ぎおうじ|真言宗大覚寺派|高松山
祇王寺のお参りの記録一覧(2ページ目)
あだし野念仏寺を後にして、来た道を引き返し、まずは祇王寺へ。
HPに12月10日から苔庭の散り紅葉を片付けているとの情報が掲載されていたので、
残念ながら苔と散り紅葉の共演?は見られなかった。
【「指詰めの芸者」傷つきながらも四つの時代を逞しく生き抜いた、中興の祖を偲ぶ名刹】
『平家物語』に語られる悲恋の白拍子・祇王と仏御前たちがここに庵を結んだと、由緒に伝える名刹です。
うまく言語化できないのですが、
ここは恋人や友達や家族と一緒に来るより、
ひとり心静かにお参りする方がいい気がします。
おそらく、悲しみ傷ついた女性たちを迎え入れて来たというこの寺の歴史が、そのような雰囲気を醸し出しているのではないかと思います。
今は美しい苔と紅葉を誇る名刹として知られている本寺ですが、一時は荒廃を極めたそうです。
しかし、中興の祖・高岡智照が昭和10年頃より庵主となって以来、本寺は傷ついた女性たちの心の拠り所として評判を集め、復興していったそうです。
彼女は12歳の時父親に騙されて売られ、芸者となり、14歳で水揚げされました。
15歳の時には、情夫に愛を証すため小指を詰めました。
「指詰の芸者」としてのスキャンダル性と、その美貌が評判を呼び、芸者として人気を博したようですが、その後も結婚、自殺未遂、出産、再婚と波乱万丈の人生を歩み、ついに39歳のときに久米寺で得度し、尼としての人生をここ祇王寺で歩み始めたのでした。
青、紅、黄。色とりどりの葉と、ふくよかな苔。
傷つきながらも、98年の人生を逞しく生き抜き、女性たちに寄り添って来た中興の祖に想いを馳せ、
墓前に手を合わせて来ました。
五十年の 夢とりどりの 落ち葉かな
智照尼
苔と紅葉の名刹
智照尼の墓前に手を合わせました
智照尼について
苔生しています
祇王寺の木々について
苔ざんまい
もしゅいん…?
以前訪れたのは20年以上も前。
苔が美しい季節に訪れたのは初めて。
平家物語の悲恋の尼寺。
このお庭を日々眺め、祇王は何を思っていたのか…このささやかではあるけれど、美しいお庭が心の慰みになっていたのならいいな。と思いながら手を合わせました。
Mossでできた御朱印アートのモシュ印
苔テラリウムでお寺とお庭を再現しコケ寺リウム
悲劇の白拍子・祇王ゆかりのこちらへ。小さな庵だが、平清盛の供養塔や木像、吉野窓など見所が多い。そして、苔の庭がとにかく素晴らしい。
清盛の心変わりにより、祇王が妹の祇女、母親の刀自とともに出家入山したのがここである。「萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋にあはではつべき」は、祇王が都を去る時に書きつけた歌とされ、歌碑が散策路にある。
庭の傍に建つ草庵には仏間が設けられ、本尊大日如来、清盛、祇王、祇女、刀自。そして、清盛が祇王の次に寵愛した愛人・仏御前の木像が、それぞれ安置されている。また、瀬戸内寂聴の小説『女徳』のモデルで、芸妓をしていた頃、情夫への義理立てに小指をつめた話で知られる庵主・智照尼の墓も境内にある。
秋はつるべ落としのようにいきなり暗くなってしまいます。
ここへ行った時もそうで、昼過ぎから向かったのは失敗でした。
帰り、ドンドン暗くなってゆき焦って有名な竹藪の道を下りていきました。
祇王寺に行った時は静かで誰も参拝には来られなかった。まぁ、2004年の情報なので古いですが・・・(苦笑)
だからか、その静寂さが当時を思い起こせて「きっと当時は夜になると一歩も歩けないほどの闇だったろうに」と思い、失恋してこんなところに籠っていたのではおかしくなりそうだが、読経などで精神を安定させていたのだろうかと思いましたね。
秋になると当時も人の溢れる場所でしたが、この日は紅葉には早い時期だったので静かだったのかもしれませんね。
吉野窓
宝筐印塔 正面向かって左の宝筐印塔が祇王、祇女、刀自の墓。右の五輪塔は清盛公の供養塔で、いずれも鎌倉時代に作られたものです。
京都府のおすすめ2選🍁
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。
ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ
3
0