こうふくじ|法相宗
興福寺のお参りの記録一覧(11ページ目)
寺名印に南都が入っていてお気に入りですw
南都は単純に平城京とか奈良とかの意味だけでは無いですものね?w
往時の勢力を感じます
印
薬壺 西国薬師第四番
宝珠 バイ(薬師如来種子)
南都興福寺印
墨
東金堂
興福寺
印が国宝館ではなく食堂になっていて面白いですw
あんなに大きい千手観音さんがいらっしゃる食堂…
どんな感じで当時のお坊さんが食事をされていたのか気になりますw
印
食堂院
宝珠 キリク(千手観音種子)
興福寺食堂堂司印
墨
千手観音
興福寺
興福寺の前身は山階寺といい、藤原鎌足夫人が夫の病気平癒を願って建てられたお寺でした。
その後藤原京時代に一時「厩坂寺(うまやさかでら)」という名で藤原京に移されたが、藤原不比等の時代、平城京遷都に伴い現在の場所に移され「興福寺」という名になり、絶大な権力を持った藤原氏の氏寺となって奈良一国を治めるほどの権力を興福寺は持っていました。
その当時は100ケ寺ほどの塔頭を置く大伽藍だったそうですが、明治維新の廃仏毀釈の折、行き過ぎた政策によって廃寺同然まで追いやられ、当時五重塔はたった250円で売却されてしまったのだそうです。
ウィキペディアでは
「買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしたが、延焼を心配する近隣住民の反対で火を付けるのは取りやめになったという。ただし、五重塔が焼かれなかった理由はそれだけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという」と書かれてありました。
1881年(明治14年)、ようやく興福寺の再興が許可されたのですが、文化財保護法も整備され、やっと難を逃れた状態となったとの事です。
いずれにせよ今大人気の阿修羅像も、もしかして売却されていたかもしれませんし、日本になかった可能性もあったわけで、廃仏毀釈にはほとほと呆れます。この時にずいぶん海外に流れたんですよね~、貴重な文化財が・・・。
国宝館はただいま耐震メンテで休館中です。平成30年に再開。それまで阿修羅像は巡業が無ければ仮講堂に鎮座されていらっしゃるはずです。
そして来年(2017年現在)、中金堂が再建されお披露目されるとの事です。
東金堂と五重塔
仮講堂
北円堂
南円堂
国宝館
本坊
大湯屋
五重塔
三重塔
奈良公園と言えばここの事ですよね。
公園が昔は境内だった場所です。
子供の頃、阿修羅はなんの囲いもなく国宝館に展示されていて、そのうち他の8部衆と共に陳列に入れられ、それでは後ろが見れないというので阿修羅だけ別個に陳列され360度また見ることが出来るようになって今に至るわけです。
軽いんですこの像。
だから江戸期にあった大火災の時に慌てた僧侶が阿修羅像を一人で担いで逃げたんだそうです。
軽さが阿修羅を救ったんですね~。
鹿と興福寺は春日大社よりも私的にセットな図柄でした。
駅から近かったせいもありますが。
そう言えば私の子供が寝ている鹿に抱き着いて頬ずりしても逃げなかった事があって、写真におさめていますが、無邪気か否かがわかる雄鹿でよかったです(笑)
時々、悟った鹿があそこにはいますね(笑)
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