ほんぷくじ|浄土真宗本願寺派|夕陽山
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滋賀県大津市にあるお寺です。
こちら本福寺は 満月寺浮御堂から歩いて3分ほどの場所にあります。
山門すぐの所に 観光無料駐車場がありました。
堅田には観光無料駐車場がけっこう多くあります。ありがたいです。
山門が開いていましたので境内に入らせていただきました。
境内には松の木があり 枝が横に広がって伸びています。
枝がこんなに長く横に伸びているのは 京都市西京区の善峯寺でも見たことがありますが 珍しいと思いました。
本堂はとても新しい建物です。
境内にはこども園も併設されていました。
残念ながら御朱印は拝受できませんでした。
ネット情報です。
山号は陽山 宗旨宗派は浄土真宗本願寺派 ご本尊は阿弥陀如来 創建年は正和年間(1312年 - 1317年) 開山は善道です。
当寺は 鎌倉時代後期の正和年間(1312年 - 1317年)に近江国野洲郡御上神社の神職であった善道が本願寺覚如の弟子となり 創建されたとされている。
後を継いだ第2世覚念は浄土宗に転じたが 次の第3世法住の代に浄土真宗に復帰する。
最初は佛光寺に属するものの 紆余曲折の末に巧如によって本願寺直末寺として認められた。
本願寺第8世蓮如が寛正の法難で大谷本願寺を破壊された際にこれを匿った。
そのため 延暦寺と対立し 堅田の地元民と延暦寺との対立も絡んで応仁2年(1468年)にはいわゆる「堅田大責」と呼ばれる延暦寺の攻撃で堅田の町と本福寺が焼き払われている。
第4世明顕と弟子明宗は蓮如・実如のもとで本願寺と浄土真宗の発展に尽くすと共に 堅田を中心とした近江国の本願寺派門徒及び一向一揆の中核を担う存在となった。
ところが 実如の弟蓮淳(蓮如の六男で証如の外祖父)が大津顕証寺(現・本願寺近松別院)に入ると 勢力圏が重なる本福寺の存在に脅威を感じるとともに一門統制に対する力の行使のため 明顕の養子として後を継いで第5世となっていた明宗は蓮淳の圧迫を受けて永正15年(1518年) 大永7年(1527年) 天文元年(1532年)の3度にわたって破門の憂き目にあうと(堅田本福寺破門事件) 当寺は新たに勢力を広げてきた蓮淳の寺である慈敬寺に所領・門徒をことごとく奪われて没落し 明宗は憂悶のうちに餓死してしまった。
お寺も勢力争いがあって 弾圧・粛清が行われるというのは 仏様の御心とは異なることから非常に残念に思います。
宗旨や宗派に囚われることなく 世界平和を願い続けたいものです。

山門は開いていました

寺号の石柱

手水舎

松の枝が横に広がっています

横の広がり わかります?

