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がんじょうじ|曹洞宗鳳凰山

願成寺
山梨県 韮崎駅

御朱印について
御朱印
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御朱印帳
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パーキング
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巡礼

その他の巡礼の情報

甲斐百八霊場 第77番
武川筋観音霊場 第33番

おすすめの投稿

たくまん
たくまん
2022年05月29日(日)
556投稿

甲斐源氏ゆかりの地を巡るツアーで訪れました。
1か月ぶり3度目のお詣り。

住職さんが観音堂の扉を開けて頂いて、みんなでお堂に入って説明を伺うという貴重な体験をすることが出来ました。こういうのはツアーならではで良い経験となりますね。

願成寺の地蔵

本堂の手前左側にお地蔵さんがおられるのですが

願成寺(山梨県)

そこの敷石の一つが石臼ってことに気づきました。先日深谷で参道に石臼が敷き詰められていた神社にお詣りしていなければ多分一生気づかなかったでしょう。

願成寺(山梨県)

先月は桜を楽しみましたが、夏は夏でまた花が咲くのが楽しみですね。

願成寺の建物その他
願成寺(山梨県)
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たくまん
たくまん
2022年05月24日(火)
556投稿

甲斐百八霊場第77番
武川筋三十三観音結願所
宗派は曹洞宗、ご本尊様は阿弥陀如来様。

JR中央本線韮崎駅から徒歩25分くらいのところに居られます。

宝亀2年(771年)の創建と伝えられています。
その後、甲斐源氏4代武田氏初代武田義信が武田の荘に館を建て祈願寺として中興されたそうです。

奇麗に掃除の行き届いた境内はとても清々しく、桜など春の花や良く晴れた青空が境内を彩っていました。

願成寺の本殿
願成寺の建物その他

石段の両脇には秩父三十四観音の写しが居られます。1666年に安置されてから一体もかけることなく当時の姿で参拝者を迎えてくださいます。

願成寺の山門

室町時代の手法を模した山門です。1864年の台風で倒壊したそうで、1990年に再建されたそうです。

願成寺(山梨県)

山門をくぐると参道がまっすぐ伸びて正面に本堂が居られます。両脇にはベンチもあるので上り坂と石段での疲れも癒せますね。

願成寺の建物その他

甲斐源氏武田氏の御位牌を安置されている御霊殿です。

願成寺の自然

桜が奇麗に咲いていました。

願成寺の自然
願成寺の仏像

観音様も参道の坂道を登ってくる参拝者を見守って下さいます。

願成寺(山梨県)

山門向かって右側には武田家家臣招魂の碑がございます。

願成寺(山梨県)

青空に桜が映えてますね。

願成寺の自然
願成寺の建物その他

武田義信公のお墓がございます。

願成寺(山梨県)

平安末期から鎌倉時代に作られたと伝えられる阿弥陀三尊がおられます。戦火や災害に見舞われながらも難を逃れ、当時の姿のまま我々を見守って下さってます。

願成寺の自然
願成寺の建物その他
願成寺の景色

眺めがまた良いですね。

願成寺の山門
願成寺の建物その他
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歴史

~Wikipediaより~

甲府盆地の西部、釜無川右岸の氾濫原から市域西部の山麓地域に至る神山地区の東部に位置する。神山町北宮地の武田八幡宮へ至る街道の南側に立地する。中世には巨摩郡武田郷、近世の九筋二領では北山筋鍋山村にあたり、付近には武田八幡宮のほか、神山町鍋山の鍋山山頂には武田信義築城と伝わる白山城跡が存在するなど、甲斐源氏・武田氏ゆかりの史跡が多い。

古代甲斐国では天台宗・真言宗の密教が伝わっており、願成寺も創建当時は天台宗寺院であったと言われる[1]。甲斐国では平安時代後期に常陸国から源義清・清光(逸見冠者)が甲斐国の市河荘へ土着し、その子孫は甲斐源氏として盆地各地へ進出した。山梨県内には義清・清光開創を伝える寺院は多い[2]。

『甲斐国志』に拠れば、願成寺は源清光の子で甲斐源氏棟梁・武田氏始祖の武田信義(願成寺殿)が開祖であると言われる[3]。鎌倉時代に甲斐源氏の一族は源頼朝の粛清を受けて没落する。

