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じょうせんじ|真宗高田派木林山

浄泉寺
愛知県 鳴海駅

御朱印について
御朱印
なし
パーキング
駐車場
-

浄泉寺について

名鉄本線鳴海駅から徒歩5分の場所に浄泉寺があります。東海道の宿場町鳴海に1432年(永亨4年)に開山し、590余年の歴史のある古刹です。真宗高田派 浄泉寺はなだらかな高台にあり、非常に風光明媚なお寺です。

 毎年4月には永代経、10月には報恩講と多くの檀家さんでにぎわいます。春秋のお彼岸と8月のお盆にも多くのお墓参りの方々が来られます。 駅から近く駐車場も完備しておりアクセスが非常に便利です。

 当寺では日本武道(剣道・居合・空手・柔道)の伝統を継承する活動も行なっています。境内にある相愛会館では剣道・居合の道場を開設しており、空手(極真空手長谷川道場)の昇段審査や合宿なども行っております。

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歴史

淨泉寺縁起(淨泉寺が成立した物語) 元禄十五年(1702年)三月上旬 蓮阿記ス

その昔、欽明天皇の時代(西暦五四〇年~五七一年)のことでありますが、蘇我稲目が向原寺を創建(前身創建は仏教公伝と同じ年 西暦五五二年)して以来、今日にまでに千年余りの歳月が経ちましたところ、仏教の寺院(伽藍)は年を重ねて倍増していき、仏様の救いの光は我が日本の隅々にまで輝き届く様になりました。その利益を考えてみますに、このことはただ世間の人々に幸せな生活をもたらし、人や天(六道輪廻にいう人間界と天界)の者たちを慈しみ救っただけではありません。帝(天皇)による治世が差し障りなく執り行われることを支え、武家がきちんと社会を治める基礎となった理由でもあるのです。尾張の国、東海道の鳴海の宿場にある木林山淨泉寺は、専修念佛の仏道興隆のための道場になって、二百年以上の歴史を有する聖なる場所です。

 文明年間(西暦一四六九年~一四八七年)に、左近三郎入道淨空という人物がいて、初めて今の淨泉寺を開きました。その子供・法名釋蓮乗法師がこれに続いて住職になりました。文明十五年(一四八三年)に、真宗高田派の寺務を総括する地位(法主)であった真慧上人から、直筆の証状(寺号)を頂きまして、仏法に対する憧憬の念は益々高まりました。このことによって、淨泉寺では、淨空を開基(寺院の基礎を築いた人)とし、蓮乗を始祖(寺院の初代住持職)と崇め奉ることになったのです。当初この寺は、現在の寺のある場所から測りますと、三町(約三三〇メートル)ほど北にある森山という場所に存在していました。

 昔の淨泉寺の境内地は、非常に高いところにあってしかも狭く、往来に難渋していましたので、後に現在の場所に定めて、ついに寺を移すことになりました。現在、寺の山号を木林山と呼んでいるのは、淨泉寺が昔あった場所の地名から取ったものではないでしょうか。ひと昔前の時代には、淨泉寺は仏法興隆の中心として栄え、末寺(淨泉寺所属の下寺)十一箇寺、僧坊五箇所を抱えていましたが、その時々の統治者のために、これら寺坊の財産は供出させられ、あるいは戦争による災難に遭って、寺坊の御堂などの建物が壊滅したりしたこともあり、現在では末寺十二箇寺を数えるだけになっています。そもそも左近三郎入道が淨泉寺を開いた由来に遡ってみますと、百代目の天皇であります称光院(第一〇一代称光天皇 在位一四一二年~一四二八年)の治世のとき、鳴海の庄にある森山という場所に、左近三郎という人がいました。世間では弓矢をとっては武勇の名を馳せておりましたが、心の内には深く三宝(仏様、悟りの真理、僧団)に帰依していて、特に淨土へ往生する行をもっぱら修めていました。その当時、室町幕府将軍家は足利義教公であり、後に普広院と申し奉るようになったお方です。武家の権威をもって秋津洲(日本列島)を治めておりましたが、時に風雅の才能はその時代右に出る者はおりませんでした。永享四年(一四三二年)の六月駿河の国(静岡)に立ち寄られ、富士山を遊覧したいと思召して、家来に命令を出して東海道まで足を延ばされることになりました。六月十九日、室町幕府将軍(征夷大将軍)として尾張の国まで臨まれました。行く先々で、領地を整備し、道を整備しながらやってまいりました。この鳴海の駅も、西の端は湊津橋を造り、東端は田楽峠のところまで整備されて道が作られました。これによって、近くの者たちは皆一同に街道沿いに集まりはじめました。沓掛(愛知県豊明市沓掛)に菊屋三郎左右門という者がおりました。この者は左近三郎に対してこのように言いました。貴殿は、いち早く仏法に帰依して、ひとえに阿弥陀如来の本願を信じて仰いでおられると聞いています。しかしながら、仏法は自分一人で学び実践できないではないけれども、立派な先達に詳しく話を聞いて理解しなければ、仏法の本質を理解することはできません。例えてみると、衣を着たとしても、帯を締めていないようなものです。決して十分だとはいえないのです。早く立派な名僧のところに詣でて、仏法の本質を理解するべきではないでしょうか、とお話しをしたのです。左近三郎は、それはもっともなことですと心の底から納得して、家に帰り、釋蓮空上人にお会いする機会を持ち、詳しく淨土のもっとも大切な要点を尋ねましたところ、これに対して蓮空上人は左近三郎に対して次の通りお話をされました。

