はせでら|真言宗豊山派|豊山( ぶさん )
長谷寺
奈良県 長谷寺駅
08:30~17:00 10~3月は09:00~16:30
天理市の長岳寺の次は、今回の奈良寺巡りの最後となる天理市の南隣の桜井市に在る名刹の長谷寺です。正式には豊山 神楽院 長谷寺で、本尊は十一面観音。西国三十三所観音霊場 第8番、真言宗豊山派の総本山です。私としても今回で4~5回目の参拝でしょうか。
流石、関西では超有名な長谷寺、寺の駐車場は満車、近くの民間駐車場も満車で、少し空くのを待っていました。(こんなんは初めて)
写真に殆ど人が写っていないので空いている様に見えますが、実際は結構な人出で(割と密?)、人が居なくなるのを待って撮っています。
創建は8世紀前半頃であろうが詳細な時期等はわかっていない。が、いずれにしてもかなりの古刹であることは間違いない。
細々した事は皆さんが投稿されているので省略するとして、春の時期は本尊の特別拝観があります。本尊は10mを超える巨大な木造の十一面観音で重文指定、何度も焼失しており現在のは1538年製作のもの。右手に地蔵菩薩の様に錫杖を持っており、このスタイルを「長谷寺式」と読んでいます。(覚えておいても損はないと思います。)この本尊の足元に入れてお御足に触れる事ができます。
また、寺宝を収蔵してある「宗宝蔵」も春と秋に拝観できるのですが、残念ながらコロナ禍で昨年春から拝観不可です。
更にこの春は本坊大講堂の特別拝観があり、本尊の大画軸(レプリカ)、長谷寺縁起絵巻(結構長い)や仏間の本尊である阿弥陀如来を観ることができます。
それと、恐らく殆どの方は、仁王門が目に入ってしまうと脇目も振らずに仁王門へ一直線に石段を上ってしまうと思いますが、仁王門手前の右側に子院(塔頭)である普門院があります。その左隣に普門院不動堂があり、重文の不動明王像が観れます。しかも無料で。興味がある方は寄ってみたら如何でしょうか。(写真を載せておきました。)
他に、土産物を売っている参道の途中に西国三十三所観音霊場 番外札所の法起院もあります。
御朱印(真言宗18本山)
御朱印(八十八面観音巡礼)
石柱
仁王門
登廊(振り返って上から撮影)
手水
蔵王堂
本堂
大黒殿
弘法大師御影堂
一切経堂
五重塔
六角堂(写経殿)
本坊の山門
本坊
普門院不動堂
長谷寺と名の付く寺院は二百数十箇所あり、真言宗豊山派の寺院は全国に三千・僧侶数は五千人・檀家信徒数は二百万と称しする観光寺院でもあり、年間を通じて種々の花が楽しめる花の寺です
。
「長谷寺縁起文」では、この地に長谷寺の基を創ったのは道明だという。
朱鳥1(686)年、道明は天武天皇のために「銅板法華説相図」を初瀬山の西の岡(現在の五重塔近く)の石室に安置し三重塔を建立し一寺を開いた。
後の神亀4(727)年、聖武天皇の勑を奉じて徳道が東の岡(現在の本堂がある場所)に伽藍を造営、衆生救済の為に十一面観音を祀った。
こうして成立した長谷寺では、西の岡を「本長谷寺」、東の岡を「後長谷寺」と称し、「開創道明上人」・開山徳道上人」としています。
建立当初、長谷寺の法務は東大寺が執り、国家的祈願が行われ、やがて藤原北家からの摂関期には、興福寺の末寺となる。
時の権力者の参詣により、平安貴族はこぞって長谷詣に訪れ現世利益を祈願。
鎌倉・室町・戦国時代には、武家や僧侶も多く参詣、遊行の聖も多く出入りすることに。
遊行僧は火災に見舞われる度に復興勧進をし、長谷観音の来歴や霊験を伝えながら帰依・参詣を人々に勧めた。
こうして長谷詣でへの憧れは、諸国の庶民に深く浸透することに。
平安時代以降、度重なる火災により創建時の本尊は失われ、現在の十一面観音は戦国末期・東大寺の仏師らが製作した尊像。
