ちょうえいじ|曹洞宗|金剛山
長栄寺のお参りの記録一覧
東本願寺別院北側に位置する曹洞宗の寺院です。
ご本尊は十一面観世音菩薩。
御詠歌は、
えにしより めぐみはふかき ちょうえいじ たのむほとけに わがてとられて
参道から本堂へは見落としがちな所にあります。
山門をくぐり、奥に本堂。右側には庫裡。
お寺は元々、稲沢の矢合観音近くに創建されていました。
承久の乱等で兵火に遭い草堂を残すのみとなる。
時代は進み、織田信秀の妹・榮公尼が当所清洲に移し
その後大須近辺に代わり、再度移築されて現在地に至るそう。
お参りした当日は年末真っ只中、お忙しい所でお邪魔してしまいました。
ちょっと忙しいんだけどね
と一言。
うっかり出た言葉とは思うのですが、一度出された言葉は引っ込めないのよね。
初穂料、少し余分に納めパンフ等を頂き退出させて頂きましたが、
なんとも言えないモヤモヤした気持ち。
入りやすい寺院ってどんなかな?と思いました。
まだ、自押しでないだけマシなのかな?
年末年始に参拝される方っていないのかな?と思いました。
巡礼旅がメインだった昔は、どの様な態度を取られていたのかな?
考えるのはやめましょう、とりあえずお相手して頂いた上に
御朱印も直書きして頂き大変忙しい中の参拝でお世話になりました。
直書き御朱印です
尾張三十三観音霊場への朱印です。
開梆(かいぱん)といい、昼も夜も目を閉じない
魚の様に修行に励めということ。また、「魚の梆」とも呼ぶ。
大きな魚の形の法具で日常行事や儀式の時刻を
打ってお知らせする、木魚の原形とも言われる。
雲板(うんぱん)は、《朝・昼・夜》の食事の時を告げる青銅製の雲形の板。
尾張三十三観音霊場ということを気にしていなかったので、参拝してから
持ってきていないことに気づきました。
多分、初めての訪れだと思う。
蘿塚の裏面
也有門下文樵が明和六年に
創する所の蘿塚を修し土を◯
くし柵を設け更に青蘿を◯ゑ
翁の徳風を永世に傳ふ
昭和十一年六月十六日
文樵裔
石原金一
山田秋衞
石田元季
恒川鉉一
車で来ると参道行けるの?と思いますが、行けます。大丈夫です。
山門と標柱です。
「金毘羅大権現長栄寺」
大銀杏(名古屋市保存樹・樹齢400年)
石仏
庫裡前に参拝専用の駐車場
蘿塚=らづか
蘿塚(らづか)です。
蘿塚は俳人・横井也有の門人である石原文樵(いしはらぶんしょう)が、
その恩義に報いるために建立した塚であり、也有の髪と爪を
乞い求めて埋め、土を高く盛り青蘿(あおかずら)を植えて
也有の徳風を後世に残した。
碑石に《也有雅翁》、その下に〈肥遁励操〉と〈滑稽蜚声〉と刻まれています。
蘿塚の建立は1769年(明和6年)。
1781年(安永10年)には、内藤東甫が也有をはじめとする
九老を招き、詩歌連俳の会の「尚歯会」を長栄寺で開いたそう。
金剛寺の扁額
釈迦牟尼仏木造坐像がご本尊さんです。
尾張三十三観音霊場の尾張南部、中部の寺院巡りの9寺目は、名古屋市中区に在る第2番 金剛山 長栄寺です。東別院(真宗大谷派名古屋別院)の直ぐ真北に在ります。曹洞宗で、本尊は釈迦牟尼。(だと思います。)
741年に中島郡(現在の稲沢市)に開創、1590年後半に再建、江戸時代に現在地に移転したとの事です。
お堂としては本堂のみで扉が閉まっており、賽銭箱も見当たらず、仕方無いため先に庫裡にて納経帳に朱印を押印して戴きました。
その際に本堂の事をお聞きしたら「小窓があるのでそこから拝んで下さい。2重になっています。」との事。本堂に戻って小窓とその奥の窓を開けましたが、遠くてよくわかりませんでした。(恐らく中尊が釈迦牟尼仏で、脇侍に十一面観音が祀られていると思うのですが・・・)
尚、西側の道路から入れる広い駐車場があります。
御朱印
山門
本堂
本堂の小窓(2重です)
庫裡
魚板
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