戦国時代には守護・武田氏により中興され、臨済宗に改宗されたという。『甲斐国志』によれば、戦国期に住職となった願成寺俊虎(がんじょうじ しゅんこ)は武田晴信(信玄)の甥にあたるとされるが、系譜関係は不明[4]。

武田氏滅亡後、武田遺領を巡る天正壬午の乱や慶長12年(1607年)の火災で寺宝を消失したという。近世には承応年間に然室が中興し、曹洞宗に改宗され、上条南割村の大公寺末寺となる。

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3
名称願成寺
読み方がんじょうじ
御朱印あり

限定御朱印なし
御朱印帳なし
電話番号0551-22-3118
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巡礼の詳細情報

甲斐百八霊場

第77番

御本尊:阿弥陀如来

詳細情報

ご本尊阿弥陀如来
山号鳳凰山
宗旨・宗派曹洞宗
創建時代771年(宝亀2年)
文化財

~Wikipediaより~

重要文化財(国指定)
木造阿弥陀如来及び両脇侍像 - 昭和14年9月8日指定
当寺本尊の木造阿弥陀三尊像。木造(寄木造)・漆箔[5]。来迎印の阿弥陀如来坐像を中尊とし、左脇侍(向かって右)として蓮台を捧げ持つ観音菩薩立像、右脇侍(向かって左)として合掌する勢至菩薩立像を安置する。像高は阿弥陀如来像が146.1センチメートル、観音菩薩像が169.7センチメートル、勢至菩薩像が168.5センチメートル[6]。
甲斐源氏の棟梁である武田信義の発願による造立と伝わる平安末期(12世紀後半代)の作[7]。当時の浄土信仰に基づく来迎形の阿弥陀三尊像で、いずれも作風は定朝様(じょうちょうよう)である。定朝は11世紀半ばに中央で活躍した仏師で、12世紀にはその様式が各地に広まり、甲斐においても願成寺阿弥陀三尊像のほか、甲斐善光寺(甲府市善光寺町)の2組の阿弥陀三尊像(1組は韮崎市北宮地の大仏堂の旧像)などの定朝様の作例が知られる。中尊像が坐し、観音・勢至菩薩が立像である形式は平安時代末期から鎌倉時代初期の時期に出現し、鎌倉期には三尊とも立像の形式に変化する[8]。甲斐源氏の一族は氏神である八幡神の本地仏である阿弥陀如来を信仰し、本像は甲斐源氏の阿弥陀信仰を示す像として注目されている。
ほか、文化財としては鎌倉期の阿弥陀三尊像(中尊は定印)や一条信長寄進の大般若経の一部などが所蔵されている。また、境内に残る五輪塔は鎌倉様式で、武田信義の墓所と伝わる。

ご由緒

~Wikipediaより~

甲府盆地の西部、釜無川右岸の氾濫原から市域西部の山麓地域に至る神山地区の東部に位置する。神山町北宮地の武田八幡宮へ至る街道の南側に立地する。中世には巨摩郡武田郷、近世の九筋二領では北山筋鍋山村にあたり、付近には武田八幡宮のほか、神山町鍋山の鍋山山頂には武田信義築城と伝わる白山城跡が存在するなど、甲斐源氏・武田氏ゆかりの史跡が多い。

古代甲斐国では天台宗・真言宗の密教が伝わっており、願成寺も創建当時は天台宗寺院であったと言われる[1]。甲斐国では平安時代後期に常陸国から源義清・清光(逸見冠者)が甲斐国の市河荘へ土着し、その子孫は甲斐源氏として盆地各地へ進出した。山梨県内には義清・清光開創を伝える寺院は多い[2]。

『甲斐国志』に拠れば、願成寺は源清光の子で甲斐源氏棟梁・武田氏始祖の武田信義(願成寺殿)が開祖であると言われる[3]。鎌倉時代に甲斐源氏の一族は源頼朝の粛清を受けて没落する。

戦国時代には守護・武田氏により中興され、臨済宗に改宗されたという。『甲斐国志』によれば、戦国期に住職となった願成寺俊虎(がんじょうじ しゅんこ)は武田晴信(信玄)の甥にあたるとされるが、系譜関係は不明[4]。

武田氏滅亡後、武田遺領を巡る天正壬午の乱や慶長12年(1607年)の火災で寺宝を消失したという。近世には承応年間に然室が中興し、曹洞宗に改宗され、上条南割村の大公寺末寺となる。

体験御朱印重要文化財札所・七福神巡り
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