鐘楼

本堂

内陣

こども園が併設されています

蓮如堂

浄土真宗本願寺派(西本願寺)
本願寺旧跡 堅田本坊
夕陽山 本福寺さまに参拝しました。
<本福寺の沿革>
本福寺は、山号を夕陽山(せきようざん)とする浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属する寺院です。
開基は、鎌倉時代後期正和年間に滋賀県野洲郡御上神社の神職であった善道が、本願寺第三代門主覚如上人の御教化を受け浄土真宗に帰依し、念仏の道場を開いたこととされています。
第二世覚念の時代には、一度禅宗に傾倒しましたが、第三世法住(ほうじゅう)の時代に本願寺門下となりました。法住が蓮如上人の片腕として活躍した時代には、幾度となく比叡山からの迫害を受け、上人にとっても堅田で過ごされたひと時は、苦難の時代であったと思われます。
第五世明宗の時代には本願寺から三度の破門を受け、第六世明誓と共に寺院壊滅の危機にまで至った苦しい時代を過ごしました。
<蓮如上人と法住>
法住は、比叡山の僧兵から迫害を受けた蓮如上人の命をよく護り、念仏繁盛に努めました。法住が蓮如上人から授かり、比叡山の根本中堂に掲げたと言われる十字名号(『帰命尽十方無碍光如来』)をよく見ると、縦と横とに折りたたまれた跡が残っています。また、本来あったであろう、上下の軸木は切り落されてありません。その姿からは、大きな名号を細かく畳み、懐に収め、険しい山道を命がけで持ち帰ったと言われる法住の苦労を垣間見ることができます。
1468(応仁2)年に比叡山延暦寺によって攻め入られた堅田は焼け野原となり、堅田門徒は沖島に逃げ延びることとなります。(堅田大責)その後、礼銭・礼物を支払うことによってようやく還住を許されます。
この様な度重なる困難を乗り越えて、今こうしてこの堅田の地には、変わることなくお念仏の声が高らかに響いています。
<中世の堅田>
堅田は下鴨神社の御厨となり、湖上の自由通行権を得ていました。この特権を背景に漁業・交易・通行の各権に力を持った堅田衆は、湖上の航海を害する海賊を防ぐため上乗として乗船し、その謝礼として金品を得ました。また、足利尊氏から水陸の関務を許され、運送の十分の一を収納する権利を認められていたと言われ、堅田衆は政治・経済的にも有力であったと考えられます。
その繁栄を基盤とし、堅田には早くから自治的組織が形成され、殿原衆(とのばらしゅう)や全人衆(まろうどしゅう)をはじめとした階層社会が成立しました。また、村掟が制定され、寄り合いでの話し合いにより物事が決められました。庄の指導的立場にあった殿原衆に対し、全人衆は一般の農民・漁夫・舟乗・商工業者達で、浄土真宗を信じ本福寺を中心に結集していました。この階層社会も堅田大責めを契機に解消へと向かいますが、その後全住人をあげて共同体作りを目指します。そこには、同朋思想を基本理念とする真宗門徒が中心的役割を果たしたと言われています。
(本福寺さまパンフレットより写書き)
親子二代でこちら併設の保育園にお世話になり、卒園しました。
お寺さまは、いつも子ども達のにぎやかな明るい声に囲まれています。
あらゆるいのちを大切にする心、自分自身の存在もまた無数の縁によって頂いた尊いものだと感じられるように、という本福寺さまの願いのもと、親も子も共育して頂きました。
ご住職さまはまだお若いですが、素晴らしい教学を凡夫の私達にも分かりやすく、お分け下さいます。
坊守さまはお美しい方で、檀家衆にお気遣い下さりながら、気さくにお付き合い下さいます。
前ご住職さま、前坊守さまにも大変お世話になりました。いつも感謝致しております。😊🙏🏻

本福寺 山門

門前の掲示板

門を入って右手側

同じく右手側

門をくぐって左手側にある鐘楼
毎年、除夜の鐘を撞かせて頂きます。😊🙏🏻

即如上人御手植の松

徳仁親王殿下御参拝記念碑

手水舎


手水舎井戸

手水の龍🐲さま



御本堂前の松 役員さん、檀家の皆さまの手厚いお手入れで綺麗です。


蓮如上人御像
御本堂正面向かって右側

御本堂 平成7年に鉄筋建築にて落成

御本堂 扁額

御本堂内部
併設の本福寺保育園園児も、阿弥陀如来さま、親鸞御上人さま、蓮如御上人さまへの毎朝の仏参、式典や各行事に使用します。仏さまに手を合わせることは自分を支える無数のいのちに手を合わせるということ。その参拝の姿は、可愛いさと、小さいながらも立派に荘厳に行われています。
幼き子ども達の、お念珠に通された小さな小さな手、合掌するその姿から、大人のこちらが教化される思いで感動致します😊🙏🏻

御本堂内部の扁額

香炉

御内陣

御本尊 阿弥陀如来さま

蓮如御上人さま自作の木像


園庭を兼ねた境内にある、大銀杏。
毎年、たくさんの銀杏の実がなります。
ご住職さまが、檀家衆にその実りをお分け下さいます。😊🙏🏻

境内にある蔵

今一度、門前から。


おまけ
門前そばには、湖族の郷資料館があります。
境内・文化財
境内・文化財をもっと見る|| 名称 | 本福寺 |
|---|---|
| 読み方 | ほんぷくじ |
| 電話番号 | 077-572-0044 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
| SNS |
詳細情報
| 山号 | 夕陽山 |
|---|---|
| 宗旨・宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
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