うめのみやたいしゃ
梅宮大社京都府 松尾大社駅
社務所:09:00〜17:00
御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳にお書き入れ | |||
御朱印帳 | |||
駐車場 | あり |
京都市右京区にある神社です。
もとは橘氏の氏神を祀る神社だそうです。
祭神は酒解神。お酒造りの守護神です。
橘氏?だれ?
私はこの神社をお参りして初めて知りました。四姓について。
四姓は、簡単に言うと天皇からその姓を与えられた氏姓(うじかばね)の代表的なものだそうで、源朝臣、平朝臣、藤原朝臣、橘宿禰(朝臣)の四姓です。
橘はその中でも2番目に古い歴史をもっています。
そうとう位の高い氏だということですね。
ちなみに1番古いのは藤原氏です。
もとは山城の国に建立されたものの、平安時代前期に橘嘉智子(檀林皇后)によって現在地に遷座されたそうです。
橘嘉智子には子がなかったが梅宮神に祈願したことで皇子を授かったといい、その伝承に因んで現在も子授け・安産の神としても信仰されています。
神苑もあります。
1月1日 歳旦祭
1月6日 若宮社例祭
2月11日 甘酒祭
3月第1日曜日 梅産祭
4月中酉日 献酒祭
5月月3日 神幸祭(梅宮祭)
5月10日 仁明天皇例祭
6月第3日曜日 壇林皇后例祭(あじさい祭)
6月30日 夏越祭
8月第2日曜日 清友公例祭(七夕祭)
8月最終日曜日 嵯峨天皇例祭
11月上卯日 醸造祈願祭
12月19日 護王社例祭
12月31日 年越之大祓・除夜式
毎月1日・15日 月次祭
当社は今から凡そ千三百年前、橘氏の祖・諸兄(モロエ)公の母、県犬養三千代(アガタイヌカイミチヨ)が、橘氏一門の氏神として始めてお祀りした神社です。その鎮座の地は山城国相楽郡井出庄(ヤマシロノクニソウラクグンイデノショウ)すなわち、今の綴喜群井出町付近であったと伝えられています。
其の後、天平宝字年中、千二百五十年ばかり前に、聖武天皇の妃・光明皇后と藤原武智麻呂〔ムチマロ)夫人の牟婁(ムロ)女王が奈良の都に御遷座になり、更に泉川(木津川)の上流かせ山を経て平安時代の始め、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(タチバナノカチコ<檀林皇后>)によって現在の地に遷しまつられました。当時、皇后は親しく行啓して盛大な祭儀を行われましたが、神前で雅楽が奉納されましたことは、此の時を最初の例とし以来、梅宮祭は四月上の酉の日に行われ、雅楽祭の名を高めました。
仁明(ニンミョウ)天皇は、千百五十年ばかり前、承和年中にこの祭を特に名神祭という国家の主要な神祭の中にお加えになり、醍醐天皇の御代に定められました延喜式(エンギシキ)では、国家の制度にのっとり、名神大社というもっとも高い格式に置き、祈年祭(トシゴイマツリ)・月次祭(ツキナミサイ)・新嘗祭(ニイナメサイ)には朝廷からの幣帛(ヘイハク)を新饌台(シンセンダイ)の上に載せて奉るという、案上の官幣と呼ばれる最高の儀礼をもってまつられることになりました。
更に日本中で特選された二十二の大社の中に加えられ、明治の初めには官弊社に列せられました。
相殿四座がおまつられになりましたのは、文徳(モントク)天皇の仁寿年中で、千百年ばかり前のことです。
代々橘氏の長者がお仕へしていましたが、県犬養三千代夫人が橘氏の祖でありますと共に、藤原不比等公の夫人となられました御関係から、藤原氏の摂政又は関白の家筋の方が橘氏長者を代行され、此の神社に藤原氏の氏神の春日神社と同様の崇敬を捧げられました。
このように橘氏は橘・藤原の二氏が長者となりましたので、特に此の氏(橘氏)に限って長者の事を是定(ゼジョウ)と呼ばれていました。もって橘氏の家格の尊さと梅宮大社の神威の偉大さがうかがわれます。
名称 | 梅宮大社 |
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読み方 | うめのみやたいしゃ |
通称 | 梅の宮神社 |
参拝時間 | 社務所:09:00〜17:00 |
参拝にかかる時間 | 15分 |
参拝料 | なし |
トイレ | あり |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | あり |
電話番号 | 075-861-2730 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://www.umenomiya.or.jp |
絵馬 | あり |
二十二社 |
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ご祭神 | 《主》酒解神,酒解子神,大若子神,小若子神,《配》嵯峨天皇,仁明天皇,橘清友,橘嘉智子 |
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創建時代 | 奈良時代 |
創始者 | 県犬養三千代 |
本殿 | 三間社流造 |
ご由緒 | 当社は今から凡そ千三百年前、橘氏の祖・諸兄(モロエ)公の母、県犬養三千代(アガタイヌカイミチヨ)が、橘氏一門の氏神として始めてお祀りした神社です。その鎮座の地は山城国相楽郡井出庄(ヤマシロノクニソウラクグンイデノショウ)すなわち、今の綴喜群井出町付近であったと伝えられています。 其の後、天平宝字年中、千二百五十年ばかり前に、聖武天皇の妃・光明皇后と藤原武智麻呂〔ムチマロ)夫人の牟婁(ムロ)女王が奈良の都に御遷座になり、更に泉川(木津川)の上流かせ山を経て平安時代の始め、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(タチバナノカチコ<檀林皇后>)によって現在の地に遷しまつられました。当時、皇后は親しく行啓して盛大な祭儀を行われましたが、神前で雅楽が奉納されましたことは、此の時を最初の例とし以来、梅宮祭は四月上の酉の日に行われ、雅楽祭の名を高めました。 仁明(ニンミョウ)天皇は、千百五十年ばかり前、承和年中にこの祭を特に名神祭という国家の主要な神祭の中にお加えになり、醍醐天皇の御代に定められました延喜式(エンギシキ)では、国家の制度にのっとり、名神大社というもっとも高い格式に置き、祈年祭(トシゴイマツリ)・月次祭(ツキナミサイ)・新嘗祭(ニイナメサイ)には朝廷からの幣帛(ヘイハク)を新饌台(シンセンダイ)の上に載せて奉るという、案上の官幣と呼ばれる最高の儀礼をもってまつられることになりました。 更に日本中で特選された二十二の大社の中に加えられ、明治の初めには官弊社に列せられました。
このように橘氏は橘・藤原の二氏が長者となりましたので、特に此の氏(橘氏)に限って長者の事を是定(ゼジョウ)と呼ばれていました。もって橘氏の家格の尊さと梅宮大社の神威の偉大さがうかがわれます。 |
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