たきさんじ|天台宗|吉祥陀羅尼山
瀧山寺のお参りの記録一覧
愛知県の寺院巡り
2寺目は、1寺目の在る豊川市の西隣の岡崎市に在る吉祥陀羅尼山 薬樹王院 瀧山寺。
天台宗で、本尊は秘仏・薬師如来。
こちらは多数の仏教を所蔵されており、殆どが文化財に指定されております。中でも運慶・湛慶作の聖観音、梵天、帝釈天は超有名。
久し振りに訪れてみました。(前回分はホトカミさんに参加前でしたので未投稿。)
ーーー後日アップします。
御朱印
運慶・湛慶作の聖観音、梵天、帝釈天
(ネットから転載)
以前の展示の写真。現在は下半身部分にぐるっと透明アクリル?張りとなっています。
日本全国の東照宮を廻る!の目標を持った私は、三大東照宮と言われる岡崎市の瀧山東照宮を外すことは出来ないのであった。
ここ、瀧山寺は、日光東照宮と同じように天台宗寺院で東照宮とセットのような形になっている。
バス停の真ん前が東照宮と瀧山寺入口の石段になる。
やはり、遠くからパソコンで調べているだけの人間からすると、近いバス停!となるわけだ。
岡崎市の案内でも、徒歩1分のバス停を教えてくれたし、と。
多くの戦乱、明治時代の新仏分離、廃仏毀釈などを経て、今は小さなお堂だけになっている。
日光の輪王寺のようなイメージで来てしまったので、ちょと違ったようだ。
帰り、駅までのバスの時間がまだだいぶあるな。で、滝仁王門前という少しでも駅に近いバス停まで歩くか、と実行。
仁王門前バス停にあった山門がすばらしかったのだ。
山寺三門は鎌倉時代の仁王門で、3間1戸楼門、屋根は入母屋造こけら葺です。斗組(とぐみ)は下層が三手先、上層が尾垂木付三手先の典型的な中世楼門で、ほとんど純和様で造られていますが、わずかに上層部の頭貫木鼻(かしらぬききばな)に天竺様の影響を認めることができます。現在の仁王門は文永4年(1267)に建てられた、市内最古の建造物です。楼上正面の「瀧山寺」とある扁額は、文永12年2月19日に正三位藤原経朝が書いたものです。金剛柵内に安置する仁王像2躯は、15世紀前半頃の作です。三門の工事にあたり、上層東南の尾垂木の角度を一本切り違えたのを恥じた大工飛騨権守藤原光延が、楼上から飛び降りて自殺したと言い伝えられ、その塚と称されるものが門の正面左手にあります。(岡崎市のページより)
Wikipediaなんかでは、瀧山寺へのアクセスは、滝山寺下バス停となっていた。東岡崎のバスセンターやバスの運転手さんに、太川陽介さん風に
「すみません。瀧山東照宮に行くにはどう行けばいいですか?」
と聞くと、親切に「滝山寺下」のバス停を教えてくれるのだ。
今回、バスの時間が1時間半ほど待たねばということでこの仁王門の素晴らしさを知ったのだ。もしも、バスの時間が拮抗していたら、或いは本数がもう少し多かったら、そのまま駅に行ってしまったかもしれない。
ああ、事前検索ミス。タビリスに負けた・・・
現場に来ないとわからない。
お寺は参道からや!!と、改めて知った今回の旅であった。
686年役小角が青木川の滝壺から薬師如来を拾い上げ、吉祥寺という御堂を建てたのが始まりと伝わる。
その後荒廃した吉祥寺跡に保安年間(1120年~1123年)比叡山で修行した仏泉上人永救(ぶっせんしょうにんえいぐ)が物部氏の保護を受け本堂を造営し再興。瀧山寺と改めた。
室町時代以降衰退したが、江戸時代に天海僧正の弟子・亮盛上人が徳川家光の保護を受け再び隆盛する。
1646年には東照宮が建立された。
室町前期(1333年~1392年)建築の本堂と三門、1646年建築の東照宮 (本殿、拝殿、幣殿、中門、鳥居、水屋)は重文指定されている。
明治の神仏分離で現在東照宮は瀧山寺から独立している。
本堂
本堂
本堂
観音堂
地蔵堂
梵鐘(徳川綱吉寄進)
稲荷社
水体薬師如来
水体薬師如来
三門
三門
滝山寺さんを暫くぶりに参拝🙏
私の大好きな聖観音菩薩様がみえます💕凄く近くで見られてなんだか目が合っている様な気持ちになります💕菩薩様が安置されている宝物殿が賑わっていたのでお会いして来ませんでした😭
この菩薩様の中に源頼朝公の御髪と御歯が入っていると時々テレビで取り上げられています📺
創建は600年代(奈良時代)
山号 吉祥院陀羅尼山
院号 薬樹王院
運慶、湛慶作の梵天、帝釈天、聖観音が宝物殿で見られます😃
天下泰平と五穀豊穣を願っての三河の奇祭と言われる鬼祭が毎年旧暦正月7日に近い土曜日に行われています👺
鬼の面は祖父、祖母、孫の3つ。
当初は父、母の面もあった。この面をつける者は7日間斎戒沐浴をしなければいけないのですがある時旅の僧が斎戒沐浴をせずこの面をつけ祭りに出た所、面がはずれず息絶え本堂横に供養したので残っていないとされています。今年初めてお祭りに行く予定でしたが相方さんの都合が悪く‥残念💦
