【寺院内由緒碑より】
当寺は永禄二年(一、五六〇)恵林寺(太田市矢場町)二世天意長朔大和尚の開創である。開山は永禄十年(一、五六七)二月二十三日に遷化された此の日を開山忌としている。
太田市史に依れば呼称通り「がんしょうじ」で、岩松氏の為に横瀬氏(後の由良氏)が建立したとある。明応三年(一、四九四)岩松家純没後、金山城を支配していた横瀬成繁の子孫が岩松氏一族を追善供養する為の建立である。
永禄三年は織田信長が桶狭間(現在の名古屋市緑区有松町)今川義元を討った年であり、以後室町、安土、桃山、江戸、明治、大正、昭和、平成と八時代を閲し平成十二年は(四百四十年)目に当る、此の間歴代住職はその法灯を守り、現在青木俊亨大和尚は二十三代目として昭和二十一年以来の住職である。
此の永い歴史の中には戦乱、火災、天災に遇うこと屢々で、時代を経て老朽化し先人達が守護し続けた良き伝へを継承せんが為再建を進め二十一世紀に向けて落慶した。増々の興隆、弥栄を願い、此の記念すべき年に当り先祖累代の霊を報恩供養する為、由緒を略記し後世に伝えんが為此の碑を建立す。
【小沼庄左衛門等義民顕彰供養碑】
舘林藩主徳川綱吉(後に五代将軍となる)が、舘林二十五万石に封ぜられて十六年目の、延宝四年(一六七六)二月、舘林藩日向刑場において、領内の農民十八名が、直訴の罪によって磔になるという大事件があった。
数年前からのたびたびの検地、相つぐ不作、加えて下役人の横領等による「農民の窮乏名状すべからず」という。農民はこれらの圧政に苦しみ、藩庁に減税を嘆願したが聞き入れられなかった。
やむなく江戸表に直訴を決意、台之郷村名主小沼庄左衛門・同森尻右馬允・同栗原四郎兵衛・石原村栗原三左衛門・富田村小沼久四郎等が相談し安楽寺において、誰が中心人物であるかわからないように、農民代表十八名が「阿弥陀目安」という放射線状に名前を記した訴状を作成し、決死の覚悟で江戸に上って直訴に及んだという。
この結果農民の願いは聞き入れられたが、直訴は時の御法度の定法により、十八名の代表は舘林藩に引き渡され、延宝四年旧暦二月十五日日向刑場において処刑されたということである。(以上「山田郡誌」等による)
今日私たちが、豊かな繁栄と平和の中で暮らすことができる陰には、このような先人たちが必死の覚悟で、農民大衆のために行動したまさに「菩薩行」ともいえる義民の心があったことを忘れてはならない。
いま世情は、政治・経済・技術の上で、日進月歩の状況ではあるが、一面背すじの凍るような事象が余りにも多い。心の在り方がいまこそ問われる時はないと思われる。
我が身を犠牲にして、大衆のために尽くした十八名の義挙を、声を大にして後々まで伝え顕彰するとともに、義民の霊の安らかならんこと念じ、合わせて報恩感謝と韮川地域の更なる発展と平穏を祈念して、ここに供養塔を建立するものである。