あかばねはちまんじんじゃ
赤羽八幡神社東京都 赤羽岩淵駅
9:30~16:30(土日は17:00まで、火は御朱印お休み)
御朱印(1種類)
赤羽八幡神社では、「月替わり御朱印」をいただけます。
また、季節や行事に合わせたカラフルな御朱印が頒布されています。
月替わり御朱印(2月)
梅の花とウグイスがデザインされた御朱印で、右下に赤羽八幡神社と書かれ、上部に無限大マーク、下部に赤羽八幡神社の印が押されています。
下元八運とは風水における周期の中の期間で、下元八運期の最大吉数である8を横にすることで無限大となり最もパワーのある象徴となると考えられています。
御朱印 | 毎月変わる御朱印がカラフルでカワイイ! | ||
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限定 | |||
御朱印帳 | |||
駐車場 | - |
赤羽駅から徒歩10分ほど🚶♂️東北・上越・北陸新幹線、埼京線のトンネルがあり、日本で唯一の「新幹線の上に鎮座する神社」として知られています✨撮り鉄ではないけど高台の境内から複数の電車が往来しているのを見ていると楽しくて時間を忘れてしまいます♪縁結びの神様が祀られていて縁結びのかわいいお守りがたくさんありました💓また御朱印やお守りに「∞」無限大マークを使っているので関ジャニの聖地でもあるそうです😊
天気が急変したのでこの後、急いで帰りました💦奇跡的に洗濯物が濡れず❗️神様に感謝しました🙏💕
御祭神
品陀和気命 応神天皇 十五代天皇 (主神)
帯中津日子命 仲哀天皇 十四代天皇 (応神天皇の父)
息長帯比売命 神功皇后 (応神天皇の母)
御由緒
延暦三年(1200年前)、朝廷より奥州鎮圧を命ぜられた坂上田村麿呂(さかのうえのたむらまろ)が、此の地に陣を張って上の三神を勧請して武運長久を祈願したことにより創建されたと伝承されています。その後、源頼光 頼政 太田道潅一族らの再興修造があり、1552年太田新六郎康資の「八幡禰宜 朝日輿五右衛門殿」宛の寄進状が伝えられています。江戸時代には、赤羽根村 下村 袋村 稲付村 岩淵郷の総鎮守とされました。
時代時代の国策に翻弄され続けた神社
明治16年に上野熊谷間の鉄道敷設によって宝幢院とつながっていた敷地を分断された。
明治20年、陸軍工兵大隊の大手町からの移駐先に社殿の後背地を管轄していた東京府から差し出されて供出。
明治41年稲付に出来た兵器補給廠と東北本線との武器輸送のために現参道に軍用鉄道敷設。
大正には東北上越方面との物資輸送増大で旧参道部分に赤羽貨物駅設置。
戦後になって昭和60年東北新幹線と埼京線敷設のため、こんどはお山の腹にトンネル貫通。
かつて徳川家の庇護や加増もあって、明治の初年ころには四千坪を有する雄社であったが、このように時代ごとの国策の影響をかむって身を削られ続けてきた神社である。これも太古、地の利をもって坂上田村麿が東北地方鎮圧のための拠点と定めた時からの宿命なのか。現在も、時代遅れでとうに建設不要とみられる都道85号線道路計画にまた参道と階段が計画線上に掛り、神社は苦慮している最中である。
神社ホームページより
参道は真っ直ぐ、高架下を潜ります。車の場合は左手の坂道を進みます。
石段を上ります🚶♂️
社殿が見えます✨
手水舎✨
右手に神楽殿✨
彫刻が素晴らしいです✨
境内社へお参り🙏
シンボルになっているウサギの石像💓
縁結びの神様💓
更に高いところに社務所があります✨
最初の入り口、車道は左へ
結構急です。
鳥居を潜ります。
通常(直書き)御朱印いただきました😊
新幹線、色とりどりの電車が通っていました😊
百日紅の花がきれいでした🤗
赤羽八幡神社と俗称され、祭神は品陀和氣命(応神天皇)、帯中津日子命(仲哀天皇。『日本書紀』によれば、応神天皇の父)、息長帯比賣命(神功皇后。『日本書紀』によれば、仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)です。江戸時代、この神社は岩淵郷五ヵ村(赤羽根村・下村・袋村・稲付村・岩淵宿)の総鎮守であり(『新篇武蔵風土記稿』)、現在もその地域の総鎮守となっています。
