たかちほじんじゃ
高千穂神社のお参りの記録一覧(2ページ目)
高千穂神社は、 この地に宮居をさだめられた天孫瓊々杵尊、木花開耶姫命以下三代の神々をお祀りし、飛鳥時代から平安時代前期にかけて編纂された六国史に「高智保皇神」の神名で記載され、仁明・清和両朝(833~876)に日向国最高の御神階が授けられた国史見在社です。天孫降臨、神武天皇ゆかりの高千穂宮として、今日では国運の隆昌と、縁結び、交通安全、厄除けの神さまとして広く信仰されております。
御祭神の高千穂皇神は、日向三代と称される皇祖神とその配偶神である天津彦火瓊瓊杵尊と木花開耶姫命、彦火火出見尊と豊玉姫命、彦波瀲武鸕草葺不合尊と玉依姫命の総称です。十社大明神は神武天皇の皇兄、三毛入野命とその妻子神九柱、三毛入野命の妃神の鵜目姫命、御子神御子太郎命、二郎命、三郎命、畝見命、照野命、大戸命、霊社命、浅良部命の総称です。
創建は不詳ですが、神武天皇の兄宮三毛入野命が御東征の途次、高千穂に帰られて日向三代をお祀りされたのが初めとされています。以降、その子孫と称する三田井氏が長く 奉仕され、後には三毛入野命御夫婦と八柱の御子とを合祀し、垂仁天皇の時代に社殿が建立されたとされています。
天慶年間(938-947)には豊後国から来た大神氏が豊後国から大神惟基の長子の高知尾太郎政次が当地に入り、高知尾氏を興します。鎌倉時代末から高知尾氏に代わり島津氏が地頭となる一方、高知尾氏も三田井氏を称するようになりますが、天正年間(1573-1592)に三田井氏は滅んで延岡藩の領となりましたが、歴代藩主は社領を寄進し例祭にはたえず奉幣して明治に及びました。
古くより高千穂八十八社の総社として崇められてきたことから、社名は古来「十社大明神」や「十社宮」などと称されてきました。明治4年(1895)に「三田井神社」と改称、更に同28年(1895)に現在の高千穂神社に改称されました。明治4年(1895)7月に延岡県の県社11月に美々津県の県社とされましたが、宮崎県に改組されると同6年(1873)に村社とされます。大正14年の秩父宮殿下の御成をはじめ十数家の皇族の御参拝もあり、昭和46年7月1日、神社本庁の別表神社となっています。
中世、鎌倉幕府の源頼朝は、当社を篤く信仰し、畠山重忠を代参として多くの 宝物を奉納しました。社殿前に御神木としてそびえる畠山重忠公手植の杉は秩父杉と号なづけて今なお社頭に高くそびえ、千古の歴史を伝えています。樹勢は、目通りが30尺(9メートル)、高さは180尺(55メートル)、樹齢約800年になります。尚、源頼朝のよりとも公寄進の社宝鉄製の狛犬一対は世に優れたる鎌倉時代の名作として国の重要文化財に指定されています。元寇の文永の役、弘安の役には勅使が見え、南北朝の頃には征西将軍・懐良親王の御祈願など、古記録や宝物も多数残っています。
社殿は、安永7年(1778)、延岡藩主の内藤政脩により立替えられたものです。拝殿は、唐破風千鳥破風付。本殿は、切妻平入の千木外削で、鰹木9本。九州南部を代表する大規模な五間社流造銅板葺の建築で地方色も顕著に有しています。平成16年(2004)7月6日には国指定重要文化財に指定されています。本殿の東側脇障子の彫像は、当宮の御祭神、三毛入野命が霜宮鬼八荒神の足を捕まえて退治されたものです。荒神を平らげ農業や産業の道を拓かれた三毛入野命は、厄祓いや産業農業の神としても深い信仰があり、鬼八退治にちなんだ「猪懸祭」は12月3日に行われ、神道祭祀の原形をとどめた故事として有名です。鬼八塚は町内に三ヶ所あり、そのなかの首塚は現在の旧ホテル神州の東北にあります。また、西側脇障子には、事勝国勝長狭神大年神を祀る稲荷社が鎮座しています。