 そもそも如来が誓われた本願念仏の素晴らしい教えというものは、お釈迦様が、これこそは全ての凡夫を救うことができる本当の教えであり、お悟りになられた阿弥陀如来による時を超えた素晴らしい誓願なのです。それ故にこれを心から信ずるものは、誰でも等しく淨土に往生を遂げることができるのであり、それは智慧を有する者も粗野で賤しい者も全く区別ないのです。阿弥陀如来の本願を頼りにするものは、みなすべて必ず淨土へ往生でき、決して後戻りすることはないという位に就くことができるのです。お念仏を唱えた年月の長短は関係なく、善いことをしたか悪いことをしたかは全く関係がないのです。本当にこの教えは、この世の中に生きるすべての者にとってかけがえのない教えであり、私たちが苦しみから救われる本当の大切な道なのです。これをもって、霊鷲山(お釈迦様が無量寿経、観無量寿経を説いた山)から立ち昇る美しい秋月の光(お釈迦様の説法)は、時が遠く隔たった法滅の時代の長い闇夜を照らし、祇園精舎(お釈迦様が阿弥陀経を説いた精舎)に降り注ぐ春雨(お釈迦様の説法)は、まさしく謗法(仏法を謗ること)や五逆(五逆:殺父、殺母、殺阿羅漢、出仏身血、破和合僧)を行った者たちの乾ききった心を潤すのです。教えを伝えてこられた祖師方の残した足跡は途切れることなく承継されてきて、いずれも天から承った大切な業績でありましたが、その中でもとりわけ、終南(大師)ともいわれた光明大師善導に至って、ただ一人お釈迦様が説かれた本当の意味を明らかにされました。正行(阿弥陀仏に対する読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養の五つの行)と雑行(正行以外の行)を二つに分け、もっぱら五種の大切な行を立てまして、その中でも正業(正定業:正しく往生が決定する行業=称名念仏、五つの正行の中のひとつ)と助業(五つの正行の中の称名念仏以外の行)とを詳しく分けて、ひとえに淨土往生にもっと大切な正定の一業(称名念仏)を勧められたのでした。このような教えが中国から日本に渡り再び伝わってゆくことになり、まず比叡山の黒谷にいらっしゃった法然房源空上人に伝わり、次に私たちの宗祖である親鸞聖人に伝わったのでした。いわゆる「即得往生」(本願の信心を得たそのときに浄土への往生は決定する)のお経の文言は、「平生業成」(第十八願の法においては、臨終=死ぬ間際に往生が決定するのではなく、平生=日常の生活の中で浄土への往生が決定するということ)の安心(安定した心の置き処)をあらわすのです。これは「此土不退」(浄土に往生するに後戻りしない)の現世における利益なのです。一念発起とお釈迦様が説かれた意味は、機法一体の極促(私が本願を信じて名号を称する最初のときに、機=私のような煩悩にまみれた者と、法=そのような者を救おうとする阿弥陀如来の本願がひとつとなり、浄土往生が決定すること)を示しているのです。浄土往生にためには一念でよいか、多念が必要か、といえば一念であることに他なりません。三つのお経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)の深い意味を知りつくし、淨土教をお伝えになった五人の祖師方(龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師)の深い理解の跡を挙げて、褒め称えたところ、左近三郎は疑いの固い心が氷が解けるように直ちに本当の理解に至りまして、感動の涙が流れて袖で隠そうとすることもできずに、泣きながら蓮空上人の御前を退出しようとしたところ、上人は一幅の阿弥陀如来の御絵像を授けられて、本当の教えが伝わり信心を確かに得たことの証としました。このときから、左近三郎の信心は玉のごとく堅固なものとなり、念仏をもっぱらとし他の修行は一切やめるようになったのです。同じ年(永享四年・一四三二年)の八月になって、左近三郎は一つの粗末な御堂を建てまして、蓮空上人から賜った御絵像をお掛け奉って、宿地に住む窪左衛門五郎入道性蓮、道徳道の善下路に住む道教彦五郎という人たちを誘って、八月十六日に念仏の法要を執り行いました。永享十年(一四三八年)五月のはじめのころ、ひとり息子の左近太郎が、たまたま風邪をこじらせて五月三日あえなく亡くなってしまいましたので、左近三郎は愛しい息子との別れがいかんともしがたく、悲しみ嘆きの涙を抑えることができなくなり、五月五日に髪を落とし、法名を淨空と名乗るようになったのです。このときから、手に念珠を片時も離すことなく、口にお念仏を称えないときはなかったのです。文明元年(一四六九年)の八月十五日から七日間の間、阿弥陀経往生要集(往生要集:全三巻で源信が著す。源信四四歳の時の作で、ひろく諸経論釈の中から往生極楽に関する要文を集めて同信行者の指南の書としたもの。)に定められた規律にのっとって、不断念仏(特定の日時を決めて、その間、昼夜間断なく念仏を唱えること)を執り行いました。文明十年(一四七八年)二月八日、頭護の地蔵菩薩(頭護山如意寺の地蔵堂:康平二年・一〇五九年創建 淨泉寺から西へ徒歩五分の所在)の前で七日間念仏を行いました。最後に念仏を称えたときには阿弥陀如来が地蔵菩薩となり、一体で二つの仏様が現れたと周囲の人々が口々に言うようになりました。同じ年文明十年(一四七八年)の冬の十二月十六日に、織田大和守敏定と織田伊勢守敏広が争い、地元の武士花井蔵人らがこれに加わって、美濃と三河の軍勢が、この地において合戦に及び、あい戦うこと五日の後に、織田(大和守敏定)はついに敗北して、清州城に逃げ帰ったのでした。三河勢は四方に火を放って、寺社をはじめ民家一切をこの時すべて焼き尽くしてしまいました。この日、淨空の道場も灰塵に帰したのでした。それから一年が経ち、あらゆる縁故の人々の家を訪ね、男女を問わず道を往来する人々に頼んで、柄杓勧進(説法をした後に柄杓にお金を入れてもらって寺院建立などの寄附を募ること)し、ついに道場を再興することができました。文明十年(一四七八年)二月二十二日には慶讃法要を執り行いました。文明十二年(一四八〇年)になりました。同じ年十一月二十六日になって入道淨空は俄かに体調を崩し寿命が短いことを自ら悟りました。三十日の夜になって、子弟を傍に寄せてこのように話しました。今回の病によって私はもう起き上がることはできないだろう。私の命も間もなく尽きるはずだ。かねてから私は来月八日に亡くなるつもりでいたが、そのとおりにはいかなくなりそうだ。三日に臨終を迎えるだろう、と言って、お別れを念仏の同朋に言い、言葉を弟子に遺したうえ、十二月二日、蓮空上人をお迎えして、曼荼羅(浄土の姿を描いた絵図)を勧請(絵図の中に仏様に来臨を請うこと)し、御本尊を礼拝し、読誦称名をして、臨終を迎えることを示しました。同じ日酉の刻(現在の午後六時ころ)に、蓮乗及び諸々の弟子に語ってこういいました。お釈迦様の弟子になった私は、この世の東の果ての国(日本)に生まれて、幸運にも西の国(印度)から伝わった仏の教えを聞くことができました。億劫という気の遠くなるような確率でこの尊い教えに出会うことができたのです。大海原で眼がひとつしか見えない亀がただよい、たまたま息を吸いに海面に顔を上げたときにたまたま浮いていた流木にあたったように極めて稀なことでありました。教えに出会ったこの喜びは何物にも換えがたいものです。よくよく考えてみれば、安養という名の淨土はこの世からはるか遠くに存在するといいますが、念仏を称えれば必ず至ることができるのです。どうして十万億土の距離が遠いといえましょうか。私の罪深い業の障りは重いといえども念仏を称えれば必ず阿弥陀如来がお迎えに来て下さるのです。どうして五つの障りや三つの従(五障三従:女性の有する五つの障り〈信,精進,念,定,慧の五善根の障害となる欺,怠,瞋,恨,怨〉と三種の忍従〈幼時には父母に従い,結婚しては夫に従い,老いたときには子に従うこと〉をいう)によって如来が差別することがありましょうか。浄土に往生するためには一度の念仏でよいか、十度の念仏が必要かなどと言い争うことはやめなさい。ただただ、如来の本願を信じる心が厚いか否かを自分に問いただすのです。妄念や異念の起こることがあるかもしれませんが、そのようなことに囚われてはなりません。ひとえに阿弥陀如来の本願の力が本当に不思議で思い難いことを歓ぶのです。ああ、何と慶ばしいことではありませんか。今日の夕暮れはなんという素晴らしい夕暮れでありましょうか。私は、阿弥陀如来の弘誓の大きな船に乗って、苦しみも心配もなく四つの大海の波を渡り、あるいは阿弥陀如来のご慈悲の車に腰かけて、五つの険しい道を、苦しみも心配もなく超えて行くことになるのです。いうまでもなく、彼の淨土に至れば、そこでは、阿弥陀如来の大悲と智慧の願いの行に基づいて、私はよく救われて、仏の悟りに至り、事理の本当の姿を観ずることができるようになり、万という数のあらゆる徳を身に備えて、夢見ていた仏の悟りの境地が現実となり、私があこがれていたその境地に立つことができるのです、それは遠いことではありません、すぐに至ることができるのです。これは阿弥陀如来の願力が導いて下さるところなのです、と言って、歓喜する心が顔に顕われ、阿弥陀如来の御名を繰り返し称えていました。それから後は、経典の大切な文を引いて語りはじめました。すなわち、阿弥陀経にある「執持名号、若一日乃至七日、即得往生」(名号〈南無阿弥陀仏〉を心から一日でも七日でもお称えすれば、浄土に往生することができます)という文、観無量寿経にある「光明遍照十方世界、念仏衆生生摂取不捨」(阿弥陀如来の放つ光明は、あまねく十方の世界を照らしたまい、念仏を称える人々を救い摂って捨てることがありません)という文、また「為其勝友当座道場」(観音・勢至菩薩が友になりたまう、当に道場に座すのだ) という文、無量寿経にある「乃至十念若不生者不取正覚」(十度でもよいから念仏を称えた者が浄土に往生できないときは私〈後の阿弥陀如来:法蔵菩薩〉は仏にはなりません)また「為得大利無上功徳」(大いなる利益〈浄土往生〉を得ることができ、それはこの上ない功徳である)といった諸々の経文を口にとなえ、最後に「還帰西方極楽世界、入重玄門施無畏者」(さあ、西方の極楽世界〈浄土〉に帰ろうか、私は浄土から現世に舞い戻った観世音菩薩であったのです)と唱えて、お念仏を称えながら息を引き取りました。文明十二年(一四八〇年)十二月三日のことでした。

