うらじんじゃ(うらしまじんじゃ)
宇良神社(浦嶋神社)京都府 天橋立駅
宝物資料館:午前9時~午後4時30分
授与所:午前9時~午後5時
御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳 | - | ||
駐車場 | あり(20台ほど駐車可能) |
参拝させて頂きました。一見、海に近くないが昔は海が入り込んでいたそうです。
鳥居と奥に見えるのが拝殿
由緒書
浦嶋子は雄略天皇22年7月7日に美婦に誘われ常世の国に行き平安時代の淳和天皇の御代天長2年に帰ってきたとのこと。常世の国に住んでいた年数は347年間とのこと。七夕にいなくなったのも何かありそう。
鳥居と拝殿
狛犬
手水舎
本殿
みいさまという目の神様らしい
酒樽
本殿拝殿中殿は明治17年に再建されたそう
手前が乙姫 奥が浦嶋太郎かな
手前が浦嶋太郎 奥が乙姫
参拝しました。御朱印は書置きです。日付が昨日になってました😃昨日のが残っていたのかな😆お守りもありました。
書置き御朱印です。
鳥居。
手水舎。
社殿。
絵馬掛け。
社務所。
丹後国与謝郡の式内論社です。丹後国風土記に伝承されていた常世の国から300年後に帰ってきたとされる浦嶋子さんを讃えて淳和天皇さまが創建させました。この長い神隠し伝説が浦島太郎の創作の元ネタで一番古いものと言われています。
《一の鳥居》
ちなみに神社本庁下では宇良神社が正式名称です。
《手水舎》
柄杓があり手を洗えるようになっています。
《由緒書き》
この300年後に帰ってきたと言われている浦嶋子さんは月読命さまの子孫とされている貴族で、浦島太郎が漁師の子になったのは民衆に広がるときにより身近に、分かりやすくなるために改変されたようです。
ですが、貴族であったからこそ何年前の人が突然帰ってきて、それがちゃんと記録されているのでしょうね。
《拝殿》
式内社に数えられるように外拝殿式です。
《拝殿内部》🙏
拝殿本殿は何度も御遷宮が行われており、次回は創建1200年となる令和7年となるようです。
《布引滝》
麓から大体30分ほど登りましたらありました。どうやらあと10分くらい登ると滝の頂まで行けるみたいですが足が限界なのでここまで…涼しかったです。
この近くに浦嶋子さんは住んでいたそうです。
《御朱印》
両開きで由緒書きがついています。
《浦嶋館》
今はやってないのでしょうか?閉まってました。
《布引滝解説》
神主さんが境内の木を切っていたのですが、その理由がもともとの鎮座地だった滝の方を遥拝できるように、ということでしたので、じゃあ行ってみるかと行ってみました。
「昔々浦嶋は 助けた亀に連れられて 竜宮城へ来て見れば 絵にもかけない美しさ」
この歌は、文部省唱歌「浦嶋太郎」であり、尋常小学校唱歌第二学年用教科書として、明治44年6月28日に刊行された。これは全5小節の内の第1小節である。
浦嶋神社は宇良神社ともよばれ、醍醐天皇の延長5年(927)「延喜式神名帳」所載によると『宇良神社(うらのかむやしろ)』と記されている式内社。創祀年代は淳和天皇の天長2年(825)、浦嶋子(うらしまこ)を筒川大明神として祀る。その大祖は月讀命の子孫で当地の領主、日下部首(くさかべのおびと)等の先祖であると伝わる。
伝承によると、浦嶋子は雄略天皇22年(478)7月7日美婦に誘われ常世の国へ行き、その後三百有余年を経て淳和天皇の天長2年(825)に帰ってきた。常世の国に住んでいた年数は347年間で、淳和天皇はこの話を聞き浦嶋子を筒川大明神と名付け、小野篁(おののたかむら/802~853、官吏・文人、遣隋使を務めた小野妹子の末裔)を勅旨として派遣し社殿が造営された。
遷宮の際には神事能が催され、そのつど領主の格別の保護が見られた。暦応二年(1339)には征夷大将軍 足利尊氏が来社し幣帛、神馬、神酒を奉納するなど、古代より当地域一帯に留まらず広域に渡り崇敬を集めている。
浦嶋子の子孫に当たる日下部氏については、『新撰姓氏録』「弘仁6年(815)」の和泉皇別の条に「日下部宿禰同祖、彦座命之後也」とみえる。彦座命は第9代開化天皇(紀元前157~98)の子、従って日下部首は開化天皇の後裔氏族で、その大祖は月讀命(浦嶋神社の相殿神)の子孫で当地の領主である。
住所 | 京都府与謝郡伊根町本庄浜191 |
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行き方 | 京都丹後鉄道 宮津駅or天橋立駅から丹後海陸交通路線バス(丹海バス)乗車、浦嶋神社前バス停で下車、徒歩3分
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名称 | 宇良神社(浦嶋神社) |
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読み方 | うらじんじゃ(うらしまじんじゃ) |
