たどたいしゃ
多度大社
三重県 多度駅
受付/8:30~17:00
伊勢国(三重県)北部、古来、神が坐します神体山と仰ぐ多度山(標高四〇三メートル)の麓に御鎮座する当大社は、御創祀は定かではないが、山中に遺された数多の磐座・御神石から推して、神代の古に遡ることが出来る。
社伝によれば、雄略天皇の御宇に社殿が造営され、天平宝字七年、満願禅師によって神宮寺が創建、その後『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』が牒上されるに至り、伊勢国の准国分寺と目される程の壮麗な伽藍が造営された。
皇室の御敬神の思召しは並々ならず、国史には延暦元年十月に従五位下に叙せられたとの記述(『続日本紀』)に初見され、以降正二位にまで累進し、『延喜式神名帳』では、霊験著しい神に、朝廷が臨時に祈願を捧げる名神祭を受ける「名神大社」に列し、以降累々幣帛が奉られた。
更に、後一条天皇、鳥羽天皇、六条天皇の御即位に際し、御一代一度の大神宝使の御差遣を忝うし、全国有数の神社と仰がれた。
また、後白河法皇が編纂した当時の流行歌謡(今様)を編纂した『梁塵秘抄』にも、関(滋賀県 逢坂の関)以東の軍神の一社として唄われる等、非常に隆盛を極めた。
中世に入ってもその信仰は衰えることなく、弘長元年神階は正一位を極め、平家を始めとする武家の篤い信仰を受けていた。
然しながら元亀二年、織田信長の長島一向一揆平定の際、兵火に罹り、美濃国(現在の岐阜県)赤坂山に御動座になり、御社殿を始め神宮寺など全ての御建物と、歴朝より賜った神位記・御神宝・諸記録の全てが灰燼となり、広大な神領地も烏有に帰した。
近世、江戸時代に入ると、桑名藩主本多忠勝公より莫大な寄進を受け、慶長十年に御社殿が再興され、以降別宮以下摂末社、年中の恒例祭儀も漸次復興され
”お伊勢参らば お多度もかけよ
お多度かけねば 片参り”
と謡われる程の復興を遂げた。
以降歴代桑名藩主の産土神として格別の御崇敬が寄せられ幕末に至った。
近代に入り、明治六年、県社に列格され、大正四年、大正天皇御即位に際し、一躍國幣大社に昇格し、以降御例祭を始め恒例、臨時の幣帛が奉られ、祭祀が執り行われた。
大東亜戦争後、明治以来の社格制度は廃止されたが、現在でも地元を始め全国から厚い崇敬を受け、境内には、本宮、別宮、摂社末社等十二社を数え、年中七十数度の恒例祭儀を斎行申し上げ、皇室の御安泰を始め、遍く氏子崇敬者の日々の平安を祈願申し上げている。
帰りに桑名の菜花の里でイルミネーション見てから帰ってきました。お客さん少なかったです
【伊勢国 式内社巡り】
多度大社(たど~)は、三重県桑名市多度町にある神社。式内社(名神大)で、伊勢国二之宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。主祭神は天津彦根命(あまつひこね;天照大神の第3子)。伊勢神宮との関係が深く、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」とも詠われ、「北伊勢大神宮」、「多度大神宮」とも称された。
社伝によると、創建は雄略天皇の御代とされ、社殿背後の多度山を神体山としていた。奈良時代の763年に僧・万願により神宮寺が創建され、平安時代の863年に神階が正二位に昇格した。927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「伊勢國 桑名郡 多度神社 名神大」に比定されている。その後、伊勢国二之宮としても崇敬され、神宮寺は伊勢国の准国分寺とされた。
中世には国司・北畠氏に保護されたが、戦国時代の1571年、織田信長の長島一向一揆平定の際に、命を受けた大垣城主・氏家卜全により当社本宮、摂末社、神宝、古記録、神宮寺の伽藍が全て焼き払われた。のち1605年に桑名藩主・本多忠勝により再建された。明治時代に入り、県社に列格、のちに国幣大社に昇格した。
当社は、養老鉄道・養老駅の西方2kmの多度川の北岸、多度山の麓にある。車だと県道26号線から逸れ北上して境内南端に到着するが、鳥居や社号標の建ち方からすると東方からの参詣路をたどるのが正式みたい。鳥居をくぐって広い階段を上ると、中央が広場となっている社務所や参集殿等大きな建物が立ち並ぶ場所に出るが、その後、やや細めの参道を100mほど緩やかに登って行くと最奥の多度両宮、別宮に到着する。後半部分は大社といっても大きな建物などはなく、むしろ簡素な建物で古式を継承しているようにも思われる。
今回は、式内社、伊勢國二之宮、旧国幣大社、別表神社であることから参拝することに。参拝時は平日の午前中で、まだ1月上旬と言うこともあり、初詣客を含め割と多くの人が参拝に訪れていた。
当社から2kmほど離れた、県道26号線上にある<大鳥居>。
県道26号線から逸れ、当社まであと300mの位置にある、もう一つの<大鳥居>。
南側から見た境内全景。鳥居や社号標がないので不思議な雰囲気。
上記写真左端に北向きに建つ末社<鉾立社>。
左手に見える大きく立派な樹木が<御神木>。
御神木の裏手に用途の分からない、不思議な建物が建っている。後で調べたら<多度祭御殿>といって、当社の<上げ馬神事>の際に、馬に乗った騎手がこの坂を頂上まで駆け上るのを間近で見物する場所とのこと。なるほど!
