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あかばねはちまんじんじゃ

赤羽八幡神社の御由緒・歴史
東京都 赤羽岩淵駅

ご祭神帯中津日子命、息長帯比売命、品陀和気命
創建時代延暦三年(784)
ご由緒

赤羽八幡神社と俗称され、祭神は品陀和氣命(応神天皇)、帯中津日子命(仲哀天皇。『日本書紀』によれば、応神天皇の父)、息長帯比賣命(神功皇后。『日本書紀』によれば、仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)です。江戸時代、この神社は岩淵郷五ヵ村(赤羽根村・下村・袋村・稲付村・岩淵宿)の総鎮守であり(『新篇武蔵風土記稿』)、現在もその地域の総鎮守となっています。
 創建年代等は不詳ですが、伝説によれば、延暦年中(782-806、平安時代)坂上田村麻呂(758-811。平安初期の武将。蝦夷地平定に大きな功績を残す。その一生は模範的武将として尊崇され、征夷大将軍の職名は長く武門の栄誉とされた)が東征の途次このあたりに陣を敷いてこの三神を勧請したのにはじまり、長徳年中(995-9、平安時代)源頼光が社殿を再興し、久寿年間(1154-56、平安時代)源頼政が修造を加え、応永(1394-1428、室町時代)正長(1428-29、室町時代)の頃、地頭であった太田資清(太田道灌の父)が社領として一貫文の地を寄進し、文明元年(1469、室町時代)太田道灌が社殿を再建したといいます(『岩淵町郷土誌』)。
 これはさておき、ここには太田新六郎康資(太田道灌の曾孫)の、天文二十年(1551、室町時代)の寄進状が伝えられており、その文面は、
 岩淵之内赤場根八幡領之事 合壹貫文之所者
 右爲社領如前々闕之候、且々私之修理おも加可申候、萬一自分を爲本無沙汰に付而は可放取者也、仍而如件天文廿年辛亥十二月廿八日 太田新六郎 康資 華押
 八幡 禰祇 朝日輿五右衛門殿
となっています。従って、この神社は、室町時代末期以前からあったことは確実です。
 また、『新篇武蔵風土記稿』に、「赤羽根村……今ハ東叡山及傳通院村内寶幢院八幡社領、入曾ノ村ナリ」と記されており、慶安二年(1649、江戸時代)に七石余の朱印が付されていることから(『岩淵町郷土誌』)、江戸時代、この神社は、年貢・課役の免除を保証された領地を赤羽根村内に七石余有していたことも確実といえましょう。
 現在の本殿は昭和六年改築されたものです。その向かって右側に神楽殿がありますが、これは絵馬堂を兼ね、絵馬三枚納められています。
 この神社が祀られている台地は、武蔵野台地の東北端にあたり、東は荒川沿岸の冲積地に、西は八幡ノ谷に面しています。そして、この境内からは縄文式土器・弥生式土器・土師器が発見されており、縄文時代中期・弥生時代後期・歴史時代の遺跡とされ、八幡神社遺跡と呼ばれていますが、学術調査はまだ行われていないようであり、詳細は不明です(『東京都遺跡地図』東京都教育委員会)。
 この神社より星美学園敷地(旧陸軍第一師団工兵第一大隊兵舎跡)、国立王子病院敷地(旧陸軍近衛工兵大隊兵舎跡)およびその周辺にかけての台上一帯(旧陸軍兵器支廠赤羽火薬庫、作業場等跡)は、八幡原と呼ばれ、坂上田村麻呂が陣を敷いたところという伝説があります。
 明治五年、稲付に旧陸軍の火薬庫が設けられ、同二十年、第一・近衛両工兵隊の移転があって以来、赤羽の台地には旧陸軍関係の施設の移転・拡張等があいつぎ、赤羽は「陸軍の町」となっていきました。この神社の境内にある工一記念碑や赤羽招魂社(旧工兵第一大隊兵舎内にあった招魂社。現在は赤羽町の戦歿者の霊も合祀)などは、その当時の名残です。また、ここから星美学園に至る坂は、第一・近衛両工兵隊にちなんで工兵坂とも師団坂とも呼ばれています。

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