 《諸尊》持国天・増長天・一葉観音・一言一願地蔵・いぼ地蔵 《鎮守社》天神山護法大善神・白山妙理大権現・土地護伽藍神 |
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山号 | 桐生山 |
宗旨・宗派 | 曹洞宗 |
創建時代 | 天正2年(1574年) |
開山・開基 | 由良成繁 |
ご由緒 | 由良成繁は、天正元年(1573年)に、柄杓山城を攻略し桐生氏を滅ぼした。天正2年(1574年)に、桐生に入部し鳳仙寺を建立した。天正二年(1574年)桐生城主由良成繁公は、名田百石余と共に、勅使門の備わった伽藍を創建し、自らの菩提所として「桐生山鳳仙寺」が開山した。 朝廷より賜わった勅賜号・禅師号を冠する高僧であり、二世黙之宗草禅師は、後年「室中の法宝」と驚嘆される「夢中問答」や能筆な墨蹟で知られる学徳兼備の傑僧であり、三世大円門鶴大和尚は、学僧として高名で永平寺二十世の住持に晋山した。この頃の鳳仙寺では、常に四十人余りの雲水が参禅修学し教導を受ける一大道場だった。十六世乙堂喚丑禅師は、鳳仙寺版正法眼蔵を始め、宗門史上貴重な教義を数多く残し宗学の師として仰がれた。二十五世穆山瑾英禅師は、大本山総持寺独往三世に晋性されるなど、多くの名僧を輩出している。
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体験 | 仏像御朱印武将・サムライ花の名所有名人のお墓札所・七福神巡り |
Wikipediaからの引用
概要 | 鳳仙寺(ほうせんじ) は、群馬県桐生市梅田町にある曹洞宗の寺院である。山号は桐生山。本尊は釈迦如来。 由良氏の菩提寺である。開基の由良成繁の墓は市指定史跡に、本堂、山門、輪蔵、梵鐘は、市指定重要文化財となっている。 |
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歴史 | 歴史[編集] 由良成繁は、天正元年(1573年)に、柄杓山城を攻略し桐生氏を滅ぼした。天正2年(1574年)に、桐生に入部し鳳仙寺を建立した。天正二年(1574年)桐生城主由良成繁公は、名田百石余と共に、勅使門の備わった伽藍を創建し、自らの菩提所として「桐生山鳳仙寺」が開山した。 朝廷より賜わった勅賜号・禅師号を冠する高僧であり、二世黙之宗草禅師は、後年「室中の法宝」と驚嘆される「夢中問答」や能筆な墨蹟で知られる学徳兼備の傑僧であり、三世大円門鶴大和尚は、学僧として高名で永平寺二十世の住持に晋山した。この頃の鳳仙寺では、常に四十人余りの雲水が参禅修学し教導を受ける一大道場だった。十六世乙...Wikipediaで続きを読む |
引用元情報 | 「鳳仙寺」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E9%B3%B3%E4%BB%99%E5%AF%BA&oldid=91647091 |
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