ほうごんじ|真言宗豊山派|巌金山
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滋賀県長浜市、琵琶湖北部の沖合に浮かぶ周囲2kmほどの離島・竹生島に建つ宝厳寺(ほうごんじ)へお参りいたしました。 寺伝によると、神亀元年(724年)に聖武天皇は夢枕に立った天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)のお告げにより僧・行基を勅使として遣わし、大弁才天を祀る堂塔をこの地に開基させたのが始まりとされます。 天平󠄁勝󠄁寶5年(753年)には近江国浅井郡の大領であった浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)により、西国三十三所第30番札所でもある観音堂を造立し千手観世音菩薩を安置します。 当初の寺名は本業寺(ほんごうじ)と云い、奈良・東大寺の支配下であったのですが、平安時代末期には比叡山延暦寺の傘下となり宗派を天台宗に替え伝教大師(最澄)、弘法大師(空海)なども渡島し修業したとも伝えられています。 同じ島内には、浅井比売命(あさいひめのみこと)を祀る都久夫須麻神社(ちくぶじまじんじゃ)があり、祭神である浅井比売命は近江浅井郡に居を構えた豪族・浅井氏の氏神で湖水を支配する水の神ともいわれることから、平安時代末期頃には宝厳寺の本尊で同じく仏教の水の神である弁才天と同一視されるようになり、ついには弁才天と同一とされる市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)も併せて祀るようになって神仏習合が進み、次第に都久夫須麻神社と宝厳寺の区別は無くなっていきます。 この間に三度の火災(貞永元年-1232年、享徳3年-1454年、永禄元年-1558年)で七堂伽藍を焼失しますがその都度復興を果たし、慶長7年(1602年)には豊臣秀頼の命を受けた片桐且元(かたぎりかつもと)により伽藍を復興、唐門・観音堂・渡り廊下・本堂(現・都久夫須麻神社本殿)が再建されます。 この際に復興された唐門は豊国廟(豊臣秀吉の霊廟)の唐門を移築、本堂は豊国廟あるいは伏見城の日暮御殿を移築したものとされています。 江戸時代には弁才天信仰と西国三十三所観音霊場札所として大いに賑わいますが、明治元年(1868年)、明治新政府により発布された「神仏分離令」とそれに起因して過激化した「廃仏毀釈」運動の影響を受けて、ついには明治4年(1871年)に大津県庁より仏教寺院としての宝厳寺を廃寺するように、との命令が出されて寺院存続の危機に直面します。 しかし、宝厳寺側は本尊である大弁才天は神道の神ではなく仏教の仏であるとの主張で譲らず、また日本三弁天の一つと数えられ、西国三十三所の名刹でもある宝厳寺を存続させてほしいとの多くの信者の熱意もあって、結果、本堂の建物のみを神社側に引き渡すことで廃寺となることは免れます。 これ以降、宝厳寺と都久夫須麻神社は分離独立させられることとなりますが、宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社本殿は渡り廊下で直接連絡しており、嘗て竹生島が神仏混淆の島であり寺院と神社に区別がなかったことを感じさせるものとなっています。 寺・社分離以後はしばらく本堂がなかった宝厳寺ですが、昭和17年(1942年)に現在の本堂が建立され、再び本尊の大弁才天が祀られることになりました。