通称 | 浦嶋神社、筒川大明神 |
参拝時間 | 宝物資料館:午前9時~午後4時30分
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参拝にかかる時間 | 約15分 |
参拝料 | 宝物資料館のみ700円 |
トイレ | 浦嶋館にあり |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 0772ー33ー0721 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://www.urashimajinja.org/ |
絵馬 | あり |
ご祭神 | 《主祭神》 浦島子(うらのしまこ) 《配祀神》 月読命(つくよみのみこと) 祓戸大神(はらえどのおおかみ) |
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創建時代 | 天長二年(825年)7月22日 |
創始者 | 淳和天皇(小野篁を派遣) |
本殿 | 神明造 |
文化財 | 紙本著色浦嶋明神縁起(国重要文化財)
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ご由緒 | 「昔々浦嶋は 助けた亀に連れられて 竜宮城へ来て見れば 絵にもかけない美しさ」 この歌は、文部省唱歌「浦嶋太郎」であり、尋常小学校唱歌第二学年用教科書として、明治44年6月28日に刊行された。これは全5小節の内の第1小節である。 浦嶋神社は宇良神社ともよばれ、醍醐天皇の延長5年(927)「延喜式神名帳」所載によると『宇良神社(うらのかむやしろ)』と記されている式内社。創祀年代は淳和天皇の天長2年(825)、浦嶋子(うらしまこ)を筒川大明神として祀る。その大祖は月讀命の子孫で当地の領主、日下部首(くさかべのおびと)等の先祖であると伝わる。 伝承によると、浦嶋子は雄略天皇22年(478)7月7日美婦に誘われ常世の国へ行き、その後三百有余年を経て淳和天皇の天長2年(825)に帰ってきた。常世の国に住んでいた年数は347年間で、淳和天皇はこの話を聞き浦嶋子を筒川大明神と名付け、小野篁(おののたかむら/802~853、官吏・文人、遣隋使を務めた小野妹子の末裔)を勅旨として派遣し社殿が造営された。 遷宮の際には神事能が催され、そのつど領主の格別の保護が見られた。暦応二年(1339)には征夷大将軍 足利尊氏が来社し幣帛、神馬、神酒を奉納するなど、古代より当地域一帯に留まらず広域に渡り崇敬を集めている。 浦嶋子の子孫に当たる日下部氏については、『新撰姓氏録』「弘仁6年(815)」の和泉皇別の条に「日下部宿禰同祖、彦座命之後也」とみえる。彦座命は第9代開化天皇(紀元前157~98)の子、従って日下部首は開化天皇の後裔氏族で、その大祖は月讀命(浦嶋神社の相殿神)の子孫で当地の領主である。 |
体験 | 祈祷おみくじお祓いお宮参り絵馬七五三御朱印博物館お守り重要文化財祭り伝説 |
概要 | 浦嶋神社(うらしまじんじゃ)は、京都府与謝郡伊根町本庄浜にある神社。旧社格は郷社。浦嶋伝説が伝わる。宇良神社(うらじんじゃ)とも呼ばれる。 |
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歴史 | 歴史[編集] 社伝によると、創祀年代は平安時代、淳和天皇の825年(天長2年)7月22日とされ、浦嶋子を筒川大明神として祀るのが始めであると伝えられる[1]。宇良神社とも呼ばれ、延長5年(927年)「延喜式神名帳」所載によると『宇良神社(うらのかむやしろ)』と記されている[1]。伝承によると、淳和天皇は、「浦嶋子が、雄略天皇22年(478年)7月7日美婦に誘われ常世の国へ行き、347年を経て、天長2年(825年)に戻った」との話を聞き、浦嶋子を筒川大明神と名付け、小野篁を勅旨として社殿が造営されたとされる[1]。 ^ a b c “由緒”. 浦嶋神社公式. 2022年6月30日閲...Wikipediaで続きを読む |
行事 | 祭事[編集] 元旦祭(1月1日) 節分祭(2月 節分の日) 宵宮(3月16日日の入り刻) 祈年祭(3月17日午前9時) 延年祭(3月17日午前10時) 例大祭(8月6日-宵宮、7日-例大祭) 新嘗祭(12月7日) 月次祭(毎月7日、17日) |
引用元情報 | 「浦嶋神社」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%B5%A6%E5%B6%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=98173411 |
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