本殿東側に祀られている鎮石は、第11代垂仁天皇の勅命により我が国で初めて伊勢神宮と当高千穂宮が創建せられた際、用いられた鎮石と伝えられています。尚、往古、関東に鹿島神宮を御社殿造営の際、高千穂宮より鎮石が贈られ、同宮神域に要石として現存しています。またこの石に祈ると人の悩みや世の乱れが鎮められると言われています。
本殿向かって左側には荒立神社・四皇子社が鎮座しています。荒立神は、猿田彦大神と天鈿女命の夫婦神。四皇子社、神武天皇、五瀬命、稲氷命、三毛入野命を祀っています。拝殿前の夫婦杉は、根元がひとつになって如何なる事があっても別れることのない形を現しています。夫婦杉の廻りを手をつないで三回廻ると、夫婦、友人など共々、仲睦まじく家内安全で子孫は繁栄の三つの願いが叶うと伝わっています。
高千穂、そしてその総社しての高千穂神社を広く知らしめているのが国の重要無形民俗文化財に指定されている夜神楽です。高千穂は11月中旬から翌年の2月まで各神楽宿にて夜神楽が催行されます。夜神楽は、氏神を神楽宿に招き入れる「舞入」から始まり、33番の神楽かぐらを舞います。高千穂神社では、11月22~23日にかけての「神話の高千穂夜神楽」で奉納され、神楽殿で夜を徹して高千穂の夜神楽の全33番が奉納されています。又、年間を通じて観光用に33番の中から「手力雄」・「鈿女」・「戸取」・「御神体」の4番が神楽殿で実演されています。
旧暦の12月3日に行われる猪々掛祭は、鎌倉時代から伝わる霜除神事で、この祭典で奉納される神楽は「笹振り神楽」といわれて高千穂神楽の原型とされています。神代の昔、荒振神の鬼八を十社大明神が退治しますが、鬼八の霊は何度も生き返り、早霜を降らせて作物を害します。そのため、鬼八の好物である猪1頭を神前に捧げて鬼八の霊を慰め、五穀の豊穣を祈ったとされています。この祭りで炊いて供える新穀の器は、天正年間のもので、この猪々掛祭のみに使用される木の鉢です。
高千穂神社に参拝させて頂きました。
社伝によれば、三毛入野命が神籬を建てて祖神の日向三代とその配偶神を祀ったのに創まり、三毛入野命の子孫が長らく奉仕して、後に三毛入野命他の十社大明神を配祀、垂仁天皇の時代に初めて社殿を創建したと伝えられます。
日向三代の宮である高千穂宮が置かれた地とも伝えられます。
本殿は国指定重要文化財になっていて、特徴的な建築技術が見られます。
約6年ぶりの参拝で懐かしく感じました。
高千穂峡は1度は来る価値があります。
鳥居
6年前と同じ景色
御朱印
社標
手水舎
狛犬と階段
社殿
秩父杉
根元に台風で倒れた杉が横たわっています。
本殿
国指定重要文化財
高千穂宮鎮石
夫婦杉
荒立神社・四皇子社
高千穂宮
高千穂峡
千葉住みの私は延岡駅近くで前泊し、朝10時発のバスで向かいました。
高千穂バスセンターで降りてから徒歩10分程です。
夫婦杉です。
大きな鳥居が見えてきました。
鳥居上の扁額です。色使いが特徴的ですね。
社名標
由緒書
手水舎。稼働してます。
長めの石段を上ります。
石段を上り切ると拝殿があります。
木々に囲まれていますが、どの木もまっすぐ育ってました。定期的に手入れしてるのかなぁ。
ご本殿です。
よく見ると、なんか彫刻が掘られてました。
こちらの御祭神が悪い奴を討伐したんですね。
鎮石のアップです。かなり目立たない場所にありました。一時期はこの鎮石を見るために行列ができたこともあったそうです。
鎮石の由来です。
社殿の横に神楽殿があります。
神楽殿の中です。毎晩ここで夜神楽という踊り?が見られるそうで、結構盛り上がるみたいです。
御朱印は直書きです。
御朱印帳を新しく拝受しました。寸前まで次の御朱印帳を高千穂神社さんか天岩戸神社のどっちにするか迷ってましたが、行程的に先に天岩戸神社に行くのは無理そうだったので、これも巡り合わせということで、高千穂神社さんで拝受しました。
裏側に夫婦杉のやつです。大判です。
【日向國 古社巡り】