 このときの以前のことですが、寛正六年(一四六五年)六月一九日に、高田本山の寺務を司る御法主真慧上人(真宗高田派第十世)が淨空の道場にお立ち寄りになられ、南無阿弥陀仏の名号を淨空にお授けになりました。古い文書にそのことが記されています。この名号はいずれの年代に紛失してしまったかわかりません。現在はみあたりません。その後、文明十五年(一四八三年)に真慧上人によって蓮乗上人(淨泉寺始祖)の代に「淨泉寺」の寺の名前を賜りました。この時の証状は現在も淨泉寺に存在しています。また文明十三年(一四八一年)二月十三日から七日間の間、蓮乗法師は別時念仏(特別に期間を定めて行う念仏)の行を行いました。二月十五日に、ひどい豪雨と暴風があって、空の色は全く分からないほどの天候になりました。午後になってから西の空から白い光が二筋差し込んできて、星崎という岬近くの海上から、現在の道場の上を明るく照らしたのでした。この光の広さは三尺の幅がありました。この光を目撃した人は数多くいました。阿弥陀如来と釈迦如来の二尊から放たれた光ではないかと思われます。あるいは、天女が音楽を奏でて冠を帯びながら、鼓笛を演奏している姿ではないかと見ることもできました。これはひとえに阿弥陀如来の本願を真実と信じて、念仏に精進したことの顕われではないかと、人々は淨土に憧れる思いに浸ったのでした。また文明十七年(一四八五年)二月八日、蓮性上人(淨泉寺第二世)は夢をみまして、真慧上人は高貴な毛並みの馬に蓮の葉の鞍に跨り、淨泉寺の山門にあらわれて、蓮乗上人(淨泉寺始祖)に瑠璃でできた壺をお与えになり、蓮性上人は書を一幅賜るのを見ました。このようなことがあってから淨泉寺の念仏は益々大きく栄えることになったのでした。

