ほんぷくじ|浄土真宗本願寺派|夕陽山
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境内の四方に枝を伸ばした松の木は見応えがありました
この寺の住職が芭蕉の弟子となった事から句碑が多く見られ 蓮如上人が京都を追われ一時身を寄せていた事から蓮如上人御愛樹という梅の木もありました
浄土真宗本願寺派(西本願寺)
本願寺旧跡 堅田本坊
夕陽山 本福寺さまに参拝しました。
<本福寺の沿革>
本福寺は、山号を夕陽山(せきようざん)とする浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属する寺院です。
開基は、鎌倉時代後期正和年間に滋賀県野洲郡御上神社の神職であった善道が、本願寺第三代門主覚如上人の御教化を受け浄土真宗に帰依し、念仏の道場を開いたこととされています。
第二世覚念の時代には、一度禅宗に傾倒しましたが、第三世法住(ほうじゅう)の時代に本願寺門下となりました。法住が蓮如上人の片腕として活躍した時代には、幾度となく比叡山からの迫害を受け、上人にとっても堅田で過ごされたひと時は、苦難の時代であったと思われます。
第五世明宗の時代には本願寺から三度の破門を受け、第六世明誓と共に寺院壊滅の危機にまで至った苦しい時代を過ごしました。
<蓮如上人と法住>
法住は、比叡山の僧兵から迫害を受けた蓮如上人の命をよく護り、念仏繁盛に努めました。法住が蓮如上人から授かり、比叡山の根本中堂に掲げたと言われる十字名号(『帰命尽十方無碍光如来』)をよく見ると、縦と横とに折りたたまれた跡が残っています。また、本来あったであろう、上下の軸木は切り落されてありません。その姿からは、大きな名号を細かく畳み、懐に収め、険しい山道を命がけで持ち帰ったと言われる法住の苦労を垣間見ることができます。
1468(応仁2)年に比叡山延暦寺によって攻め入られた堅田は焼け野原となり、堅田門徒は沖島に逃げ延びることとなります。(堅田大責)その後、礼銭・礼物を支払うことによってようやく還住を許されます。
この様な度重なる困難を乗り越えて、今こうしてこの堅田の地には、変わることなくお念仏の声が高らかに響いています。
<中世の堅田>
堅田は下鴨神社の御厨となり、湖上の自由通行権を得ていました。この特権を背景に漁業・交易・通行の各権に力を持った堅田衆は、湖上の航海を害する海賊を防ぐため上乗として乗船し、その謝礼として金品を得ました。また、足利尊氏から水陸の関務を許され、運送の十分の一を収納する権利を認められていたと言われ、堅田衆は政治・経済的にも有力であったと考えられます。
その繁栄を基盤とし、堅田には早くから自治的組織が形成され、殿原衆(とのばらしゅう)や全人衆(まろうどしゅう)をはじめとした階層社会が成立しました。また、村掟が制定され、寄り合いでの話し合いにより物事が決められました。庄の指導的立場にあった殿原衆に対し、全人衆は一般の農民・漁夫・舟乗・商工業者達で、浄土真宗を信じ本福寺を中心に結集していました。この階層社会も堅田大責めを契機に解消へと向かいますが、その後全住人をあげて共同体作りを目指します。そこには、同朋思想を基本理念とする真宗門徒が中心的役割を果たしたと言われています。
(本福寺さまパンフレットより写書き)
親子二代でこちら併設の保育園にお世話になり、卒園しました。
お寺さまは、いつも子ども達のにぎやかな明るい声に囲まれています。
あらゆるいのちを大切にする心、自分自身の存在もまた無数の縁によって頂いた尊いものだと感じられるように、という本福寺さまの願いのもと、親も子も共育して頂きました。
ご住職さまはまだお若いですが、素晴らしい教学を凡夫の私達にも分かりやすく、お分け下さいます。
坊守さまはお美しい方で、檀家衆にお気遣い下さりながら、気さくにお付き合い下さいます。
前ご住職さま、前坊守さまにも大変お世話になりました。いつも感謝致しております。😊🙏🏻
本福寺 山門
門前の掲示板
門を入って右手側
同じく右手側
門をくぐって左手側にある鐘楼
毎年、除夜の鐘を撞かせて頂きます。😊🙏🏻
即如上人御手植の松
徳仁親王殿下御参拝記念碑
手水舎
手水舎井戸
手水の龍🐲さま
御本堂前の松 役員さん、檀家の皆さまの手厚いお手入れで綺麗です。
蓮如上人御像
御本堂正面向かって右側
御本堂 平成7年に鉄筋建築にて落成
御本堂 扁額
御本堂内部
併設の本福寺保育園園児も、阿弥陀如来さま、親鸞御上人さま、蓮如御上人さまへの毎朝の仏参、式典や各行事に使用します。仏さまに手を合わせることは自分を支える無数のいのちに手を合わせるということ。その参拝の姿は、可愛いさと、小さいながらも立派に荘厳に行われています。
幼き子ども達の、お念珠に通された小さな小さな手、合掌するその姿から、大人のこちらが教化される思いで感動致します😊🙏🏻
