たどかんのんどう
多度観音堂のお参りの記録一覧
多度大社からの帰りにあわせてお参りしたいと思ったのですが・・・
工事中でちょっとお参りが困難。
稲荷神社とあわせてまたいずれ伺いたいと思います。
天平宝宇7年(763)多度大社の東、鷲の倉の地に満願禅師が道場を開き、杖六の仏像を安置して礼拝、修行をしていました。ある夜、多度大社の神託を受けて、堂搭の建立を発願し、各地を勧進して浄財を募ってこの地に堂を建立しました。そして神像を祀って多度大菩薩と号していました。その後、郡主水取月足から鐘楼と銅鐘の寄進を受け、また美濃の近士県主新麻呂から三重の搭の奉納を受けるなど寺院の基礎が出来上がりました。
~札番 第33番 多度観音堂のサイトより抜粋
お堂を開けて十一面観世音菩薩を拝ませて頂く事ができます。
後からサイトを見て知りましたが、御朱印場所は多度大社受付とありました、残念です😅
多度観音堂は、多度大社の神宮寺であった法雲寺が明治時代初めの神仏分離令により廃寺になったのち、多賀大社の御手洗い川、落葉側の畔に建立された堂宇。本尊・十一面観世音と千手観世音を併せて安置している。伊勢西国三十三所観音巡礼33番札所。
廃寺となった法雲寺は、長い歴史と由緒がある寺院で、奈良時代の763年に満願禅師が創建、平安時代の839年には天台の別院とする旨の勅命が下り、849年には真言の別院とされ、905年に延喜式では「法雲寺を以って伊勢国准国分寺に列する」とされている。戦国時代の16世紀中ごろには寺院70余、僧侶300余を抱えるに至っている。その後、1570年ごろに長島の一向一揆が起こり、柴田勝家らが進攻して、多度大社とともに兵火で焼失したが、江戸時代になると桑名領主の本多忠勝や松平定勝に支えられ再興している。明治時代の初めに神仏分離令により法雲寺は廃寺。それでも観音堂はまもなく再建された。その後洪水により流失するなどしたが、昭和の1963年に現在地に再建されている。
当堂宇は、多度大社の豊明殿から伸びる下りの坂道の途中左側に入口があり、少し高い場所に建物が立っている。当日は、多度大社参拝のおまけ程度に思っていたが、<伊勢西国三十三所観音巡礼>のサイトで由緒を知ってびっくり。世が世ならすごい寺院であったことが分かり、嬉しい発見となった。
※御朱印未入手。
観音堂入口。観音巡礼の旗が立っているので分かりやすい。
階段が短い参道になっているが、ちゃんと奉納旗が立っている。
観音堂の建物には、五色の寺院幕が引かれている。
十一面観世音(左)と千手観世音(右)。十一面観音菩薩立像は南北朝時代前後の作、千手観音菩薩立像は平安時代初期の作とのこと。いずれも多度大社の神宮寺・法雲寺と関連すると考えられている。(^▽^)/
多度大社の横の参道を下ると観音堂がありました。お隣には稲荷神社⛩さん
多度神宮寺に由来する御堂で、本尊の十一面観音菩薩及び千手観音菩薩と、開基した満願禅師像が安置されています。
本堂の扉を開けてお参りさせて頂きました🙏
伊勢西国三十三観音霊場、第三十三番札所
御朱印は多度大社さんで書き置きが頂けます。
御本堂
伊勢西国三十三所霊場のQRコードがありました。読み取ってみたけど使い方分からない😰
疎いんです😵💦
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