一、御本尊である阿弥陀如来の御木像は、文明十四年(一四八二年)十二月四日に、星崎でおこった大乱のときに、淨泉寺に端坐するべきであるとうお告げに従って、これをお迎えして寺に安置させていただいたものです。弘法大師空海の御手彫りのものです。

一、聖徳太子二歳のときの御木像は、応仁二年(一四六八年)四月二十三日に御本堂に安置されたものです。顕智上人(真宗高田派第二世)が自ら彫られたと語り継がれています。

一、夢に現れた善導大師の御絵像一幅が淨泉寺にあると古い文書に記載があります。現在は存在していません。

一、善光寺如来の物語は、文明元年(一四六九年)に、熱田神宮において青銅二貫文で買い求めたものです。年月が経って色褪せや綻びがでまして、現在は二幅だけ存在しています。

一、野田の道場は、鬼頭五郎によって、寛正三年(一四六二年)二月十五日に開かれて念仏が行われるようになりました。

一、野並の道場は、二郎、五郎という法名道西、道法によって、応仁二年(一四六八年)十一月十三日に開かれて念仏が行われるようになりました。

一、宿の北の道場は、文明元年(一四六九年)十月十五日に、徳善という者が始めたものです。

一、西の端の道場は、文明二年(一四七〇年)八月十五日に、道円という者がこれを開きました。

一、古鳴海の道場は、文明三年(一四七一年)二月十五日に、俗名を左近五郎と言う者がこれを開きました。

右に記した五つの坊(道場)は、現在はなくなっていて年月が経過しているものですが、古い文書には記載されていたものです。今ここにまた記録することにします。とても惜しいことですが、古い記録が紛失していまして、それ以外の伝承がわからなくなっています。

一、上田の北屋敷道場は、現在は栄久寺(真宗高田派松雲山榮久寺 名古屋市天白区植田所在)と言う名前になっています。長久手の道場は常照寺(真宗高田派仙寿山常照寺 長久手市桜作所在)という名前になっています。これは現在までに言い伝えの通りです。

 私(良珠院沙門蓮阿)は、昔のことですが尾陽(尾張の国名古屋)に居りました際に、鳴海恩公(淨泉寺第十一世蓮雄上人)が古い文書を一冊携えてやってこられ、私にこのように申されたのです。この文書は我が寺淨泉寺の古い記録です。最近になって、古い筐(きょう 籠の入れ物)を整理していたときに見つけたものですが、いたる所にたくさんの綴じ間違いや紛失している箇所があって、詳しく読むことができないでいます、といって、私に対して蓮雄上人はこの文書を直してくださいとおっしゃいました。私はその当時、たまたま良珠院(三重県鈴鹿市三日市所在の真宗高田派寺院)に頼まれて伊勢の国まで来て同院で働きはじめて五年が経ったところでした。この年初めてお休みをいただくことができてこの古い文書を読むことができました。その古い文書は淨泉寺年代記という題名の本でした。詳しく見てみると、詳しく年月や日付が記載されており、本当にあった事実が記録されていました。ただ、残念なのは整理されていないところや無くなってしまっているところがあったことです。しかしながら、それ以外の残っている箇所は、きちんと整理して後々の世まで是非とも伝いたい内容でしたので、どうしたら残すことができるかを考え、脱落したところを補い、意味の難解なところを分かり易くして、明らかな誤りを訂正しながら、遂に一冊の本としました。そのように、読む者が読みやすいように私が訂正を施したものです。しかし私が勝手に言葉を付け加えたわけではありません。古い文章の意味内容に従ったものです。この本を書き上げたのは元禄十五年(一七〇二年)三月上旬のことです。良珠院の僧侶であります蓮阿が書き記しました。

