てぢからおじんじゃ
あなたのサポートが必要です〈特典あり〉
手力雄神社の境内・文化財
本殿 | 一間流造 | |
---|---|---|
文化財 | 狛犬(県重文)天正9年5月(1581)(非公開)
|
境内詳細情報
境内社
史跡・文化財
織田信長公ゆかりの伝説
織田信長は、天下統一を掲げ手始めに稲葉山城(岐阜城)を目標に美濃攻めを行った。
信長は敵ならば神社仏閣であろうと容赦なく焼き打ちにしており、各務原に攻め入った際にも那加にある少林寺・法円寺が焼き打ちにあった。当社にも攻め入り朝靄の中、兵たちが神社に火矢をかけようとした時、突然一陣の風が吹き荒れ霧が立ちこめた。その時、信長は目がくらみ息苦しくなり手足の自由を失い落馬してしまった。大神の力と思い信長は参拝し自分の罪をわびた。
すると、霧はたちまちに晴れ信長は手足の自由も戻ったという。
これ以後、ご神徳を崇め信長は厚く手力雄神社を敬うようになった。信長は当社を崇敬し各務野原近里(現在の自衛隊岐阜基地西半分・市役所敷地・尾崎団地・那加地区)1300町歩の地を除地に付している。その後も永く社領として続き1875(明治8)年地租改正の際、県に接収されそうになったが、西市場赤座源右衛門が古文書等をもち民有地であるのを立証して認められている。
信長公関連 (信長公禁制)(信長弓掛桜・的場桜)(区域1300町歩の社領)
龍の伝説
昔話「手力雄神社の龍」
むかし、手力雄神社に毎日、朝早く暗いうちにお参りするおじいさんがあった。
その日も朝早く、
「このごろ、畑を荒らされて困っております。どうぞ畑を守って下さいまし。」
と、お参りをして帰ろうとすると、古井戸の方で、バッチャン、バチャ、ピチャと音がする。暗くてよく見えないが、何やら大きなものが動いている。そうっとすかして見ると、何と驚いたことに龍だ。龍が井戸から頭を出して体をうねらせている。びっくりしたおじいさんは、腰を抜かさんばかりに家へ逃げ帰った。怖いもの見たさはだれにでもあるもの。おてんと様がのぼってから、井戸の周りがぬれていて、龍のらしい足跡がついていた。
そこで、おじいさんが近所の人に話したら、もう村中が大騒ぎになった。大勢の人が古井戸の周りに集まってきた。
「この足跡なら、こないだわしんとこの畑にもついちょったぞ。ひっどう畑をあらしゃがって。」
「龍なんぞ、どこから来たんやろ。」
と、みんな口々に言い合っていた。その中の一人が、お拝殿の上の木彫りの龍を見上げ、
「見りゃあ、見る程、本当によう出来た
龍や。 生きとるみたいやなあ。」
と言った。そして、
「おい。この龍、ちょっと変やないか。」
と、大声を張り上げたので、みんなが
寄って来た。
「あれ。ちょっと体がしめっとらへん
かな。」
「そういや、そうや。そうしると、
この龍の仕業やったんやろうか。」
「まさか。」
村人たちはキツネにつままれた思いで二頭の龍を眺めていた。突然おじいさんが言った。
「あっ、左側の龍が持っとった玉がないぞ。」
「玉なら、こっちの龍が持っとるわ。」
こんなことがあってからも畑はたびたび荒らされたそうだ。丸池や境川へ行く畑はもうぐちゃぐちゃ。そのたんびに、おじいさんは龍が持っている玉を見に行った。
(今日は左の龍が持っとる。やっぱ、この彫り物の龍やったに違いない。)
と、おじいさんは思い込むようになった。
村人たちもおじいさんの言うことがもっとものように思えて、寄り合う度に、
「なんぞ、ええ考えはないもんかなあ。龍は神様のお使いかもしれんし・・・・・。」
村人と神主さまは、よくよく相談の上、お拝殿の龍が二度と出歩けんようにと、目玉に大きな釘を打つことにした。祟るとおそがい(岐阜弁で 怖い、恐ろしいの意)でようくおはらいをしてもらったそうや。
それからは、龍を見た人も足跡を見付けた人もなかったそうや。
(那加のむかし話 手力雄神社の龍 より抜粋)
手力雄神社の境内・文化財の写真一覧
鳥居
狛犬
手水
本殿
末社
像
芸術
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。
ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