本堂から
家康公が創建した日吉神社。本堂の裏にあります。前回来た時は修復中でした。
三河~駿河 東照宮めぐり+ 天台宗『瀧山寺』吉祥陀羅尼山薬樹王院~東海四十九薬師霊場番外札所~本尊は薬師如来。源頼朝や徳川家との縁が深い歴史ある古刹をお参りして御朱印をいただきました。前ページの御朱印が札幌だったので「やー札幌なんて初めて見たわー」って、住職様がすごく驚いてくれました ٩(ˊᗜˋ*)و
瀧山寺縁起によれば、朱鳥元年(686年)奈良時代の伝説的な山岳修行者、小角(おづぬ)が青木川の滝壺から薬師如来を拾い上げ、安置するために「吉祥寺」という一堂を建てたのに始まると言われる。小角は自ら薬師如来像を彫刻し、その仏身に金色の薬師如来を納め御堂に安置しました。
400年の月日が流れた保安年間(1120〜24年)、比叡山で修行した仏泉上人永救(ぶっせんしょうにんえいぐ)が、仏法興隆のためこの地に来住。荒廃してしまっていた吉祥寺跡に再び霊場を建て、物部氏の外護により本堂を造営しました。上人を慕って弟子入りするものは跡を絶たず、境内には360もの寺院が建立され、そのころに官府の命によって寺名を「瀧山寺」と改めました。その後、物部氏に替わり熱田大宮司家が大壇那となり、熱田大宮司季範夫妻の孫、寛伝上人に話は移っていきます。
源頼朝の従兄弟にあたる寛伝上人は瀧山寺僧侶となり、縁故から頼朝公の厚い信仰を得ました。頼朝公没後には、菩提のため正治三年(1201年)頼朝公の3回忌にあたるこの年に惣持禅院を創建。本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩・梵天・帝釈天の三尊像を仏師、運慶・湛慶父子が造立しました。その後は承久の乱後に三河守護足利氏が壇越となり最盛期を迎えます。貞応ニ年(1223年)には足利義氏が本堂立替を援助し、泰氏・頼氏・家時・貞氏の歴代も所領や仏具を寄進、瀧山寺は足利氏の準菩提寺となっていきました。室町時代には三代将軍義満の援助により本堂が造営されたが、戦乱によって次第に寺盛は衰退していきました。
それから400年後の江戸時代、瀧山寺は再び中興を見せます。比叡山天海僧正の命により住職となって入寺した亮盛上人は三代将軍家光公に見いだされ、寛永十八年(1641年)家光公より朱印地を拝領する。正保三年(1646年)には、家康公誕生の地の守護である瀧山寺隣地に東照宮が設立されました。この江戸時代には「青龍院・玉泉院・常心院・浄蓮院・観量院・密厳院」の六坊があったが、明治初期に廃され、現在浄蓮院のみが瀧山寺本坊として残っています。
本堂(国重文) 内陣には〜
「薬師如来坐像」「日光・月光菩薩立像」
「おんころころせんだり まとうぎそわか」
御本尊の薬師如来様御真言を唱えお参りせよ~と書いていました
↑この方「賓頭盧尊者様」おびんずる様☆
釈迦の弟子の一人で、神通力を持っていたらしい
体の悪いところと仏様の身体の部位をさするとご利益あるそう
長閑な山間にあります🌿
宝物殿にて御朱印を書いていただきました♪
三尊像「聖観音」「梵天」「帝尺天」など
拝観できるそうですが時間の都合で断念、、
こちらも紫陽花が綺麗でした
岡崎参り3ヶ所目は瀧山寺です。瀧山東照宮も近くにあるようで、一緒にお参りできそうです。
駐車場がよくわからず、宝物殿の駐車場に停めました。写真は瀧山寺の山門です。
大くろがねもちの木です。苔がビッシリ😱
残念ながら宝物殿はお休みでした。🥲
少し歩くと入口がありました。やっぱり東照宮と同じ所にありました。
東照宮の方がメインなのかな? とりあえず階段を登ります。
しばらく登ると見えて来ました。
瀧山寺本堂です。荘厳な感じが伝わってきます。創建は何と奈良時代だそうです。本堂自体は何度か建て直されて、現在のは14世紀後半ぐらいだそうです。それでも充分古いです。
歴史を感じさせる本堂です。
八丁味噌の岡崎らしく味噌樽が奉納(?)されています。
由来書きです。鎌倉幕府、歴代の足利氏、そして徳川家の恩恵を受けています。本堂は国指定重要文化財です。運慶、湛慶作の仏像もありますが見られませんでした🥲
本堂の入口です。気持ちが落ち着きます。
こちらでお参りです。残念ながら御朱印は宝物殿がお休みなので頂けませんでした🥲
鐘楼です。何と綱吉公の寄進だそうです。
帰り際の車道の横に仁王門がありました。
由来書きと仁王様。
反対側から見た仁王門。1200年代建立には見えないぐらい美しいです。見落とさなくてよかった😄
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