書き下し訳 昭和四十八年五月(一九七八年)  八十五歳 蓮康  編
現代文訳  平成二十六年八月(二〇一四年)  四十九歳 康心 十三歳 暉心 共編

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名称浄泉寺
読み方じょうせんじ
電話番号052-621-0521
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ホームページhttps://jousenji.jimdofree.com/

詳細情報

ご本尊阿弥陀如来
山号木林山
宗旨・宗派真宗高田派
創建時代永享4年(1432)
ご由緒

淨泉寺縁起(淨泉寺が成立した物語) 元禄十五年(1702年)三月上旬 蓮阿記ス

その昔、欽明天皇の時代(西暦五四〇年~五七一年)のことでありますが、蘇我稲目が向原寺を創建(前身創建は仏教公伝と同じ年 西暦五五二年)して以来、今日にまでに千年余りの歳月が経ちましたところ、仏教の寺院(伽藍)は年を重ねて倍増していき、仏様の救いの光は我が日本の隅々にまで輝き届く様になりました。その利益を考えてみますに、このことはただ世間の人々に幸せな生活をもたらし、人や天(六道輪廻にいう人間界と天界)の者たちを慈しみ救っただけではありません。帝(天皇)による治世が差し障りなく執り行われることを支え、武家がきちんと社会を治める基礎となった理由でもあるのです。尾張の国、東海道の鳴海の宿場にある木林山淨泉寺は、専修念佛の仏道興隆のための道場になって、二百年以上の歴史を有する聖なる場所です。

 文明年間(西暦一四六九年~一四八七年)に、左近三郎入道淨空という人物がいて、初めて今の淨泉寺を開きました。その子供・法名釋蓮乗法師がこれに続いて住職になりました。文明十五年(一四八三年)に、真宗高田派の寺務を総括する地位(法主)であった真慧上人から、直筆の証状(寺号)を頂きまして、仏法に対する憧憬の念は益々高まりました。このことによって、淨泉寺では、淨空を開基(寺院の基礎を築いた人)とし、蓮乗を始祖(寺院の初代住持職)と崇め奉ることになったのです。当初この寺は、現在の寺のある場所から測りますと、三町(約三三〇メートル)ほど北にある森山という場所に存在していました。

 昔の淨泉寺の境内地は、非常に高いところにあってしかも狭く、往来に難渋していましたので、後に現在の場所に定めて、ついに寺を移すことになりました。現在、寺の山号を木林山と呼んでいるのは、淨泉寺が昔あった場所の地名から取ったものではないでしょうか。ひと昔前の時代には、淨泉寺は仏法興隆の中心として栄え、末寺(淨泉寺所属の下寺)十一箇寺、僧坊五箇所を抱えていましたが、その時々の統治者のために、これら寺坊の財産は供出させられ、あるいは戦争による災難に遭って、寺坊の御堂などの建物が壊滅したりしたこともあり、現在では末寺十二箇寺を数えるだけになっています。そもそも左近三郎入道が淨泉寺を開いた由来に遡ってみますと、百代目の天皇であります称光院(第一〇一代称光天皇 在位一四一二年~一四二八年)の治世のとき、鳴海の庄にある森山という場所に、左近三郎という人がいました。世間では弓矢をとっては武勇の名を馳せておりましたが、心の内には深く三宝(仏様、悟りの真理、僧団)に帰依していて、特に淨土へ往生する行をもっぱら修めていました。その当時、室町幕府将軍家は足利義教公であり、後に普広院と申し奉るようになったお方です。武家の権威をもって秋津洲(日本列島)を治めておりましたが、時に風雅の才能はその時代右に出る者はおりませんでした。永享四年(一四三二年)の六月駿河の国(静岡)に立ち寄られ、富士山を遊覧したいと思召して、家来に命令を出して東海道まで足を延ばされることになりました。六月十九日、室町幕府将軍(征夷大将軍)として尾張の国まで臨まれました。行く先々で、領地を整備し、道を整備しながらやってまいりました。この鳴海の駅も、西の端は湊津橋を造り、東端は田楽峠のところまで整備されて道が作られました。これによって、近くの者たちは皆一同に街道沿いに集まりはじめました。沓掛(愛知県豊明市沓掛)に菊屋三郎左右門という者がおりました。この者は左近三郎に対してこのように言いました。貴殿は、いち早く仏法に帰依して、ひとえに阿弥陀如来の本願を信じて仰いでおられると聞いています。しかしながら、仏法は自分一人で学び実践できないではないけれども、立派な先達に詳しく話を聞いて理解しなければ、仏法の本質を理解することはできません。例えてみると、衣を着たとしても、帯を締めていないようなものです。決して十分だとはいえないのです。早く立派な名僧のところに詣でて、仏法の本質を理解するべきではないでしょうか、とお話しをしたのです。左近三郎は、それはもっともなことですと心の底から納得して、家に帰り、釋蓮空上人にお会いする機会を持ち、詳しく淨土のもっとも大切な要点を尋ねましたところ、これに対して蓮空上人は左近三郎に対して次の通りお話をされました。