高千穂神社(たかちほ~)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井字神殿にある神社。式外社(国史見在社)論社。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社。祭神は、高千穂皇神(日向三代の皇祖神とその配偶神:天津彦火瓊瓊杵尊と木花開耶姫命、彦火火出見尊と豊玉姫命、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と玉依姫命の総称;一之御殿)、十社大明神(神武天皇の皇兄・三毛入野命とその妻子神9柱;二之御殿)。本殿、鉄造狛犬一対、木造神像は、国指定の重要文化財。
社伝によると、三毛入野命が神籬(ひもろぎ)を建てて、皇祖神の日向三代とその配偶者を祀ったのが始まり。三毛入野命の子孫が長らく奉仕して、のちに三毛入野命ほかの十社大明神を配祀し、垂仁天皇の御代に初めて社殿を造営したと伝わる。当社が国史に見える「高智保神」とする説があり、その説に立てば朝廷から神階奉授があったことになるが、平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』には記載がない。天慶年間(938年~947年)に豊後国から高知尾太郎政次が当地に入り高知尾氏(高千穂氏)を興して、当社を高千穂八十八社の総社と位置付け崇敬したという。
鎌倉時代には源頼朝が天下泰平祈願のため畠山重忠を代参に派遣して多くの神宝(現存の国重文・鉄製鋳造狛犬一対)を奉納、境内の秩父杉を重忠が手植えし、元寇の文永・弘安の役の際は敵国降伏祈願のために勅使が差遣されたという。この時期、高千穂氏により紀州の熊野信仰がもたらされ、複雑な信仰を形成することとなった。以後、歴代領主の変遷に応じ、安東氏、浦上氏、島津氏、三田井氏が支配するが、南北朝時代以降は、阿蘇氏の支配下で高千穂郷総鎮守として崇敬された。
江戸時代には寛永年間(1624年~44年)に延岡藩主・有馬氏から200石の寄進を受け、以降三浦氏、内藤氏と歴代延岡藩主から崇敬を受けた。明治時代に入り近代社格制度のもと、延岡県の県社、のち美々津県の県社とされたが、1873年に宮崎県に改組され村社とされた。
当社は、JR日豊本線・延岡駅の西北西40km弱の高千穂街の中心地近くにある。すぐ西側に五ヶ瀬川が流れるちょっとした台地の上にある。高い古木に覆われた境内は、社殿はなかなか大きく、他に大きな神楽殿、境内社、授与所などがあるが、参道、階段と合わせても割とコンパクトな造りで参拝しやすい。やはり古巨木が林立する中にあるので、古社の雰囲気、境内の空気感が非常によく、一般観光客からの人気であることがよく分かる。(ちなみに、旅行情報サイトでの宮崎県の人気寺社仏閣ランキング(2023年1月)によると、「じゃらん」だと4位、「ぐるたび」でも4位、「4travel」だと3位になっている。)
今回は、旅行情報サイトでの人気神社、式外社論社、別表神社であることから参拝することに。参拝時は平日の午後で、家族連れ、中高生のグループ、若者カップル、老夫婦連れなど、あらゆるタイプの参拝者がたくさん訪れていた。
境内東端入口の<鳥居>と<社号標>。
鳥居の左下、見えにくい「高千穂宮」の社号標。
鳥居をくぐって参道を進むと、右側にもう一つの<社号標>。
参道左側の<手水舎>。
参道右側の<祓所>。
参道左側の<狛犬>。他で見たことがない独特な表情、スタイル、毛並み。
参道右側の<狛犬>。左右両方に仔獅子がいるのは珍しい。
階段を登って社殿に向かう。
階段を登り切るとすぐ正面に<拝殿>。
参道左側の石製小社。拝殿前のこの位置にあるのは珍しい。
参道右側の石製小社。左右対になっている。赤と緑の紙垂も珍しい。
<拝殿>正面。
<拝殿>内部。
拝殿に向かって、右後ろにある<授与所>。御朱印はこちら。
