かんえいじ|天台宗|東叡山
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楽しみ方寛永寺(根本中堂)のお参りの記録一覧
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1625年天海によって創建された。
4代家綱、5代綱吉の廟が上野に営まれ、以降徳川家の菩提寺となった。
元々の境内地は現在の上野公園全域に渡っており、創建当事の根本中堂は上野公園にあったが、幕末の彰義隊の兵火で焼失した。
現在の根本中堂は1879年に川越喜多院の本地堂(1638年建築)を移築したものである。
清水観音堂は1631年の建築、旧本坊表門は寛永年間(1624年~1644年)建築で重文指定されている。
上野に大仏があったのは知らなかった。かつては大仏殿も存在していた。
1631年漆喰製のものが初代であったが地震で倒壊したため、万治年間(1658年~1661年)に金銅製の2代目を鋳造。1698年大仏殿が建築された。
1841年大仏殿が焼失、大仏の頭部が溶ける。
現在の大仏の名残(顔のレリーフ)は1843年に鋳造された3代目のものである。
1875年に大仏殿が撤去され露仏となり、1923年の関東大震災で頭部が落下、大破した。
1940年大東亜戦争の軍需金属資源として胴体が供出され、現在は顔部分のみが残されている。



個人的な感想として、東叡山寛永寺は全体の作りが比叡山に似ているなと思った。実に単純な人間である。
それを、親しくしている天台宗のちょっと悪い和尚さまに話した。
「江戸城の鬼門に寛永寺を作り琵琶湖を模して不忍池も作り、京都の名物も誘致して比叡山を関東に持ってきたんだね。」
とのことで、何もなかった未開発の土地を家康が天海上人を信頼しながら作り上げたことが窺えるのであった。
元々、江戸幕府が開かれる前の江戸は大変な田舎だった。豊臣秀吉からの命令から家康は東に行かされるわけだが、その後の家康は実に素晴らしいなと思うことが幾つもある。
それは、芝増上寺にみられるような、庶民が自由に暮らせる町作り。神道も仏教もどちらでもよしとする神仏習合で宗教の自由を認めたのだ。
そして、家康の側近として活躍された天海上人。この方の存在なくしては、江戸の発展、江戸幕府の安泰はなかったのではないだろうか、と勝手に思っている。
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