 そもそも如来が誓われた本願念仏の素晴らしい教えというものは、お釈迦様が、これこそは全ての凡夫を救うことができる本当の教えであり、お悟りになられた阿弥陀如来による時を超えた素晴らしい誓願なのです。それ故にこれを心から信ずるものは、誰でも等しく淨土に往生を遂げることができるのであり、それは智慧を有する者も粗野で賤しい者も全く区別ないのです。阿弥陀如来の本願を頼りにするものは、みなすべて必ず淨土へ往生でき、決して後戻りすることはないという位に就くことができるのです。お念仏を唱えた年月の長短は関係なく、善いことをしたか悪いことをしたかは全く関係がないのです。本当にこの教えは、この世の中に生きるすべての者にとってかけがえのない教えであり、私たちが苦しみから救われる本当の大切な道なのです。これをもって、霊鷲山(お釈迦様が無量寿経、観無量寿経を説いた山)から立ち昇る美しい秋月の光(お釈迦様の説法)は、時が遠く隔たった法滅の時代の長い闇夜を照らし、祇園精舎(お釈迦様が阿弥陀経を説いた精舎)に降り注ぐ春雨(お釈迦様の説法)は、まさしく謗法(仏法を謗ること)や五逆(五逆:殺父、殺母、殺阿羅漢、出仏身血、破和合僧)を行った者たちの乾ききった心を潤すのです。教えを伝えてこられた祖師方の残した足跡は途切れることなく承継されてきて、いずれも天から承った大切な業績でありましたが、その中でもとりわけ、終南(大師)ともいわれた光明大師善導に至って、ただ一人お釈迦様が説かれた本当の意味を明らかにされました。正行(阿弥陀仏に対する読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養の五つの行)と雑行(正行以外の行)を二つに分け、もっぱら五種の大切な行を立てまして、その中でも正業(正定業:正しく往生が決定する行業=称名念仏、五つの正行の中のひとつ)と助業(五つの正行の中の称名念仏以外の行)とを詳しく分けて、ひとえに淨土往生にもっと大切な正定の一業(称名念仏)を勧められたのでした。このような教えが中国から日本に渡り再び伝わってゆくことになり、まず比叡山の黒谷にいらっしゃった法然房源空上人に伝わり、次に私たちの宗祖である親鸞聖人に伝わったのでした。いわゆる「即得往生」(本願の信心を得たそのときに浄土への往生は決定する)のお経の文言は、「平生業成」(第十八願の法においては、臨終=死ぬ間際に往生が決定するのではなく、平生=日常の生活の中で浄土への往生が決定するということ)の安心(安定した心の置き処)をあらわすのです。これは「此土不退」(浄土に往生するに後戻りしない)の現世における利益なのです。一念発起とお釈迦様が説かれた意味は、機法一体の極促(私が本願を信じて名号を称する最初のときに、機=私のような煩悩にまみれた者と、法=そのような者を救おうとする阿弥陀如来の本願がひとつとなり、浄土往生が決定すること)を示しているのです。浄土往生にためには一念でよいか、多念が必要か、といえば一念であることに他なりません。三つのお経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)の深い意味を知りつくし、淨土教をお伝えになった五人の祖師方(龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師)の深い理解の跡を挙げて、褒め称えたところ、左近三郎は疑いの固い心が氷が解けるように直ちに本当の理解に至りまして、感動の涙が流れて袖で隠そうとすることもできずに、泣きながら蓮空上人の御前を退出しようとしたところ、上人は一幅の阿弥陀如来の御絵像を授けられて、本当の教えが伝わり信心を確かに得たことの証としました。このときから、左近三郎の信心は玉のごとく堅固なものとなり、念仏をもっぱらとし他の修行は一切やめるようになったのです。同じ年(永享四年・一四三二年)の八月になって、左近三郎は一つの粗末な御堂を建てまして、蓮空上人から賜った御絵像をお掛け奉って、宿地に住む窪左衛門五郎入道性蓮、道徳道の善下路に住む道教彦五郎という人たちを誘って、八月十六日に念仏の法要を執り行いました。永享十年(一四三八年)五月のはじめのころ、ひとり息子の左近太郎が、たまたま風邪をこじらせて五月三日あえなく亡くなってしまいましたので、左近三郎は愛しい息子との別れがいかんともしがたく、悲しみ嘆きの涙を抑えることができなくなり、五月五日に髪を落とし、法名を淨空と名乗るようになったのです。このときから、手に念珠を片時も離すことなく、口にお念仏を称えないときはなかったのです。文明元年(一四六九年)の八月十五日から七日間の間、阿弥陀経往生要集(往生要集:全三巻で源信が著す。源信四四歳の時の作で、ひろく諸経論釈の中から往生極楽に関する要文を集めて同信行者の指南の書としたもの。)に定められた規律にのっとって、不断念仏(特定の日時を決めて、その間、昼夜間断なく念仏を唱えること)を執り行いました。文明十年(一四七八年)二月八日、頭護の地蔵菩薩(頭護山如意寺の地蔵堂:康平二年・一〇五九年創建 淨泉寺から西へ徒歩五分の所在)の前で七日間念仏を行いました。最後に念仏を称えたときには阿弥陀如来が地蔵菩薩となり、一体で二つの仏様が現れたと周囲の人々が口々に言うようになりました。同じ年文明十年(一四七八年)の冬の十二月十六日に、織田大和守敏定と織田伊勢守敏広が争い、地元の武士花井蔵人らがこれに加わって、美濃と三河の軍勢が、この地において合戦に及び、あい戦うこと五日の後に、織田(大和守敏定)はついに敗北して、清州城に逃げ帰ったのでした。三河勢は四方に火を放って、寺社をはじめ民家一切をこの時すべて焼き尽くしてしまいました。この日、淨空の道場も灰塵に帰したのでした。それから一年が経ち、あらゆる縁故の人々の家を訪ね、男女を問わず道を往来する人々に頼んで、柄杓勧進(説法をした後に柄杓にお金を入れてもらって寺院建立などの寄附を募ること)し、ついに道場を再興することができました。文明十年(一四七八年)二月二十二日には慶讃法要を執り行いました。文明十二年(一四八〇年)になりました。同じ年十一月二十六日になって入道淨空は俄かに体調を崩し寿命が短いことを自ら悟りました。三十日の夜になって、子弟を傍に寄せてこのように話しました。今回の病によって私はもう起き上がることはできないだろう。私の命も間もなく尽きるはずだ。かねてから私は来月八日に亡くなるつもりでいたが、そのとおりにはいかなくなりそうだ。三日に臨終を迎えるだろう、と言って、お別れを念仏の同朋に言い、言葉を弟子に遺したうえ、十二月二日、蓮空上人をお迎えして、曼荼羅(浄土の姿を描いた絵図)を勧請(絵図の中に仏様に来臨を請うこと)し、御本尊を礼拝し、読誦称名をして、臨終を迎えることを示しました。同じ日酉の刻(現在の午後六時ころ)に、蓮乗及び諸々の弟子に語ってこういいました。お釈迦様の弟子になった私は、この世の東の果ての国(日本)に生まれて、幸運にも西の国(印度)から伝わった仏の教えを聞くことができました。億劫という気の遠くなるような確率でこの尊い教えに出会うことができたのです。大海原で眼がひとつしか見えない亀がただよい、たまたま息を吸いに海面に顔を上げたときにたまたま浮いていた流木にあたったように極めて稀なことでありました。教えに出会ったこの喜びは何物にも換えがたいものです。よくよく考えてみれば、安養という名の淨土はこの世からはるか遠くに存在するといいますが、念仏を称えれば必ず至ることができるのです。どうして十万億土の距離が遠いといえましょうか。私の罪深い業の障りは重いといえども念仏を称えれば必ず阿弥陀如来がお迎えに来て下さるのです。どうして五つの障りや三つの従(五障三従:女性の有する五つの障り〈信,精進,念,定,慧の五善根の障害となる欺,怠,瞋,恨,怨〉と三種の忍従〈幼時には父母に従い,結婚しては夫に従い,老いたときには子に従うこと〉をいう)によって如来が差別することがありましょうか。浄土に往生するためには一度の念仏でよいか、十度の念仏が必要かなどと言い争うことはやめなさい。ただただ、如来の本願を信じる心が厚いか否かを自分に問いただすのです。妄念や異念の起こることがあるかもしれませんが、そのようなことに囚われてはなりません。ひとえに阿弥陀如来の本願の力が本当に不思議で思い難いことを歓ぶのです。ああ、何と慶ばしいことではありませんか。今日の夕暮れはなんという素晴らしい夕暮れでありましょうか。私は、阿弥陀如来の弘誓の大きな船に乗って、苦しみも心配もなく四つの大海の波を渡り、あるいは阿弥陀如来のご慈悲の車に腰かけて、五つの険しい道を、苦しみも心配もなく超えて行くことになるのです。いうまでもなく、彼の淨土に至れば、そこでは、阿弥陀如来の大悲と智慧の願いの行に基づいて、私はよく救われて、仏の悟りに至り、事理の本当の姿を観ずることができるようになり、万という数のあらゆる徳を身に備えて、夢見ていた仏の悟りの境地が現実となり、私があこがれていたその境地に立つことができるのです、それは遠いことではありません、すぐに至ることができるのです。これは阿弥陀如来の願力が導いて下さるところなのです、と言って、歓喜する心が顔に顕われ、阿弥陀如来の御名を繰り返し称えていました。それから後は、経典の大切な文を引いて語りはじめました。すなわち、阿弥陀経にある「執持名号、若一日乃至七日、即得往生」(名号〈南無阿弥陀仏〉を心から一日でも七日でもお称えすれば、浄土に往生することができます)という文、観無量寿経にある「光明遍照十方世界、念仏衆生生摂取不捨」(阿弥陀如来の放つ光明は、あまねく十方の世界を照らしたまい、念仏を称える人々を救い摂って捨てることがありません)という文、また「為其勝友当座道場」(観音・勢至菩薩が友になりたまう、当に道場に座すのだ) という文、無量寿経にある「乃至十念若不生者不取正覚」(十度でもよいから念仏を称えた者が浄土に往生できないときは私〈後の阿弥陀如来:法蔵菩薩〉は仏にはなりません)また「為得大利無上功徳」(大いなる利益〈浄土往生〉を得ることができ、それはこの上ない功徳である)といった諸々の経文を口にとなえ、最後に「還帰西方極楽世界、入重玄門施無畏者」(さあ、西方の極楽世界〈浄土〉に帰ろうか、私は浄土から現世に舞い戻った観世音菩薩であったのです)と唱えて、お念仏を称えながら息を引き取りました。文明十二年(一四八〇年)十二月三日のことでした。