庶民信仰の底力で本尊復興は成し遂げた、堂塔の再建まで至らず仮堂で凌いでいた。
この窮状を救ったのが、豊臣秀長と秀吉によって焼き討ちにあった根来寺の高僧・専誉であった。
案内パンフレットに沿って観光参拝してみました。
石観音
見落としがちですが、境内入り口の右側にあります。
石標
総受付内の火事除け「秋葉観音・三尺坊大権現」
普門院不動堂
仁王門
参拝時には本尊御開帳の案内掲示、中世の長谷寺は興福寺大乗院の末寺として、その門跡の支配下にありました。
その為に中世に及んでは、大乗院への多くの公事物貢物の義務を負わされ、多額の用銭を課せられるのが常であったと。
十一面観音の開帳に際しては、開帳銭として多額を大乗院に進納しなければならなかったと。
時代は変われど、本山への上納は変わらないようですね。
登廊より仁王門を臨みます。
道明上人御廟塔
宗宝蔵
長谷寺六坊の一つ、清浄院跡地に建ちます。
歓喜院・梅心院・慈眼院・金蓮院・清浄院、残り一坊は確認しておりません。
二本の杉
源氏物語において長谷寺が重要な舞台となるのは「玉鬘」です。
登場する二本(ふたもと)の杉、玉鬘がここで右近と巡り合い、母の死を知ったと。二本の杉は下の根の部分でつながっています。
長谷寺は特に女性の信仰が厚く、「枕草子・源氏物語・更級日記」等の多くの古典文学に記述が見られます。
慈眼院
月輪院
登廊
現在のものは本堂と同時期に建てられたが、明治の火災に遭い再建されたもの。
繋屋より仁王門方向登廊を観ます。
金蓮院
三部権現社
繋屋横の天狗杉
蔵王堂
紀貫之故里の梅
馬頭夫人社(左)
三百余社
鐘楼
能満院
日限地蔵尊
三社権現
奥の院として崇敬される旧地主神の瀧蔵権現、長谷寺の北方5km、桜井市瀧蔵神社の創始は遠く神代と伝わる。
詳しい記録は残らないが、熊野権現を勧請したらしく、伊弉諾命、伊弉冉命、速玉命の三神を祀る。
長谷寺の創建は、この瀧蔵権現から神領を譲渡されたものという。
さらに、この瀧蔵権現が初瀬に訪れた菅原道真の霊に「ここはよき地なり」と告げて社地を譲ったとされ、與喜天満神社が鎮座します。
徳道上人は初瀬谷の鎮守社として崇敬されていた瀧蔵神社の三神を勧請し本堂脇に祀った。
西社・新宮権現 中社・瀧蔵権現 東社・石蔵権現
稲荷社
本堂東側の愛染堂甍
本堂
創建以来七度の火災焼失しているが、最後は室町時代天文5年(1536)であり、天正16年(1588)に豊臣秀長により再建されている。
その後、江戸時代初期に徳川家光により再建されている。慶安3年(1650)に竣工、現在の本堂です。
秀長により再建された本堂が、60年足らずで建て替え新築されています。
もっとらしい建て替え理由が付けられていますが、豊臣家がそんな貧相なものを建てる訳がなく、よほど排除したかったのでしょうね。
現在の本堂が建立された際には、本尊を移動せず厨子で覆いさらにそれを囲むように正堂が建てられいます。
そのため長谷寺本堂は、内陣の中にさらに内々陣(厨子)があるという複雑な構造になっています。
観光写真でお馴染みの賓頭盧様
本堂大悲閣前の懸造り舞台
本堂より臨む五重塔
大国堂
徳道上人を祀る開山堂
弘法大師御影堂
本長谷寺
明治8年に焼失したため、廃寺となった與喜寺本堂を移設。
五重塔
昭和29年建立 戦後の日本で初めて建てられた五重塔。
三重塔跡
明治8年の火災で焼失、9年との資料もあり。
立派な納骨堂
菩提院陀羅尼堂
本坊内の庭園
本坊は寛文七年徳川将軍よりの寄進で建立されたが、明治44年炎上、現在の堂宇は大正十三年の再建。
六坊の一つ 梅心院
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