創建年代等は不詳ですが、伝説によれば、延暦年中(782-806、平安時代)坂上田村麻呂(758-811。平安初期の武将。蝦夷地平定に大きな功績を残す。その一生は模範的武将として尊崇され、征夷大将軍の職名は長く武門の栄誉とされた)が東征の途次このあたりに陣を敷いてこの三神を勧請したのにはじまり、長徳年中(995-9、平安時代)源頼光が社殿を再興し、久寿年間(1154-56、平安時代)源頼政が修造を加え、応永(1394-1428、室町時代)正長(1428-29、室町時代)の頃、地頭であった太田資清(太田道灌の父)が社領として一貫文の地を寄進し、文明元年(1469、室町時代)太田道灌が社殿を再建したといいます(『岩淵町郷土誌』)。
これはさておき、ここには太田新六郎康資(太田道灌の曾孫)の、天文二十年(1551、室町時代)の寄進状が伝えられており、その文面は、
岩淵之内赤場根八幡領之事 合壹貫文之所者
右爲社領如前々闕之候、且々私之修理おも加可申候、萬一自分を爲本無沙汰に付而は可放取者也、仍而如件天文廿年辛亥十二月廿八日 太田新六郎 康資 華押
八幡 禰祇 朝日輿五右衛門殿
となっています。従って、この神社は、室町時代末期以前からあったことは確実です。
また、『新篇武蔵風土記稿』に、「赤羽根村……今ハ東叡山及傳通院村内寶幢院八幡社領、入曾ノ村ナリ」と記されており、慶安二年(1649、江戸時代)に七石余の朱印が付されていることから(『岩淵町郷土誌』)、江戸時代、この神社は、年貢・課役の免除を保証された領地を赤羽根村内に七石余有していたことも確実といえましょう。
現在の本殿は昭和六年改築されたものです。その向かって右側に神楽殿がありますが、これは絵馬堂を兼ね、絵馬三枚納められています。
この神社が祀られている台地は、武蔵野台地の東北端にあたり、東は荒川沿岸の冲積地に、西は八幡ノ谷に面しています。そして、この境内からは縄文式土器・弥生式土器・土師器が発見されており、縄文時代中期・弥生時代後期・歴史時代の遺跡とされ、八幡神社遺跡と呼ばれていますが、学術調査はまだ行われていないようであり、詳細は不明です(『東京都遺跡地図』東京都教育委員会)。
この神社より星美学園敷地(旧陸軍第一師団工兵第一大隊兵舎跡)、国立王子病院敷地(旧陸軍近衛工兵大隊兵舎跡)およびその周辺にかけての台上一帯(旧陸軍兵器支廠赤羽火薬庫、作業場等跡)は、八幡原と呼ばれ、坂上田村麻呂が陣を敷いたところという伝説があります。
明治五年、稲付に旧陸軍の火薬庫が設けられ、同二十年、第一・近衛両工兵隊の移転があって以来、赤羽の台地には旧陸軍関係の施設の移転・拡張等があいつぎ、赤羽は「陸軍の町」となっていきました。この神社の境内にある工一記念碑や赤羽招魂社(旧工兵第一大隊兵舎内にあった招魂社。現在は赤羽町の戦歿者の霊も合祀)などは、その当時の名残です。また、ここから星美学園に至る坂は、第一・近衛両工兵隊にちなんで工兵坂とも師団坂とも呼ばれています。
名称 | 赤羽八幡神社 |
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読み方 | あかばねはちまんじんじゃ |
参拝時間 | 9:30~16:30(土日は17:00まで、火は御朱印お休み) |
御朱印 | あり 毎月変わる御朱印がカラフルでカワイイ! |
限定御朱印 | あり |
御朱印帳 | あり |
電話番号 | 03-3908-1764 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://ak8mans.com/ |
おみくじ | あり |
お守り | あり |
絵馬 | あり |
ご祭神 | 帯中津日子命、息長帯比売命、品陀和気命 |
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創建時代 | 延暦三年(784) |
ご由緒 | 赤羽八幡神社と俗称され、祭神は品陀和氣命(応神天皇)、帯中津日子命(仲哀天皇。『日本書紀』によれば、応神天皇の父)、息長帯比賣命(神功皇后。『日本書紀』によれば、仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)です。江戸時代、この神社は岩淵郷五ヵ村(赤羽根村・下村・袋村・稲付村・岩淵宿)の総鎮守であり(『新篇武蔵風土記稿』)、現在もその地域の総鎮守となっています。
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体験 | 御朱印お守り |
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