御本堂内部の扁額
香炉
御内陣
御本尊 阿弥陀如来さま
蓮如御上人さま自作の木像
園庭を兼ねた境内にある、大銀杏。
毎年、たくさんの銀杏の実がなります。
ご住職さまが、檀家衆にその実りをお分け下さいます。😊🙏🏻
境内にある蔵
今一度、門前から。
おまけ
門前そばには、湖族の郷資料館があります。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)
本願寺旧跡 堅田本坊
夕陽山 本福寺さんに新年初参拝しました。
<本福寺の沿革>
本福寺は、山号を夕陽山(せきようざん)とする浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属する寺院です。
開基は、鎌倉時代後期正和年間に滋賀県野洲郡御上神社の神職であった善道が、本願寺第三代門主覚如上人の御教化を受け浄土真宗に帰依し、念仏の道場を開いたこととされています。
第二世覚念の時代には、一度禅宗に傾倒しましたが、第三世法住(ほうじゅう)の時代に本願寺門下となりました。法住が蓮如上人の片腕として活躍した時代には、幾度となく比叡山からの迫害を受け、上人にとっても堅田で過ごされたひと時は、苦難の時代であったと思われます。
第五世明宗の時代には本願寺から三度の破門を受け、第六世明誓と共に寺院壊滅の危機にまで至った苦しい時代を過ごしました。
<蓮如上人と法住>
法住は、比叡山の僧兵から迫害を受けた蓮如上人の命をよく護り、念仏繁盛に努めました。法住が蓮如上人から授かり、比叡山の根本中堂に掲げたと言われる十字名号(『帰命尽十方無碍光如来』)をよく見ると、縦と横とに折りたたまれた跡が残っています。また、本来あったであろう、上下の軸木は切り落されてありません。その姿からは、大きな名号を細かく畳み、懐に収め、険しい山道を命がけで持ち帰ったと言われる法住の苦労を垣間見ることができます。
1468(応仁2)年に比叡山延暦寺によって攻め入られた堅田は焼け野原となり、堅田門徒は沖島に逃げ延びることとなります。(堅田大責)その後、礼銭・礼物を支払うことによってようやく還住を許されます。
この様な度重なる困難を乗り越えて、今こうしてこの堅田の地には、変わることなくお念仏の声が高らかに響いています。
<中世の堅田>
堅田は下鴨神社の御厨となり、湖上の自由通行権を得ていました。この特権を背景に漁業・交易・通行の各権に力を持った堅田衆は、湖上の航海を害する海賊を防ぐため上乗として乗船し、その謝礼として金品を得ました。また、足利尊氏から水陸の関務を許され、運送の十分の一を収納する権利を認められていたと言われ、堅田衆は政治・経済的にも有力であったと考えられます。
その繁栄を基盤とし、堅田には早くから自治的組織が形成され、殿原衆(とのばらしゅう)や全人衆(まろうどしゅう)をはじめとした階層社会が成立しました。また、村掟が制定され、寄り合いでの話し合いにより物事が決められました。庄の指導的立場にあった殿原衆に対し、全人衆は一般の農民・漁夫・舟乗・商工業者達で、浄土真宗を信じ本福寺を中心に結集していました。この階層社会も堅田大責めを契機に解消へと向かいますが、その後全住人をあげて共同体作りを目指します。そこには、同朋思想を基本理念とする真宗門徒が中心的役割を果たしたと言われています。
(本福寺さまパンフレットより写書き)
我が家の菩提寺、本福寺さんであります。
併設の保育園は、冬休みで静かでありましたが、いつ参拝させて頂きましても、境内が綺麗で、古木の巨大な松の木は美しく手入れされておられ、大銀杏の木も同様に、勢い衰えず元気でいてくれて、心をホッと和ませて頂きました。
除夜の鐘を撞きにはこれませんでしたが、きっと近隣のお寺さまの鐘の音と共に、堅田の町は、今年もあちこちで祈りの鐘の音が響いたことでしょう♪
本堂
扁額
本堂内
御本尊 阿弥陀如来さま
本堂内 扁額
蓮如上人御像
御本堂正面向かって右側
併設の本福寺保育園
名称 | 本福寺 |
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読み方 | ほんぷくじ |
電話番号 | 077-572-0044 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
SNS |
詳細情報
山号 | 夕陽山 |
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宗旨・宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
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