 このときの以前のことですが、寛正六年(一四六五年)六月一九日に、高田本山の寺務を司る御法主真慧上人(真宗高田派第十世)が淨空の道場にお立ち寄りになられ、南無阿弥陀仏の名号を淨空にお授けになりました。古い文書にそのことが記されています。この名号はいずれの年代に紛失してしまったかわかりません。現在はみあたりません。その後、文明十五年(一四八三年)に真慧上人によって蓮乗上人(淨泉寺始祖)の代に「淨泉寺」の寺の名前を賜りました。この時の証状は現在も淨泉寺に存在しています。また文明十三年(一四八一年)二月十三日から七日間の間、蓮乗法師は別時念仏(特別に期間を定めて行う念仏)の行を行いました。二月十五日に、ひどい豪雨と暴風があって、空の色は全く分からないほどの天候になりました。午後になってから西の空から白い光が二筋差し込んできて、星崎という岬近くの海上から、現在の道場の上を明るく照らしたのでした。この光の広さは三尺の幅がありました。この光を目撃した人は数多くいました。阿弥陀如来と釈迦如来の二尊から放たれた光ではないかと思われます。あるいは、天女が音楽を奏でて冠を帯びながら、鼓笛を演奏している姿ではないかと見ることもできました。これはひとえに阿弥陀如来の本願を真実と信じて、念仏に精進したことの顕われではないかと、人々は淨土に憧れる思いに浸ったのでした。また文明十七年(一四八五年)二月八日、蓮性上人(淨泉寺第二世)は夢をみまして、真慧上人は高貴な毛並みの馬に蓮の葉の鞍に跨り、淨泉寺の山門にあらわれて、蓮乗上人(淨泉寺始祖)に瑠璃でできた壺をお与えになり、蓮性上人は書を一幅賜るのを見ました。このようなことがあってから淨泉寺の念仏は益々大きく栄えることになったのでした。

