じんごじ|高野山真言宗|高雄山
神護寺公式京都府 トロッコ保津峡駅
9:00~16:00 年中無休
【高雄山(たかおさん)神護寺(じんごじ)】
本尊:薬師如来
宗派:高野山真言宗
開基:和気清麻呂
~百寺巡礼:五木寛之氏が選んだ百の名刹 第23番~
神護寺は、京都市右京区、高雄山の中腹に位置する。神護寺は神願寺(じんがんじ)と高雄山寺(たかおさんじ)が合わさってできた寺で、正式には神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)という。神願寺は、和気清麻呂(733-799)が創設した寺であり、高雄山寺は和気氏の氏寺であったと考えられている。
神願寺の創設には、有名な道鏡(どうきょう)事件が深くかかわっているという。道鏡(700-772)は怪僧ともいわれ、女帝である第48代 称徳天皇(在位:764-770)の寵愛をほしいままにしていた。766(天平神後2)年、道鏡は法王という前例のない位をさずけられ、ついには宇佐八幡宮の神託があったといって、皇位をもねらおうとした。清麻呂は、その神託の真偽を確認するために、現在の大分県にある宇佐八幡につかわされる。そして、帰ってくると、神託は「無道の者を除くべし」とくだったと報告した。それが道鏡の逆鱗に触れ、清麻呂は九州の大隅に流されてしまう。しかし、称徳天皇の死とともに道鏡は失脚し、清麻呂は許されて都にもどる。その後、しだいに朝廷で重きをなすようになり、長岡京の造営に参画するなどして、第50代 桓武天皇(在位:781-806)に信頼され、重用されるようになっていく。それからのち、桓武天皇の許可をうけ、神願寺を建立する。道鏡の祟りを恐れてのことだったともいわれている。
最澄(伝教大師)(766-822)が仏教界のエースとして登場する檜舞台となったのが神護寺の前身である高雄山寺で、802(延暦21)年のこと。清麻呂の長男、広世(ひろよ)が依頼した高雄山寺での講義がきっかけとされる。最澄は、高雄山寺で一年遅れて唐からもどってきた空海(弘法大師)(774-835)とここで出会い、そして別れている。最澄は、京都の東、比叡山で教えを伝え、西の高雄山で空海は真言密教の教えを深めていった。
~『百寺巡礼 第三巻 京都Ⅰ』五木寛之(講談社、2003)~
朝、高山寺の前の駐車場に車を停めて、神護寺まで歩きました。営業開始は9:00と聞いていましたが、早く楼門をくぐることができました。小雨のあと日が射し、色づいたもみじが輝いてとてもきれいでした。
【高雄橋】
~清滝川にかかっている丹塗(にぬ)りの橋をわたると、なにか別世界にきたような感じになる。瀬戸内寂聴さんは、清滝川は聖域の結界の役目を果たしていると書いておられた。なるほど、そういわれてみればそんな気がしないでもない。あたりにふしぎな霊気が満ちているようだ。~
【女人禁制の碑】
【参道】
【参道】
【石地蔵】
【参道】
【硯石】
【硯石亭】
【楼門】
【楼門】
【楼門】
~額縁のように内部の風景を切りとっているこの門をくぐると、一気に視界が開けた。いままでせまく翳った石段をのぼってきたせいか、目が洗われたような気がする。白い砂利を敷きつめた境内は広々とすっきりしていて、山寺とは思えない空間だ。~
【楼門】
振り返って見る楼門。
【和気清麻呂霊廟】
【明王堂】
【五大堂】
【毘沙門堂】
【大師堂】
ここは、空海が寝泊まりしていたといわれる。自ら「納涼房(どうりょうぼう)」と名づけていたという。
~空海は何を考えながらここで過ごしたのだろうか。いま、内部に置かれた厨子のなかには、ふくよかな空海の木像が安置されていた。~
【金堂】
【金堂】
【金堂 石段】
【金堂】
【金堂】
【五大堂・毘沙門堂】
振り返って見る五大堂・毘沙門堂。
【五大堂・毘沙門堂】
【五大堂・毘沙門堂】
【多宝塔】
【多宝塔】
【地蔵院への路】
【閼伽井(あかい)】
【地蔵院】
【地蔵院 扁額】
【厄除 かわら投げ名所】
【錦雲渓(きんうんけい)】
【和気清麻呂墓】
【楼門から見る境内】
虹だ!
