てぢからおじんじゃ
公式岐阜県 新加納駅
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神社の由緒
手力雄神社には、多くの文化財や史跡などが残されております。
先人たちから大切に残されたものから、手力雄神社とこの地域に生きた人々の歴史を紐解くことができます。
創始は不詳です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 当社に、最初にお祀りされたのは真幣明神という神さまです。 古代の時代と推測されます。 この神さまは、現在本殿裏にある、「磐座いわくら」と伝わる古代の祭祀跡に祀られた神さまです。 その理由は、先人たちは生命の根源が自然の恵みをもたらす山々の奥にあると考えました。 大磐を通して、北に広がる山々を拝しました。 磐に祈りをささげたところから神名があてられ祀られるようになりました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ その後、祈りをささげる神聖な場所に、古墳が築かれます。 山日向古墳群と登録されております。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ その後、平安時代以降に、神祇奉斎の流れから、佐良木郷八ヶ村の山中に祀られていた手力雄神を、主祭神とし脇神に8座佐良木郷の産土神として現在の形で祀られるようになります。
文明年間には(1469~1487)、薄田源左衛門藤原祐貞が厚く崇敬しました。
永禄年間には(1558~1570)、織田信長公が当神社に戦勝祈願をします。 その成就の後、各務野原近里1,300町歩(2万ヘクタール 現在の各務原市那加とつく地域)を社領とし、宝物等を寄進しました。
その後も旗本坪内・徳山等諸氏の崇敬も深く、数百年来八ヶ村の氏子等により神事・祭礼・造営修復等変わりなく奉仕され今日に至ります。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 現在は各務原市の那加地区総氏神として崇敬されています。 織田信長公が戦勝祈願をしたことから、勝運・開運厄除けの神として特に有名です。 また、本殿にかかる龍は見事な彫刻で多くの参詣をされています。
歴史[編集] 6世紀末期ごろ中里(現那加地区)を支配していた豪族により、山の中腹に磐座を祀ったのが始まり。 元々は真幣明神(美濃国神名帳)という名の神社であったという。壬申の乱で功績を挙げた村国氏・各務氏、また承久の乱以降守護家として土岐氏、また土岐氏の家来にあった薄田(すすきだ)氏、佐良木(更木)氏と時代の中で諸豪族に崇敬と手厚い保護を受ける。 永禄10年(1567年)、織田信長は当社で稲葉山城攻めの戦勝祈願を行い、戦勝後は広大な社領を寄進したという。寺社勢力にも容赦ない攻撃で臨んだ信長にしては珍しいが、これは信長が各務原へ攻め入り、周囲の寺を焼き払って当社に迫ったところ、霧が立ち込め...Wikipediaで続きを読む
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