竹生島へ渡るには、長浜港か今津港、彦根港の3ヶ所から連絡船がありますが、当方は今津港からのクルーズ船にて渡島いたしました。 大阪駅よりJR湖西線新快速にて近江今津駅下車、駅から今津港までは徒歩5分程度です。 この頃、クルーズ船は何かと話題になっていたので乗客も少ないのでは、と淡い期待を持っていましたが、そんなことは無くほぼ満席状態でした。 乗船時間は約25分、上陸時間は70分~80分、乗船する客は宝厳寺および都久夫須麻神社への参拝に訪れることが主目的と考えられ、船で一度に大人数が到着するので、おそらく納経所は長蛇の列になるだろうと予想し、着岸すると足早に「祈りの階段」を登り、鳥居を潜って、本堂(弁財天堂)をお参りさせていただきました。 弁天様の幸せ願いダルマを奉納し、ストラップの御守を授与頂いた後、少し並びましたが御朱印を無事拝受、三重塔や観音堂を拝見し次は舟廊下を通って【竹生島神社(都久夫須麻神社)】へ向かいます。


【西国三十三所巡り(13/33)】
宝厳寺(寶嚴寺:ほうごんじ)は、滋賀県長浜市早崎町(竹生島:ちくぶじま)にある真言宗豊山派の寺院。山号は巌金山(がんこんさん)。本尊は大弁才天。西国三十三所第30番札所で、札所本尊は千手観世音菩薩。別称は「竹生島大神宮寺」、「本業寺」。弁財天信仰の聖地で、日本三大弁財天(※)の1つにも数えられる。唐門は国宝、観音堂、渡廊(低屋根)、渡廊(高屋根)、石造五重塔は国指定の重要文化財。なお、竹生島は島全体が国の史跡・名勝。
寺伝によると、創建は奈良時代の724年で、僧・行基が聖武天皇の勅願により都久夫須麻神社がある竹生島を訪れ、大弁才天(秘仏、33年ごとに開扉)を祀ったのが始まり。この時、行基は千手千眼観音菩薩(秘仏、60年ごとに開扉)を自ら彫り、併せて祀ったとされる。788年には伝教大師が渡島し、「叡山の奥の院」と呼ばれた時もあり、弘法大師も当山で修行したと伝わる。当初寺号は本業寺といい東大寺の支配下にあったが、平安時代に延暦寺の傘下に入り天台宗となった。都久夫須麻神社の祭神・浅井姫命は、浅井氏の氏神であるとともに湖水を支配する水の神であることから、仏教の水の神である弁才天と同一視されるようになり、ついには弁財天と同一視される市杵島比売命も祀るようになり、神仏習合が進んで寺院と神社の区別がなくなっていった。
この間、1232年、1453年、1558年に火災で七堂伽藍を焼失しているが、その都度復興している。1602年に豊臣秀頼が片桐且元に命じて伽藍を復興、唐門、観音堂、渡り廊下、本堂(現都久夫須麻神社本殿)はこの時再建された。江戸時代は弁才天信仰と西国三十三所観音霊場札所として大いに賑わった。明治時代に入り神仏分離令が出されると廃寺の危機に瀕したがこれに耐え、これ以降、当寺と都久夫須麻神社は分離独立させられることとなった。
当寺は、竹生島南部の唯一の船着き場から北方に山の斜面を登ったところにある。境内は小山の南斜面にあり、高さの異なる境内地ごとに伽藍の建物がある。船着き場で船を降り、少し歩いてから拝観受付を通ると、「祈りの石段」と呼ばれる165段の石段があり、登り切ったところ本堂(弁才天堂)がある。さらに高いところに三重塔などがあり、東方のやや低いところに唐門、観音堂、舟廊下、都久夫須麻神社がある。全体を歩き回ると高低差もあるのでそれなりに運動になる。クルーズ船の乗船時刻をあらかじめ頭に入れておく必要がある。
今回は、西国三十三所の札所であることから参拝することに。参拝時は平日の午前中で、自分が乗ったクルーズ船には30人ほどの乗客がいた。(この日は、天気は良いが風が強く、琵琶湖に波が立っていたため、他の船は来ていなかったみたい。自分が乗った今津港発着船も、午後は欠航とのことだった。)
※日本三大弁財天とは、厳島神社(広島県廿日市市)と江島神社(神奈川県藤沢市)とされている。
※クルーズ船は、今津、彦根、長浜から出ている。自分は朝一の新幹線で米原駅に来て、レンタカーを借り、トヨタカーナビで竹生島を目指したが、これが大失敗。船乗り場と関係のない、竹生島最寄りの琵琶湖北岸(つづら尾崎)に着いてしまった。結局、今津港に辿り着くのに2時間かかってしまった。長浜港ならすぐだったのに。やはり徹底した下調べが必要と、あらためて痛感...涙
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