拝殿後ろの<本殿>。江戸時代中期1778年の建立。五間社流造、銅板葺。国指定の重要文化財。
本殿をよく見ると、細かな彫刻が。当時の延岡藩主・内藤政脩を大檀那として完成。
彫刻の一つ「三毛入野命(みけぬのみこと)彫像」。当社の御祭神。霜宮鬼八荒神(しものみやきはちこうじん)を退治した構図。
社殿の左手にある<荒立神社・四皇子社>。明治時代に合祀されたもの。ただし、荒立神社はその後元の場所に復祀されている。
本殿右側の<鎮石(しずめいし)>。鹿島神宮の<要石(かなめいし)>は、往古当社より贈られたものとのこと。すごい!(;゚Д゚)
社殿の右手にある<神楽殿>。表札には「高千穂神楽資料館」とも書かれている。
拝殿前左手にある<夫婦杉>。
<夫婦杉>を引きで見るとこんな感じ。
最後に<社殿>全景。太くて高い樹木群に囲まれた神秘的な雰囲気は抜群~!(^▽^)/
参拝の記録です。
高千穂神社とくしふる神社の御朱印です。
高千穂神社の御朱印です。
御朱印帳です(表面)
御朱印帳です(裏面)
御朱印袋です。
御朱印袋です。
夫婦杉
夫婦杉
台風14号被害間もない髙千穂神社に参拝しました。本堂、夫婦杉は無事でしたが夫婦杉の前にある樹齢800年の杉の枝は折れてしまったそうです。他にも折れた木もあったそうですが不思議と本殿や建物を避けて倒れていて災害の中でも神様に守られているというお話しを伺う事が出来ました。
樹齢800年の杉、枝が折れています。
この木が夫婦杉を守ってくれたそうです。
折れ枝。枝とは思えないほどの太さです。
現在の高千穂峡。自然のエネルギーに畏怖を感じました。
由緒
高千穂神社は、 この地に宮居をさだめられた天孫瓊々杵尊、木花開耶姫命以下三代の神々をお祀りし、飛鳥時代から平安時代前期にかけて編纂された六国史に「高智保皇神」の神名で記載され、仁明・清和両朝(833~876)に日向国に最高の御神階が授けられた国史見在社です。天孫降臨、神武天皇ゆかりの高千穂宮として、今日では国運の隆昌と、縁結び、交通安全、厄除けの神さまとして広く信仰されております。
御祭神の高千穂皇神は、日向三代と称される皇祖神とその配偶神である天津彦火瓊瓊杵尊と木花開耶姫命、彦火火出見尊と豊玉姫命と、彦波瀲武鸕草葺不合尊と玉依姫命の総称です。十社大明神は神武天皇の皇兄、三毛入野命とその妻子神九柱、三毛入野命の妃神の鵜目姫命、御子神の御子太郎命、二郎命、三郎命、畝見命、照野命、大戸命、霊社命、浅良部命の総称です。
創建は不詳ですが、神武天皇の兄宮の三毛入野命が御東征の途次、高千穂に帰られて日向三代をお祀りされたのが初めとされています。以降、その子孫と称する三田井氏が長く 奉仕され、後には三毛入野命御夫婦と八柱の御子とを合祀し、垂仁天皇(前29-70)の時代に社殿が建立されたとされています。
天慶年間(938-947)には豊後国から来た大神氏が豊後国から大神惟基の長子の高知尾太郎政次が当地に入り、高知尾氏を興します。鎌倉時代末から高知尾氏に代わり島津氏が地頭となる一方、高知尾氏も三田井氏を称するようになりますが、天正年間(1573-1592)に三田井氏は滅んで延岡藩領となりましたが、歴代藩主は社領を寄進し例祭にはたえず奉幣明治に及びました。
古くより高千穂八十八社の総社として崇められてきたことから、社名は古来「十社大明神」や「十社宮」などと称されてきました。明治4年(1895)に「三田井神社」と改称、更に同28年(1895)に現在の高千穂神社に改称されました。明治4年(1895)7月に延岡県の県社、11月に美々津県の県社とされましたが、宮崎県に改組されると同6年(1873)に村社とされます。大正14年の秩父宮殿下の御成をはじめ十数家の皇族の御参拝もあり、昭和46年7月1日、神社本庁の別表神社となっています。