一、御本尊である阿弥陀如来の御木像は、文明十四年(一四八二年)十二月四日に、星崎でおこった大乱のときに、淨泉寺に端坐するべきであるとうお告げに従って、これをお迎えして寺に安置させていただいたものです。弘法大師空海の御手彫りのものです。

一、聖徳太子二歳のときの御木像は、応仁二年(一四六八年)四月二十三日に御本堂に安置されたものです。顕智上人(真宗高田派第二世)が自ら彫られたと語り継がれています。

一、夢に現れた善導大師の御絵像一幅が淨泉寺にあると古い文書に記載があります。現在は存在していません。

一、善光寺如来の物語は、文明元年(一四六九年)に、熱田神宮において青銅二貫文で買い求めたものです。年月が経って色褪せや綻びがでまして、現在は二幅だけ存在しています。

一、野田の道場は、鬼頭五郎によって、寛正三年(一四六二年)二月十五日に開かれて念仏が行われるようになりました。

一、野並の道場は、二郎、五郎という法名道西、道法によって、応仁二年(一四六八年)十一月十三日に開かれて念仏が行われるようになりました。

一、宿の北の道場は、文明元年(一四六九年)十月十五日に、徳善という者が始めたものです。

一、西の端の道場は、文明二年(一四七〇年)八月十五日に、道円という者がこれを開きました。

一、古鳴海の道場は、文明三年(一四七一年)二月十五日に、俗名を左近五郎と言う者がこれを開きました。

右に記した五つの坊(道場)は、現在はなくなっていて年月が経過しているものですが、古い文書には記載されていたものです。今ここにまた記録することにします。とても惜しいことですが、古い記録が紛失していまして、それ以外の伝承がわからなくなっています。

一、上田の北屋敷道場は、現在は栄久寺(真宗高田派松雲山榮久寺 名古屋市天白区植田所在)と言う名前になっています。長久手の道場は常照寺(真宗高田派仙寿山常照寺 長久手市桜作所在)という名前になっています。これは現在までに言い伝えの通りです。

 私(良珠院沙門蓮阿)は、昔のことですが尾陽(尾張の国名古屋)に居りました際に、鳴海恩公(淨泉寺第十一世蓮雄上人)が古い文書を一冊携えてやってこられ、私にこのように申されたのです。この文書は我が寺淨泉寺の古い記録です。最近になって、古い筐(きょう 籠の入れ物)を整理していたときに見つけたものですが、いたる所にたくさんの綴じ間違いや紛失している箇所があって、詳しく読むことができないでいます、といって、私に対して蓮雄上人はこの文書を直してくださいとおっしゃいました。私はその当時、たまたま良珠院(三重県鈴鹿市三日市所在の真宗高田派寺院)に頼まれて伊勢の国まで来て同院で働きはじめて五年が経ったところでした。この年初めてお休みをいただくことができてこの古い文書を読むことができました。その古い文書は淨泉寺年代記という題名の本でした。詳しく見てみると、詳しく年月や日付が記載されており、本当にあった事実が記録されていました。ただ、残念なのは整理されていないところや無くなってしまっているところがあったことです。しかしながら、それ以外の残っている箇所は、きちんと整理して後々の世まで是非とも伝いたい内容でしたので、どうしたら残すことができるかを考え、脱落したところを補い、意味の難解なところを分かり易くして、明らかな誤りを訂正しながら、遂に一冊の本としました。そのように、読む者が読みやすいように私が訂正を施したものです。しかし私が勝手に言葉を付け加えたわけではありません。古い文章の意味内容に従ったものです。この本を書き上げたのは元禄十五年(一七〇二年)三月上旬のことです。良珠院の僧侶であります蓮阿が書き記しました。

書き下し訳 昭和四十八年五月(一九七八年)  八十五歳 蓮康  編
現代文訳  平成二十六年八月(二〇一四年)  四十九歳 康心 十三歳 暉心 共編

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