階段を見上げると、やっと<鳥居>が見える。
階段の右手には奉納酒が。地元桑名多度・細川酒造の「上げ馬」、桑名・後藤酒造場の「青雲」四日市・伊藤酒造の「日本華」などが並ぶ。
階段を登り鳥居をくぐった先にある<新宮社>。広場の中央という面白い位置に鎮座。
新宮社に向かって左手にある<神馬舎>。扁額には大きく「奉幣馬」と書いてあって、なにやら動くものがいる...(^_^;)
近づいてみると本物の馬が。「錦山号」というのかな?立派な白馬。
餌をあげることもできるみたい。
神馬舎の左隣にある<藤波社>。左隣はさっきの当社神事の<多度祭御殿>。
鳥居をくぐってすぐ右側にある<神輿殿>。
神輿殿の左隣には<休憩所>。
休憩所から山方向を見ると、左側にはずらっと建物が並ぶ。左に見えるのは<参集殿>、その奥が<儀式殿>。
左側の建物の裏手にある<豊明殿>。結婚式場やお食事処みたい。
豊明殿の左脇にひっそり建つ<一挙社>。一言主命が祭神で、一つ願いを聞いてくれる。事前に境内図を見ていなかったら絶対に見逃す配置...(^_^;)
広場の中心に戻って、新宮社の後ろに建っている<縁起物授与所>。
神馬舎の右側に建っている<雨宮八幡社>。
雨宮八幡社の右側にある<手水舎>。
手水舎前から見た山側の様子。
手水舎から振り返った様子。御朱印はこちらの建物<儀式殿>の中にて。
それでは、やっとのことで参道を進み始める。
鳥居をくぐって、すぐ右側にある<授与所>。
参道を進んで、左側にある<宝物殿>。
参道左側にある<筆塚>。
参道左側にある<吉利支丹灯籠>。
参道は徐々に登って行く。
こちらは「神馬」の扁額が掛かっているが、境内図の名称は<白馬舎>。普通に造り物の馬が置かれている。
さらに階段を登る。
参道左側にある、末社<皇子社>。
最後にもう一段登る。その先に、本殿の神域入口である於葺門(おぶきもん)が見える。
鳥居をくぐってすぐ右側にある建物。臨時の授与所かな?
参道右側にある、ロープで仕切られたエリア。祈祷台のようなものがあるので、何か神事をするのかな?
参道左手にある<招魂社>。
参道左手にある<美御前社>。女性の美に関する願いを叶えてくれるとのこと。
於葺門をくぐってすぐ左側にある<神明社>。
前方を望むと橋があり、その先に左右2つの建物が見える。
橋を渡る際に左側を望む。
まずはじめに現れるのは、右側に建つ<別宮 一目連神社本殿>。
<別宮 一目連神社本殿>全景。
左側に向かうと、建物の手前に磐座のような岩。
そして磐座の奥には<本宮 多度神社本殿>。
<本宮 多度神社本殿>全景。
想像したよりは大きくなくて若干拍子抜け。その分、商業的にならず昔の信仰の姿をとどめているようにも思えて好印象。(ただ初詣は大混雑では...汗)
参詣の渋滞防止のため、行きと帰りで通路が分かれている。左側通行キープで緩やかな坂道をゆっくり下って行く。
坂道の途中にある<御手洗所>。清らかな水が流れている。
儀式殿で御朱印を拝受し、豊明殿の脇から坂道を下りていくと<多度稲荷神社>という神社に出るが、そこで正式な<鳥居>と<社号標>を発見。昔はこちらが正式な参道だったということなのかな。 (^▽^)/
旧東海道沿いの神社であり、桑名市にあります。桑名市は東海道の宿場町として栄えました。風待ちして海を七里ほど渡すと熱田神宮に到着するという立地です。
多度町は合併により桑名市になりました。そこにあるのが多度大社です。
お伊勢さんへ行ってここへ行かないと「片参り」と言われる多度大社。ちょうちん祭りの準備中でした。
地形を利用して作られている神社で、拝殿を通り越してから階段を登り深いところにある本殿へとたどり着きます。本殿のすぐ前には滝と川が流れており社殿の保存が大変とのこと。雨乞いをお祈りする神社でもあることから、水との関わりがあるのだと思います。途中には「多度雨宮」の額もあります。
神社には神馬が飼われていて可愛いです。この神社は5月になると「上げ馬神事」というお祭りが行われます。急こう配の坂に向け離れたところから勢いをつけて馬を走らせるというものです。この出来具合によってその年を占うというもので、桟敷席からみんなで馬を応援します。
さすがの三重県。どの社殿も神明造。鳥居はほとんどが伊勢鳥居でした。出雲の出身からするととても新鮮でした(笑)
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