こうぜんじ|曹洞宗|西尾山
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康全寺について
大日堂の天井画の『水吐き竜』は火災を防いだという伝説が。
天正9年(1581)酒井忠重の城主時代、徳川家康がこの寺に泊まった折に、家康から一字をもらい、西尾山康全寺と改めたと伝えられている。
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町名は「満全町」です。もともとは、「満全寺」という名前でした。家康さんが「俺の康の字をあげるよ。」ということで「康全寺」という名前になりました。
山門
本堂
本堂内
本堂内
本堂内
稲荷堂、閻魔堂
稲荷堂内
閻魔堂内
大日堂
大日堂内
禅堂
山門の前にある「西尾町道路元標」西尾の中心地。
三河三十三観音霊場巡りの3寺目は、2寺目と同じく西尾市に在る第31番の西尾山 康全寺です。2寺目の盛巌寺から南へ約1km行った所に在ります。
曹洞宗で、本尊は聖観音菩薩、札所本尊も聖観音菩薩。
こちらの本堂に祀られている釈迦如来坐像と大日堂に祀られている大日如来は市指定文化財です。
1221年足利義氏が西條城の城内に天台宗の神宮寺、金剛院等の六坊を建立。(足利氏はこの地に来て姓を吉良氏と改めた。)その後、天台宗の僧侶が親鸞の教を奉じ、寺を離れる者が続出したため寺は荒廃。支那人と伝えられる却外禅師が当地に来られ堂宇荒廃を憂い再興。足利義氏六世の孫の西條城主吉良満貞は、却外禅師に帰依し、神宮寺と金剛院の2寺を合して1寺とし、吉良山満全寺と名づけた。吉良山は家名、満全寺の「満」は満貞の「満」を賜り寺号とした。1560年の桶狭間の戦いで今川氏が敗れ、その余波により西條城吉良氏は没落。その後の1581年に徳川家康が当寺に止宿し、家康の「康」の字を賜り、西尾山康全寺と改称し現在に至ります。
平坂街道という割と大通りに面しており、山門横から境内に入ると10数台分の駐車場があります。山門に並んで左側に大日堂、大日如来等が祀られています。大日如来坐像は高さ約60cm、平安時代後期作、金剛院の大日堂の本尊との事、一般的な印と違い、左右の手の上下入れ替わっています。頭の部分が厨子に隠れてしまってやや残念。境内右側には閻魔堂と稲荷堂、その奥は庫裏。正面な本堂で、左側には座禅道場?です。
本堂に入らせて頂きます。扉に三つ葉葵の紋。堂内に梵鐘と太鼓、駕籠もぶら下げてあります。須弥壇に本尊の聖観音菩薩、三尊形式になっていますが、他の菩薩は?
脇間には釈迦如来坐像。高さ約43cm、南北朝~室町時代作、神宮寺の釈迦堂の本尊との事。
本堂内にセルフ用朱印が置いてありましたのでセルフで押印しました。(結構、朱印が疲れていた。)
御朱印
山門
大日堂
大日如来坐像(市指定文化財)
倶利伽羅龍
右∶閻魔堂、左∶稲荷堂
本堂
梵鐘と太鼓
駕籠
聖観音菩薩
釈迦如来坐像(市指定文化財)
庫裏
座禅道場?
歴史
応永5年(1398)城内の御剣八幡宮の近くにあった八幡六坊のうち釈迦堂と大日堂を移し、吉良山満全寺とし、異国僧劫外乗空禅師が復興した。当時吉良荘の領主であった吉良氏も深く帰依していたという。
天正9年(1581)酒井重忠の城主時代、徳川家康が村巡見の途中にこの寺に泊まった折に、家康から一字をもらい、西尾山康全寺と改めたという。同13年、西尾城拡張の際に現在地に移し、鎮城の禅寺としたと伝えられる。
名称 | 康全寺 |
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読み方 | こうぜんじ |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 0563-57-3285 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
巡礼の詳細情報
三河三十三観音霊場 第31番 | 御本尊:聖観音 |
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詳細情報
ご本尊 | 大日如来坐像 |
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山号 | 西尾山 |
宗旨・宗派 | 曹洞宗 |
創建時代 | 応永5年(1398) |
ご由緒 | 応永5年(1398)城内の御剣八幡宮の近くにあった八幡六坊のうち釈迦堂と大日堂を移し、吉良山満全寺とし、異国僧劫外乗空禅師が復興した。当時吉良荘の領主であった吉良氏も深く帰依していたという。
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体験 | 御朱印札所・七福神巡り伝説 |
Wikipediaからの引用
概要 | 康全寺(こうぜんじ)は、愛知県西尾市満全町36にある曹洞宗の寺院。山号は西尾山。三河三十三観音第31番札所。 |
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歴史 | 歴史[編集] 創建[編集] 承久3年(1221年)に足利義氏が西条城(後の西尾城)を築くと、足利義氏は城内に御剱八幡宮を祀り、天台宗僧侶を別当とする六坊を建てた[1]。やがて浄土真宗に帰依する僧侶や寺院が多くなったため、八幡六坊は衰退していった[1]。 御剱八幡宮を護持していた八幡六坊のうち、神宮寺釈迦堂と金剛王院大日堂が康全寺の前身とされる[2][3]。応永5年(1398年)、瑞泉寺3世の却外乗空禅師がこの2寺を再興すると、吉良満貞は却外乗空禅師に帰依して堂宇を建立し、吉良山満全寺と名付けた[2][1][3]。 御剱八幡宮 戦国時代[編集] 天正7年(...Wikipediaで続きを読む |
引用元情報 | 「康全寺」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E5%BA%B7%E5%85%A8%E5%AF%BA&oldid=100602380 |
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