中世、鎌倉幕府の源頼朝は、当社を篤く信仰し、畠山重忠を代参として多くの 宝物を奉納しました。社殿前に御神木としてそびえる畠山重忠公手植の杉は秩父杉と号て今なお社頭に高くそびえ、千古の歴史を伝えています。樹勢は、目通りが30尺(9メートル)、高さは180尺(55メートル)、樹齢約800年になります。尚、源頼朝公寄進の社宝鉄製の狛犬一対は世に優れたる鎌倉時代の名作として国の重要文化財に指定されています。元寇の文永の役、弘安の役は勅使が見え、南北朝の頃には征西将軍・懐良親王の御祈願など、古記録や宝物も多数残っています。
社殿は、安永7年(1778)、延岡藩主の内藤政脩により立替えられたものです。拝殿は、唐破風千鳥破風付。本殿は、切妻平入の千木外削、鰹木9本。九州南部を代表する大規模な五間社流造銅板葺の建築で地方色も顕著に有しています。平成16年(2004)7月6日には国指定重要文化財に指定されています。本殿の東側脇障子の彫像は、当宮の御祭神、三毛入野命が霜宮鬼八荒神の足を捕まえて退治されたものです。荒神どもを平らげ農業や産業の道を拓かれた三毛入野命、厄祓いや産業農業の神としても深い信仰があり、鬼八退治にちなんだ「猪懸祭」は12月3日に行われ、神道祭祀の原形をとどめた故事として有名です。鬼八塚は町内に三ヶ所あり、そのなかの首塚は現在の旧ホテル神州の東北にあります。また、西側脇障子には、事勝国勝長狭神と大年神を祀る稲荷社が鎮座しています。
本殿東側に祀られている鎮石は、第11代垂仁天皇の勅命により我が国で初めて伊勢神宮と高千穂宮が創建せられた際、用いられた鎮石と伝えられています。尚、往古、関東に鹿島神宮を御社殿造営の際、高千穂宮より鎮石が贈られ、同宮神域に要石として現存しています。またこの石に祈ると人の悩みや世の乱れが鎮められると言われています。
本殿向かって左側には荒立神社・四皇子社が鎮座しています。荒立神社は、猿田彦大神と天鈿女命の夫婦神。四皇子社は、神武天皇、五瀬命、稲氷命、三毛入野命を祀っています。拝殿前の夫婦杉は、根元がひとつになって如何なる事があっても別れることのない形を現しています。夫婦杉の廻りを手をつないで三回廻ると、夫婦、友人など共々、仲睦まじく家内安全で子孫は繁栄の三つの願いが叶うと伝わっています。
高千穂、そしてその総社としての高千穂神社を広く知らしめているのが国の重要無形民俗文化財に指定されている夜神楽です。高千穂では11月中旬から翌年の2月まで各神楽宿にて夜神楽が催行されます。夜神楽は、氏神を神楽宿に招き入れる「舞入れ」から始まり、33番の神楽を舞います。高千穂神社では、11月22~23日にかけての「神話の高千穂夜神楽」で奉納、神楽殿で夜を徹して高千穂の夜神楽の全33番が奉納されています。又、年間を通じて観光用に33番の中から「手力雄」・「鈿女」・「戸取」・「御神体」の4番が神楽殿で実演されています。
旧暦の12月3日に行われる猪々掛祭は、鎌倉時代から伝わる霜除神事で、この祭典で奉納される神楽は「笹振り神楽」といわれて高千穂神楽の原型とされています。神代かみよの昔、荒振神の鬼八を十社大明神が退治しますが、鬼八の霊は何度も生き返り、早霜を降らせて作物を害します。そのため、鬼八の好物である猪1頭を神前に捧げて鬼八の霊を慰め、五穀の豊穣を祈ったとされています。この祭りで炊いて供える新穀の器は、天正年間のもので、この猪々掛祭のみに使用される木の鉢です。
天孫降臨の地
「地上界の無秩序に心を痛めた天照大神(アマテラスオオミカミ)は、孫(天孫)である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に、「地上界に降りて国を治めるように」と命じた。命じられるままにニニギノミコトは多くの神を従え地上に降りるが、辺りは立ち込める雲のために真っ暗で何も見えずに困っていた。そこへ大クワ・小クワと名乗る里の二人が出現、「ミコトがお持ちになっている稲穂から籾を取りそれを四方に撒けば、きっと晴れ渡ることでしょう。」と言う。その言葉に従って、籾を四方に撒いたところ、みるみるうちに雲は晴れて空は明るくなり、太陽と月が輝き始めたという。こうして、この地は「智穂」、そして「高千穂」と名付けられた。