【御朱印】
京都市右京区にあるお寺です。
山号は高雄山
宗旨宗派は高野山真言宗
寺格は遺迹本山
ご本尊は薬師如来(国宝)
です。
高雄山の中腹に位置する山岳寺院です。
近くに駐車場があるので助かります。
清滝川に架かる高雄橋から長い参道を歩きます。
脚力には不安がなかったので、気合を入れました。
途中、何人かのお兄さんお姉さん(私より)を申し訳なさそうに追い抜きました。
が。。。長い道のりは、登山ほど急ではないものの、坂道よりは急。階段の幅が微妙に広く、歩幅がとりにくい。
拝観料を払う時には息が上がってしまっていました。
少し息を整えて境内へ。
金堂、多宝塔、大師堂などの歴史を感じる建物がお迎えしてくれます。
御山ですから、広い境内をゆっくり歩きました。
境内の外れには、厄除けかわらけ投げがありました。
渓谷を見下ろす景色に癒されました。が、文覚上人墓まで行く気力は残っていませんでした。
お参りする方は、翌日の筋肉痛を覚悟してください。
神護寺は空海が東寺や高野山の経営に当たる前に一時住した寺であり、最澄もここで法華経の講義をしたことがあるなど、日本仏教史上重要な寺院だそうです。
平安遷都の提唱者であり、また新都市造営の推進者として知られる和気清麻呂は、天応元年(781)、国家安泰を祈願し河内に神願寺を、またほぼ同じ時期に、山城に私寺として高雄山寺を建立している。
神願寺が実際どこにあったのか、確かな資料が残っていないため、いまだ確認されていないが、その発願は和気清麻呂がかねて宇佐八幡大紳の神託を請うた時「一切経を写し、仏像を作り、最勝王経を読誦して一伽藍を建て,万代安寧を祈願せよ」というお告げを受け,その心願を成就するためと伝えられ、寺名もそこに由来している。
また、私寺として建てられた高雄山寺は、海抜900メートル以上の愛宕五寺のひとつといわれているところからすれば、単なる和気氏の菩提寺というよりは、それまでの奈良の都市仏教に飽きたらない山岳修行を志す僧たちの道場として建てられたと考えられる。
愛宕五寺または愛宕五坊と呼ばれる寺は白雲寺、月輪寺、日輪寺、伝法寺、高雄山寺であるが、残念ながら現在にその名をとどめているのは高雄山寺改め神護寺と月輪寺のみである。
その後、清麻呂が没すると、高雄山寺の境内に清麻呂の墓が祀られ、和気氏の菩提寺としての性格を強めることになるが、清麻呂の子息(弘世、真綱、仲世)は亡父の遺志を継ぎ、最澄、空海を相次いで高雄山寺に招き仏教界に新風を吹き込んでいる。
弘世、真綱の兄弟は、比叡山中にこもって修行を続けていた最澄に、高雄山寺での法華経の講演を依頼している。
この平安仏教の第一声ともいうべき講演が終わると、最澄は還学生として唐にわたることとなる。
また、空海は留学生として最澄とともに入唐するが、二年で帰国、三年後にようやく京都に入ることが許されるや高雄山寺に招かれ、以後数年にわたる親交が続けられ、天台と真言の交流へと進展してゆく。
やがて天長元年(824)真綱、仲世の要請により神願寺と高雄山寺を合併し、寺名を神護国祚真言寺(略して神護寺)と改め、一切を空海に付嘱し、それ以後真言宗として今日に伝えている。
神護寺は最澄、空海の活躍によって根本道場としての内容を築いていったが、正暦五年(994)と久安五年(1149)の二度の火災にあい,鳥羽法皇の怒りに触れて全山壊滅の状態となった。
わずかに本尊薬師如来を風雨にさらしながら残すのみであった惨状を見た文覚は、生涯の悲願として神護寺再興を決意するが、その達成への道はとても厳しかった。
上覚や明恵といった徳の高い弟子に恵まれ元以上の規模に復興された。
その後も天文年中の兵火や明治初年の廃仏毀釈の弾圧にも消えることなく法灯を護持している。
名称 | 神護寺 |
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読み方 | じんごじ |
参拝時間 | 9:00~16:00 年中無休 |
参拝料 | 大人600円、小学生300円 |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | あり |
御朱印帳に直書き | あり |
御朱印の郵送対応 | なし |
御朱印帳 | あり |
電話番号 | 075-861-1769 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://www.jingoji.or.jp/ |
SNS |
西国薬師四十九霊場 第44番 | 御真言: おん ころころ せんだり まとうぎ そわか |
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仏塔古寺十八尊 第7番 | 御本尊:薬師如来 |
神仏霊場巡拝の道 | |
数珠巡礼 第42番 |
ご本尊 | 薬師如来(国宝) |
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山号 | 高雄山 |
宗旨・宗派 | 高野山真言宗 |
創建時代 | 781(天応元年) |
開山・開基 | 和気清麻呂 |
本堂 | 入母屋造 |
ご由緒 | 平安遷都の提唱者であり、また新都市造営の推進者として知られる和気清麻呂は、天応元年(781)、国家安泰を祈願し河内に神願寺を、またほぼ同じ時期に、山城に私寺として高雄山寺を建立している。
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体験 | 国宝重要文化財札所・七福神巡り |
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