かんのんじ|天台宗|伊富貴山
観音寺のお参りの記録一覧
源氏山・三島池を散策してから約3km離れた観音寺へ🚗³₃
「近江西国三十三 第12番札所」です。
仁寿年間(851年 - 854年)、三修によって創建されました。
長浜城主の羽柴秀吉が鷹狩りで立ち寄った際、寺の小僧をしていた石田三成を「三碗の才」で見出したことで有名です。
本堂横にお寺の説明をしてくれる台が置いてあり、御朱印もそこに入ってました。
仁寿年間(851年~854年)三修沙門によって創建された。
もとは伊吹山山中にあって弥高寺、太平寺、長尾寺とともに四大護国寺と称されていた。
正元年間(1259年~1260年)現在地に移ったとされる。
鎌倉期から室町期には地頭・佐々木大原氏の、戦国期は浅井亮政、久政、長政の保護を受けた。
長浜城主の羽柴秀吉が鷹狩りで立ち寄った際、寺の小僧をしていた石田三成が一杯目は大きい茶碗でぬるめのお茶を、二杯目は中くらいの茶碗でやや熱めのお茶を、三杯目は小さい茶碗に熱いお茶を差し出し、才能を認められ召し出されたという「三碗の才」の舞台となった場所でもある。
この時のお茶の水を汲んだとされる井戸が現在に伝わっている。
本堂(1715年再建)、鐘楼(1725年建築)、惣門(1725年建築・長浜城の裏門を移築したものとされる)は重文指定されている。
本堂
本堂
本堂
本堂
薬師堂
鐘楼
鐘楼
惣門
惣門
蓮池
蓮池(奥・伊吹山)
石田三成水汲みの井戸
石田三成水汲みの井戸
正式名称は伊富貴山観音護国寺、大原観音寺とも称されている天台宗寺院。伊吹四大護国寺(※)の一つ。仁寿年間(851~853年) に三修沙門によって開基され、元慶2年(878年)定額寺に列せられた。寺坊は、盛時には二十三坊あったといわれるが、現在は本坊、玉泉院の二坊を残すのみとなっている。
戦国時代、秀吉が鷹狩りで立ち寄った際、寺の小僧をしていた石田三成と出会い、「三椀の才」で見出だしたことでも名高い寺である。
(※)弥高護国寺(悉地院)、長尾護国寺(惣持寺)、観音護国寺(観音寺)、太平護国寺(太平観音堂)
山門
かろうじて文字が読めました‼️
玉泉院
観音寺本坊
まだまだ続きます
手水舎
本堂
薬師堂
鐘楼
御朱印の初穂料300円を投入すると、読経の音声テープが流れました😌
三成水汲みの井戸①
三成水汲みの井戸②
観音寺 参拝日 令和3年10月30日
近江三十三ヶ所観音霊場第十二番の御朱印(書置き)を頂きました
近江三十三霊場納経帳のページ
近江三十三ヶ所観音霊場第十二番の御朱印
秀吉公と三成公が出会ったお寺として有名です。水汲みの井戸は惣門をくぐって左手奥にありました。石段を登ると正面に本堂、廊下づたいに右手に薬師堂がありました。参拝は私達二人だけでマスクを外して自由に散策しました。鐘楼の前のベンチで一服。ここは三成公が修行していらして、秀吉公がお供の清正公や正則公と訪れた場所。私、この頃の秀吉公が一番好きかな。おね様も訪れたのかな。ひとときコロナを忘れて歴史のロマンに浸りました。
惣門
石田三成 水汲みの井戸
手水舎
本堂
鐘楼
薬師堂
本坊 修理中でした
近江西国三十三所第十二番 御朱印は書き置きで本坊入り口のショーケースの中に置かれていました。
びわ湖百八霊場第四十七番
石田三成公と羽柴秀吉の出逢いのお寺。
近くには三杯のお茶の水を汲んだ井戸が…。
結構立派なお寺ですが手入れが…。勿体無いです。
山門
階段を上がると…
立派な本堂
本堂と鐘楼
水汲みの井戸も健在です。
豊臣秀吉が石田三成の「三碗の才」を見出したとされる地「大原観音寺」
境内は思いの外広く、山門をくぐり直線をずーと歩くと本堂が見えます。趣がある。
山門左手を進むと「石田三成汲ノ池」
山門。紫陽花が綺麗。
本堂。重要文化財。老朽化が目立つ。
三成が汲んだとされる井戸。底が見える。
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