「高千穂」は古事記や日本書紀そして風土記に、天孫降臨の地としてその名前が出てくるが、実は宮崎県には「高千穂」の名がつく場所がもう一つある。「高千穂峰」だ。かの本居宣長も、史書に書かれているのは、一体どちらの「高千穂」なのか頭を悩ませたという。
今回の記紀旅の最終目的地高千穂
高千穂神社では観光夜神楽が毎夜行われているとのことで夕食後に高千穂神社へ、普段は1時間程度に何話かだけを披露してるようです。満席で150名ほど入れる神楽殿ですがこの日は20名程度、コロナ終息して一日も早くこの場が満席になることをお祈りしてきました。
「高千穂の夜神楽」
この高千穂で秋の収穫が終わると、高千穂の村では氏神様のお祭りが始まります。高千穂の村まつりは秋の収穫への感謝と翌年の五穀豊穣を祈願して、氏神様を神楽宿と呼ばれる民家や、公民館などにお招きして、夜を徹して33番の神楽を奉納します。
昭和53年に「高千穂の夜神楽」として国の重要無形民俗文化財の指定を受けており、毎年11月中旬から翌年2月上旬にかけて、町内20の集落で奉納されます。「高千穂の夜神楽」は神楽を愛し神々への信仰を失わなかった高千穂の里人によって守られてきた伝統芸能です。
神楽のルーツ
高千穂の夜神楽は日本神話の天岩戸神話の中で天照大御神が天岩戸に籠もったさい、その前で天鈿女命が舞を舞ったことが起源だと伝えられています。
夜神楽の歴史
平安末期から鎌倉時代かけて成立したと言われている高千穂の夜神楽は約800年ほど歴史のあるものです。江戸時代の末頃まで高千穂神社の神職がほしゃとして伝承し、神社で奉納してきたと考えられています。今日のような33番に整えられ、高千穂では地区ごとに代々誇りをもって神楽を伝え舞いつないできました。
夜神楽33番
夜神楽の舞手は奉仕者という意味から「ほしゃどん」と呼ばれます。33番は観音様は33の仮身により人々を救うという思想によるものと言われます。
夜神楽33番
1 彦舞(ひこまい)
2 太殿(たいどの)
3 神降(かみおろし)
4 鎮守(ちんじゅ)
5 杉登(すぎのぼり)
6 地固(ぢがため)
7 幣神添(ひかんぜ)
8 武智(ぶち)
9 太刀神添(たちかんぜ)
10 弓正護(ゆみしょうご)
11 沖逢(おきえ)
12 岩潜(いわくぎり)
13 地割(ぢわり)
14 山森(やまもり)
15 袖花(そではな)
16 本花(ほんばな)
17 五穀(ごこく)
18 七貴神(しちきじん)
19 八つ鉢(やつばち)
20 御神体(ごしんたい)
21 住吉(すみよし)
22 伊勢神楽(いせかぐら)
23 柴引(しばひき)
24 手力雄(たぢからお)
25 鈿女(うずめ)
26 戸取(ととり)
27 舞開(まいひらき)
28 日の前(ひのまえ)
29 大神(だいじん)
30 御柴(おんしば)
31 注連口(しめぐち)
32 繰下し(くりおろし)
33 雲下し(くもおろし)
久しぶりの雨でしたが、どうしてもお参りしたくて伺いました。
静かな境内に入ると、落ちてくる雨粒さえも私を出迎えてくれているように感じました。
今回は病気平癒と快復の御礼のためお参りさせて頂きました。
鉄製の狛犬さまは、修理の為まだおでかけ中でした。
高千穂の杜は、いつ来ても心穏やかにさせてくれます。
拝殿
守護矢
手水舎
狛犬さま
森の守護神のようです
裏参道に新設された手水舎
裏参道の大きな切り株
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